シェラザードのシエスタ




 借りた本を返しに、兄の部屋のドアをノックする。コンコン、と軽く二回。
「兄さん?」
 いつもなら「お入り、紗夜」と返ってくる筈の声が聞こえず、少女は首を傾げた。
 留守だろうか? 否、今日は一日家に居ると言っていたし、出掛けた気配は感じなかった。普段なら引き返すところだが、悪戯心を起こした少女は、ドアノブをそっと下げると音を忍ばせて兄の部屋のドアを開けた。

 兄の部屋はいつも、珈琲と古書の匂いがする。少女は書物机の方を覗いた。椅子の背もたれに体を預けた兄の背中が見え、少女はそろりと近づいた。いつ気がついて振り向くか、ドキドキしながらすぐそばまでやってきたところで、微かな寝息に気がついた。
(……寝ている?)
 髪が落ちないよう押さえながら、顔を覗きこもうと体を傾ける。
 ―――と、
「捕まえた」
「きゃっ」
 急に腰から抱き寄せられ、少女は兄の膝に尻餅をついた。といっても少女は軽い、小鳥のように。兄は妹を膝に抱え上げて悪戯っぽく笑った。
「寝込みを襲うなんて、はしたないぞ。紗夜」
「狸寝入りだったですね
 少女は頬を膨らませた。兄は笑いながら、ぷっくり膨れた桜色の頬をつつく。
「もうその本を読んでしまったのかい?」
「ええ」
 少女は兄の指を捕まえて、こくりと頷く。
「とても面白かったです。けれど、あの後黒鳥はどこへ行ったのでしょうか?」
「続きが気になるかい?」
 勢い込んで頷く妹に、兄は苦笑して頬杖をついた。
「お前は本当に、物語にばかり貪欲だね」
「どんな物語にも某かの意味があると思います。兄様の言葉はとても綺麗で、私はとても好きなのです」
「ありがとう、紗夜」
 兄は少女の手を取り、騎士の如くに甲へと口づける。
「ところで、もうそろそろお湯が沸くのじゃないかな。さっき、カップ麺を作るために薬缶を火にかけていただろう?」
「ああ、そうでしたね」
 少女は軽やかに頷いて、兄の膝から降り立った。動きに合わせて長い髪が揺れ、花の香りを部屋に振り撒く。
 机に向かう兄の姿をちらりと一瞥し、少女は踊るような足取りで厨房へと駆けて行った。




 インソムニアのスルタンに
 シェラザードは夜毎に謡う
 語り部姫の見る夢は
 木陰の下に揺れるシエスタ







2011/05/17 up









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