彼女が恋愛小説を読む理由 氷の欠片のような、細かな雪がちらついていた。前日が雨だったので積もりはしないが、地面のあちこちが凍ってしまっている。寮から校舎までの僅かな登校時間の間だけでも、無様に滑って転んだ者がいたという話で、それを聞いたダルタニアンは今日の剣の練習を諦めた。 代わりに、借りていた図書の返却期限が近いこともあって、図書室へ向かう。同じ事を考えた者は少なくないようで、図書室はいつもより人が多かった。 それでも、混雑しているという程ではない。ルーブル寮の遊戯室は充実しているから、大抵の生徒はそちらへ流れただろう。閲覧席にいるのは、大体が勉学に精を出している真面目な生徒ばかりだった。奥の方には、銃士隊隊長のアトスの姿も見える。 ダルタニアンは声をかけようとしたが、その手前で別の方向から声をかけられた。 「ダルタニアン?」 振り返ると、穏やかに微笑むトレヴィルの姿があった。少女は知らず花が咲き零れるような笑顔を浮かべる。 「トレヴィル先生」 「やあ、こんにちは。こんなところで会うのは珍しいね」 会うのは決まって授業か剣の練習ばかりなので、なんだか新鮮な気がする。 「本を借りに来たのかい?」 「はい。これの続きを探しているんです」 ダルタニアンは抱えていた小説を差し出した。薔薇色の装丁がされた薄い本だ。トレヴィルが興味深そうな素振りをしたので、ダルタニアンはそれを彼に差し出した。 「今、女子生徒の間でとても流行っている恋愛小説なんですよ」 「ふうん?」 ぱらぱらとめくり、しばらくしてトレヴィルの手が止まった。 「……これが流行っているのかい?」 「はい。大人気です」 「続きを借りたい、ということは、君、これを読んだの?」 「面白かったですよ?」 「……………………ふうん」 声色を少し変えて、トレヴィルは再び本のページに目を落とした。 ダルタニアンの顔と見比べる。 「こういうものに興味があるんだ。意外な気もするけれどね。人は見かけに寄らないっていうのかな」 「どういう意味ですか?」 「君が恋愛小説に興味があるとは知らなかった。しかも、こんな過激な」 揶揄うように言われ、少し考えて、ダルタニアンは唇を小さく綻ばせた。 「自分には縁がないから、と思うから尚更かも知れません」 すると、トレヴィルは驚いたように目を丸くした。 「私だって女の子ですから、恋愛に憧れる気持ちがないわけじゃありません。でも、今の私の目標は違うことだから」 父の仇を討つためだけにこの学園に入った。銃士隊の協力を得るために決闘を挑み、以後も日々鍛錬を続けている。恋をしたい気持ちはある。でも、できない。するべきじゃない。 「これを読むと、そういう欲求不満を解消できるんだと思います。だってこんな体験、現実では絶対にしなさそうだし」 「話だけ聞くとすごく美談に聞こえるんだけどね……」 如何せん、中身がアレである。 トレヴィルは苦笑して本を閉じた。 「なら、尚更恋をすればいい」 「え?」 「命短し恋せよ乙女、というだろう? 復讐なんてつまらないものに、貴重な青春を消費するのは勿体ないよ。忘れることができるなら、忘れた方がいい」 芸術教師は薄い唇を歪めた。 柘榴色した瞳の奥に陰鬱な翳りを見た気がして、ダルタニアンは差し出された本を受け取るのを躊躇う。だがいつまでも待たせるわけにもいかず、気の進まないまま本に触れる。 タイミングが悪かったのだろう。 トレヴィルが手を離す方が、少女が本を掴むより一瞬早かった。あっと思った瞬間、本が手の中から滑り落ちる。 「わっ」 「おっと」 両者の良すぎる反射神経がかち合った。ぱっと同時にしゃがみ込んだ一瞬、頬に柔らかい何かが触れ、ゴトンと割合重い音がして絨毯の上に本が落ちた。空を掻いた指を見詰めたダルタニアンは、呼吸をするのを忘れて隣を見遣った。 「失礼。大丈夫かい?」 何事も無かったかのように、トレヴィルは落ちた本を拾って差し出した。 逸る鼓動を押さえて、今度は慎重に本を受け取る。 「すみません。ありがとうございました」 きっちりとした礼をして、ダルタニアンは返却カウンターへ向かった。 続きを借りるのも忘れて、逃げ出すように図書室を後にする。 廊下を殆ど駆けるような早足で歩きつつ、頬を押さえた。 (触れたのはなに?) 彼女の頬の薔薇色が、触れた相手のそれに移ったのも知らずに、ダルタニアンは細かな雪の中を突っ切った。 2011/08/17 up back |