かくも甘き


 真剣で稽古したい、そう言ったのは彼女の方だった。
「練習用の剣だと、どうしても甘えが出てしまって」
 彼女が練習の度に生傷を増やすのは、彼女の上達の証だ。彼女はもう、トレヴィルが時折手加減を忘れる程に上達してきている。
「……あっ!」
 絡めとった剣の柄に、離すまいとした彼女の指がひっかかった。剣は不自然な方向に跳ね、滑った私の切っ先が彼女の腕を掠めた。
「すまない、ダルタニアン……! 大丈夫かい?」
「はい。かすっただけですから、大した事ないです」
 そう言いながら、利き腕に負った怪我を、不器用に手当する彼女を見かねて声をかけた。
「私に対して強がらなくていい。手当てをしよう」
 彼女はしばしトレヴィルを見つめた後、素直に頷いた。
「……はい、トレヴィル先生」






 彼女の部屋に入ると、その殺風景さに驚く。寮の部屋は勿論学園のものなので、調度の入れ替えや壁紙の張り替えなどは、特別な理由がない限り許可されないが、それ以外の思い思いの方法で居心地良く飾り付けるものだ。特に女生徒ならば、鏡や小物を飾ったり、壁に絵をかけたり花を飾ったりといった具合に。
 だが、彼女の部屋はほとんど転入初日のままだった。増えたのはそう、トレヴィルが貸した本くらいだった。
「……どうかしましたか?」
 辺りを見回す彼に、ダルタニアンが尋ねる。トレヴィルは首を振って愛想笑いを浮かべた。
「いや。よく整頓されているね」
「ありがとうございます。お世辞でも嬉しいです」
「………………」
 沈黙したトレヴィルを余所に、ダルタニアンは薬箱を取って来ると、申し訳なさそうに差し出した。
「お手を煩わせてしまってすみません」
「構わないよ。さ、上着を脱いで」
 黒い制服を脱ぐと、シャツの袖は真っ赤になっていた。運動の最中だったから、余計に出血したのだろう。トレヴィルが言う前に、ダルタニアンはさっさとシャツのボタンを外しはじめた。さすがに焦り、トレヴィルはやや大きな声で彼女を押し止める。
「ちょ、ちょっと待った! ダルタニアン、いくら教師とはいえ、私も男だよ。治療するのには脱いで貰わないといけないけど、せめてタオルか何かで隠しなさい」
「……あ、そうですね。すみません」
 少女の反応の淡泊さに唖然としつつ、トレヴィルは咳ばらいするとくるりと背を向けた。
「こうして私は後ろを向いているから、準備が出来たら声をかけて」
「わかりました」
 少女の声を聞き、トレヴィルは目を閉じた。視覚を塞いだ分、彼女がシャツを脱ぐ衣擦れの音や、痛みにそっと息を飲む声がすぐ近くに聞こえる。
「先生、お願いします」
 トレヴィルはひとつ深呼吸して、少女の方に向き直った。
 ベッドの上に浅く腰掛け、言われた通りにタオルで前を押さえたダルタニアンが、恥ずかしそうに俯いている。
 何か背徳的な気分になりかけて、トレヴィルは慌てて自制心を呼び起こした。
「じゃあ、手当てをするよ。凍みると思うけど、少しの間我慢して」
 こくん、と少女は声を出さずに頷いた。
 治療自体は大した事はなかった。消毒して化膿止めを塗り、包帯を巻く。5分もかからなかったと思うが、巻き終えた包帯をピンで留め、トレヴィルは詰めていた息を吐いた。
「これでよし、と」
「……ありがとうございました」
 ダルタニアンは目を合わせないまま礼を言った。礼儀正しい彼女らしからぬ態度だ。
「あの……服を着たいので、また後ろを向いてもらえますか?」
「あ……ああ」
 うって変わった態度に、トレヴィルの胸までが騒ぐ。再び後ろを向いて目を閉じると、先刻の学習を生かして出来るだけ物音からも意識を逸らした。
 と、ダルタニアンが声を上げる。
「先生……そのまま聞いてください」
 ダルタニアンは息を吸うと、ひと息に喋った。
「あの、……さっきはすみませんでした。先生は父の知り合いだし……学園に来てからずっと色々面倒を見て貰っているせいで、なんだか父といるのと同じような気になっていたんです。でも、さっき先生がおっしゃったことに気がついたら……」
 段々とか細くなる声に、耳をそばだてる。
「急に……恥ずかしくなってしまって……」
「…………」
 トレヴィルは目を閉じたまま、片手で口許を覆った。隠したその中で、小さく微笑む。
「私を男として意識した?」
「……はい」
「……素直だね」
「隠しても、きっと先生にはわかってしまいますから」
「………………ふふっ」
 目を開けて振り向くと、ダルタニアンは頬を上気させつつも、トレヴィルを真っ直ぐ見上げていた。いつもの顔だ。
「私は大丈夫だよ。君に不埒な真似なんてしないから。安心して」
「はい」
 信頼しきった笑顔を見た彼の中に、ひねくれ者の悪魔が顔を覗かせた。ふと、手を伸ばして彼女の頬に触れる。瑞々しい手触りを楽しむように数度、撫でた。
「でも、君に意識されたら私も君をひとりの女性として意識してしまうかもしれない」
「…………っ!」
「……なんて、冗談冗談」
 赤くなった少女の頬から手を離し、子供にするようにぽんぽんと頭を撫でる。
「今日はゆっくり休んで。早く怪我が直るといいね」
「は、はい。ありがとうございました」
 一礼するダルタニアンを一瞥し、トレヴィルは彼女の部屋を辞した。
 教員宿舎へ歩き始めてふと、指の背に拭い損ねた血の跡をを見つける。薄いくちびるを開き、彼はそれを口に含む。
 彼に嗜血症の気はない。
 だが女の血の味は、冷たい彼の血潮をわずかに高ぶらせた。



 ―――――甘く。



「……ふふっ」
 男はひとり笑う。
「復讐とは、かくも甘い」









2011/10/28 up



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