奈落の底へ


 初めて知った幸福を手放せなかった。愛する人を想い、笑顔を見て喜び、感情を分かち合い、傍にいるだけで安らいだ、あの満ち足りた至福を。

 もう散々だと思ったんだ。
 あの絶望を、こんな風に魂を引き裂かれるような痛みを味わう事など、もう二度と御免だと。

 
 復讐という手段をとることで、幸福を手放さずに、痛みの代償を求めた。
 復讐が終われば、この痛みは、憎しみは、絶望は消える。
 彼女への愛があれば、この幸福を手放さずにいられる。彼女はもう二度と失われないのだから。




 だからもう二度と、誰かを好きにはならない。
 誰も。
 誰も。
 

 コンスタンス、君以外は。












「私は、女の子じゃないのかもしれません」
 放課後のエトワール。
 暮れはじめた東の空に、二人で金星の姿を探していた時だった。
 泣き腫らした目を乾かすように、空ばかり見上げた彼女の言葉を、静かにトレヴィルは聞き返す。
「なに?」
「プランシェが言ってたんです。『毎日、楽しいことを追い求めないと女の子じゃない』って」
 女の子に生まれたからには恋をしなくちゃ!、ダルタニアンはそう言った友達の顔を思い浮かべた。
『だからさ、ダルタニアン。アタシたち、幸せになろうね。素敵な恋をして、今よりもっともっと幸せになろうね』
 プランシェはキラキラしてた。すごく幸せそうだった。眩しくて羨ましくて、頷いた。
「私は、父の仇を討ちたい。それだけでここまでやってきました。私の追い求めているのは復讐です。幸せになんて、なれない。まして、素敵な恋なんて」
 言うべき言葉を見失って沈黙したダルタニアンの肩を、トレヴィルはそっと抱き寄せた。
 空は夕暮れの茜色から白くにじむあわいを経て、群青色に塗り潰されようとしている。乾いた夜風に鼻の奥が冷たく凍みる。
「君はお父上を失って、その堪え難い痛みを復讐に求めた。それは、お父上と過ごした日々が幸福だったからだろう? 違うかい、ダルタニアン?」
 ダルタニアンは小さく首を振った。頬を寄せた髪が、さらさらと微かな音を立てる。陽射しの温もりが残るそれは、花のような甘い香りがした。
「君は幸せになるのが怖いんだ。幸せになってまた失って、同じ痛みを味わうことが」
「……そうかも知れません」
 彼女はくちびるを噛み締めた。
「アラミスさんやポルトスの事、いつの間にか好きになっていました。二人とも良い人で、友達で。こんな風に殺されていい人達じゃなかった……!」
 プランシェの、ロシナンテの、魂ぎるような慟哭が、今もどこかから聞こえる気がする。たった数ヶ月一緒にいた自分さえ、身を裂かれる程の悲しみを感じているのに、二人を心から愛していた彼らの悲しみは、どれ程深いだろう。
「先生、私、悔しいです。私に力がないばかりに、二人をも巻き込んでしまった。仇を討ちたいなんて、思ったばかりに」
 罪の意識と、理不尽さへの憤り。憎しみ。痛み。悔恨。がむしゃらな破壊衝動。
 少女らしい甘やかな感情など、自分のなかにはもう何処にも見当たらない。
 始めた復讐を終わらせる責任が、彼女にはあるのだ。彼女が築いた血と茨の道を、もはや引き返すわけにはいかない。
 そう、わかっているのに。
「でも、それ以上に怖いんです」
 ダルタニアンは震える肩を自分で押さえた。堪えきれない涙が、固く閉じた瞼から滲みだし、頬を伝う。
「先生まで殺されてしまったら、わた、私、」
「ダルタニアン……」
 トレヴィルは両腕で強く彼女を掻き抱いた。震えながら、何度彼女はここで泣いただろう。父の死に、友人の死に打ちのめされる度に、何度。
「私は死なないよ」
 こめかみに頬を擦り寄せながら、トレヴィルは繰り返す。
「絶対に死なない。約束する。だから、さあ、こっちを向きなさい」
 ダルタニアンは顔を上げた。
 泣き濡れた瞳に、昇りかけた月が映り込む。空はいつの間にか夜の帳に覆われていた。金星は彼らの視線をすり抜け、既に見えなくなっていた。
「君が絶望する度に、私が君を救ってあげる。何度でも、何度でも」
 その度に彼女の絶望は果てしなく深く、希望の灯はまばゆく輝くだろう。




 ―――その灯を吹き消すのは、私だ。




「こんな事ばかり言ってごめんなさい」
 しゃくりあげるのもようやく落ち着いたダルタニアンは、掠れた声でそう呟いた。
 トレヴィルは微笑んで、腕を緩める。
「気にしないで。私は君の最大の理解者であるつもりだからね」
 彼女の頬の涙を拭い、努めて明るい声で促す。
「夜風が強くなってきたようだ。部屋に戻ろう」
「先に行って下さい。私はこの顔をもうすこしなんとかしてから行きますから」
 赤く腫れた瞼を恥ずかしそうに右手で隠しながら、ダルタニアンは首を振った。
 細い肩に伸ばした手を、トレヴィルはそっと下ろした。
「ダルタニアン」
 代わりに、強く結ばれた拳をてのひらに包む。
「早くおいで」





 私と同じ奈落の底へ。





彼女という贄を捧げて
私は君を取り戻す

それともコンスタンス、君は
私とこの奈落の底へ
共に堕ちてくれるだろうか?










2011/09/07 up



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