トリックスターは着地しない 8


 目が覚めても、辺りは暗いままだった。抱きかかえた温い体に頬を擦り寄せ、アラミスは眠った振りをしようとした。
 彼の夜は明けていない。夜が明けるまでなら、この温もりを手放さなくていい。だが、そういった種類の優しさを彼女は持ち合わせてはいなかった。
 肩を揺さぶられ、肌寒さが胸元をさらった。渋々目を開ける。彼女はどこだろう。不格好に視線をさ迷わせるのを嫌って、アラミスは伏し目がちにして耳を澄ませた。気配を辿る前に手を掴まれる。その温もりに追い縋った。
「本当の貴方を教えてあげる」
 彼女はそっと繋いだ手を引いた。







「私の正体はわかった?」
 誰のクラスメートでもない生徒。
 だけどこの学園を熟知している。
 開いていた美術準備室。
 牢の鍵。
「新任の美術教師?」
「はずれ」
「じゃあバッキンガム塔の財宝を狙ってやってきた神出鬼没の怪盗」
「わかっててはずさないでください。ウザい」
「それも違うなら」
 暗闇の中で、アラミスは微笑む。
「僕の事が好きで好きで仕方ない、ただの女の子」
「バカ言うと放り出しますよ」
 彼女は繋いだ手を緩めた。アラミスは追わない。するとしばらくして、渋々彼女が戻って来る。解かれる前に素早くアラミスは指と指を絡めた。
「離さないで」
 向かう先は校舎だ。罵声や批難に身構えたが、彼女は居竦んでしまいそうなアラミスを強引に引っ張っていく。ひそやかなざわめきの中を、せめて毅然としてアラミスは進んだ。ふてぶてしく、傲慢にあるように。
 ツンと鼻をつく膠のにおい。キャンバス地と絵の具のにおい。手触りのやわらかな空気。そこにあるものを傷めないように和らげられた日差しの気配。
 彼女は美術室の鍵を開けた。アラミスは記憶の風景をなぞる。教壇、弧を描いて並んだ机、壁にかかったいくつもの絵画やデッサン用の塑像。
 彼女は繋いでいた手を、冷たく固いものに導いた。アラミスは解いた指で、複雑な凹凸を辿る。波打つ髪の形。細い顎と鼻梁、肩から胸への滑らかなライン。差し出すように、受け止めるように持ち上げた腕とは逆に、大きく広げられた背中の翼は片方だけだった。もがれた翼の尖った跡が指を刺す。
「これが壊れたと連絡を受けたので、修復に来たんです」
 台座には彼女のサイン、そして卒業制作の文字と去年の年号が、細い文字で刻んであった。
「……年上?」
「貴方より一歳」
「これは僕をモデルにしたの?」
「見えてない癖に適当な事を言わないでください」
「だってこれ……」
「私の造形は完璧です」
「同じことだよ。僕の美貌は完璧だもの」
「お前な……っと、やべ」
 呆れたため息は、彼女とは別の方向から聞こえた。
「ポルトス?」
 彼女以外いないと思い込んでいたから、ひどく驚く。アラミスは声のした方へ体を向けた。ポルトスの他にもうひとつ、苦笑するような気配がある。
「もしかして、アトスもいるの?」
「ああ」
 コツ、と落ち着いた靴音が近づいた。
「本当に見えてないんだな」
 居たたまれずに、アラミスは黙って目を伏せた。どう考えても、呼んだのは彼女だ。断罪される覚悟はできている。しかし彼女はそんなアラミスを、ふ、鼻で笑った。
「何を勘違いしているか知りませんが、本題はここからです」
 彼女の語尾に被せるように、荒々しい足音が近づき、ばさりと何かを押し付けられる。綴った紙束だ。かなり分厚い。
「ほらよ。お前の停学解除の嘆願書」
「…………え? 嘆願書って……」
「よく考えてみてください。貴方は誰?」
「僕は……」
「銃士隊アラミス。麗しき、みんなの憧れのアラミス様」
 歌うように、彼女がまくしたてる。
「そんな貴方が病魔に冒され、徐々に失われゆく光に怯えながら恋した相手は学園一の教師の恋人で、強引に迫った挙げ句失恋し、ついには失明までして自暴自棄になったら、さて周りはどうするでしょう?」
「見捨て……いたっ!」
 頭を叩かれすねを蹴られた。頭の方はポルトスだ。
「心配するんだよ、バーカ!」
 アラミスは笑おうとして、失敗した。
 痛くて涙がこぼれた。
「まったく、お前のせいでダルタニアンはとんだ魔性の女にされちまってるぞ。何せお前とロシュフォール先生に取り合われたんだからな」
「それから、傷心のアラミスを慰めたいと希望する女生徒が生徒会室や教室に押しかけてきて迷惑だ。なんとかしてくれ」
「なんで……?」
「まだ言いますか」
 頬をつねられた。彼にこんなことをするのは彼女だけだ。
「本当の貴方をわかってないのは、貴方だけですよ」
 窓の向こうがざわめいている。
 それが彼の名前を呼ぶ声であることに、彼はようやく気づいた。
「アラミス様!!」
 わっと集まってきた女生徒達にとりかこまれる。音が重なり過ぎて、個人の判別がつかない。
「ありがとう。心配かけてごめんね」
 それでも一人一人に微笑む彼は、いつものアラミスだった。支えていた小さな手が離れ、アラミスははっとして振り返る。
「―――――?」
 彼女の名を呼ぶ。
 返事はなかった。










2011/11/04 up



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