明星


 波が砂浜に寄せ、細かな泡を残して引いていく。
 飽きもせず、繰り返し、繰り返し。
 それを同じく飽きもせず眺めている男がいた。
 周囲には酒瓶が林立している。しかし、いつもなら空のはずのそれらはひとつを除いて封も切られていない。
 下弦の三日月が、水平線の縁からその切っ先をもたげていた。
 悪魔の爪のような、細く、鋭い月。時刻は明け方に近い。
 暁闇、海風に吹かれ、波打ち際は凍えるように寒い。冬はもうすぐ傍まで迫っており、来週あたりには雪が降るやもしれない。そんな時節というのに、男は飽きもせず、波を眺めながらゴブレットを傾けた。琥珀色の蒸留酒を、普段なら水のように喉を鳴らして飲み干してゆくはずが、唇に触れただけで止める。
 俯いた目の前に、月光のような銀髪がざらりと零れ、男は鬱陶しげにそれを掻き上げた。
 数刻前、牢で言った自らの台詞を音もなくなぞる。
『私はとりあえず貴様が生きてさえいればそれでいい』
 すべては忠誠を捧げたリシュリュー枢機卿の御為だ。生気を無くして青褪めた顔が哀れだったからではない。それが気になったのは、あの娘が今にも死にそうだったからだ。鍵の在処を言わぬまま、死なれてしまっては困る。それだけだ。
 だが。
「……私は」
 声に乗せて、呟く。
「貴様が生きてさえいればそれでいい」
 ひとつ単語を落としただけで、それはまるで祈りの句のようだ。
 眠りを畏れるように、ロシュフォールは普段は浴びるように呑むはずの酒を遠ざけた。酷く寒い。だが、その方がいい。熱はあの娘を思い出させる。凍えぬように抱いた体を、その折れそうな細さと微かな温もりを、目を閉じれば思い出してしまう。
 夢などいらない。
 自分はただ、一振りの剣であればいい。主の前を守り、立ち塞がるすべてを切り裂くものであればいい。
 迷いはない。
 中身の減らないゴブレットを持て余したまま、男は波を見詰め続ける。
 やがて、星の光が淡くなってきた。東から昇りくる薄紅の曙光が、細い月の縁に迫る。
 研ぎ澄まされた切っ先の、そのすぐ傍で明けの明星が光った。
 金星は宵と明け、光と闇のあわいにのみ姿を現す。
 女神と悪魔、二つの名を持つ星。その輝きは、何かに似ていた。
 男は立ち上がった。呑まなかった酒瓶はそのまま、砂を払って歩き出す。砂丘の影に、凍死者のように青ざめたロシナンテが、毛布にくるまって蹲っていた。一瞥をくれただけで、あとは振り向きもしない。
 海を背に歩く男を、やがて朝日が照らし出した。
 射抜くように強い光は、男の銀色の髪を鮮やかに照らし、その背中を少しだけぬくめた。

 






2011/08/19 up



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