熱に酔う


 部屋に戻ったダルタニアンは、詰めていた息をほっと吐いた。濡れた自分の上着をテーブルに置き、先にトレヴィルから借りた上着を脱ぐ。
「いけない……」
 髪から滴った雨の滴で、襟の辺りが少し濡れてしまっていた。
 慌ててクローゼットから乾いたタオルを出してきて、濡れた部分にそっと押し当てる。染みにならないよう丁寧に水分を拭き取り、改めてハンガーに掛け直した。
 すこし見上げる位置に掛け、袖や裾の皺を伸ばす。ちょうど彼が目の前に立ったら、このくらいの高さだ。緋色の裏地をそっと撫で、抱きしめるように両腕を回した。
 先生の、においがする。
 葡萄酒と、蜜蝋と、糸杉の香り。
 と、そこで自分の髪がまだ濡れているのを思い出した。
「危ない……。また濡らしちゃうところだった」
 上着を体から離し、ダルタニアンは濡れた服を脱いでバスルームへ向かった。流石は上流学校、給湯設備がしっかりしているので、コックを捻ると熱い湯がすぐに蛇口から溢れてきた。湯の熱気が冷えた空気とぶつかり、白く濁って辺りを覆う。
 軽く汗を流して湯船に体を沈めると、意外なほど冷え切っていた体に熱がじんわりと染みこむのが感じられた。急に血行が良くなったせいで、すこしむず痒い。
 そのむず痒さに、ふと先程触れたトレヴィルの指の感触が甦った。冷たく滑らかな芸術家の指先は、ダルタニアンの頬を優しく撫でて離れた。
 トレヴィルは優しい。古い友人であったからか、たまに父に似ている。父もいつもは優しかったが、剣術の修練の時だけはいつも厳しかった。
(お父さん)
 あれから季節をひとつ跨ごうというのに、瞼を閉じれば最期の姿が鮮やかに甦る。悪魔の爪に引き裂かれた、無惨な傷痕。失われていった体温。こちらを見て微笑んでくれた優しい双眸は開くことなく、力強い腕は蝋のように硬く地面に垂れていた。嘆いても、胸にかき抱いても、穏やかな声音が慰めてくれることはない。
 代わりにそうしてくれたのは、あの場に居合わせたトレヴィルだった。あの時、彼の支えが無ければ、ダルタニアンはこのシュバリエ島に来ることも、仇を討つ為に立ち上がる事も出来なかったに違いない。
(先生には、助けられてばかりだな……)
 彼の真紅の瞳を思い出しながら、ダルタニアンはゆるゆると湯を掻き混ぜた。
 上着を返す時に、何かお礼をしよう。
 そんな事を思いながら、つい頭が前に傾く。
 眠い。
(駄目だ、お風呂で寝たら死ぬって誰か言ってたような……)
 首を振って眠気を払おうとするが、起きなくちゃ、という意識すら朧に霞んでいく。
(誰が言ってたん、だっけ……?)
 思い出す前に、ダルタニアンの意識は夢の淵へ滑り落ちていった。




 
 


 トレヴィルは足早にルーブル寮の廊下を歩いていた。
 先程、ダルタニアンに貸した上着。雨に濡れた少女に着せ掛けたそのポケットに、部屋の鍵を入れていたことを忘れていたのだ。所用を済ませ、自室の前に立って初めてそれに気づいた彼は、急いでダルタニアンの部屋に向かったのだった。
 夕食前なので、割と軽い気持ちで部屋のドアを叩いたのだが、しかし戻っているはずの少女の応答がない。何度か繰り返し呼び、訝しみながらノブに手を掛けると、なんと鍵が掛かっていなかった。
 年頃の娘の部屋だというのに、不用心に過ぎる。
 柳眉を僅かに顰めながら、トレヴィルはそっと部屋のドアを押し開けた。
 ふわり、と甘い香りがする。
 室内は明かりこそついていたが、無人だった。
 カーテンの向こうから、叩きつける雨と風の唸りが聞こえてくる。視線を巡らせると、クローゼットの脇のハンガーに彼の上着が掛けられているのが目についた。一応、部屋には戻っているらしい。
「ダルタニアン?」
 呼んでみるものの、返事はない。だが、バスルームの方になんとなく気配があった。ずぶ濡れだったし、シャワーでも浴びているのだろう。トレヴィルは丁寧に掛けられた上着を取った。ポケットを探ると、指先にチャリンと鍵が触れる。ほっとしたのも束の間、無言で取っていくのも気が引けて、声だけでもかけて行こうとトレヴィルはバスルームのドアをノックした。
「失礼。いるかい、ダルタニアン?」
 だが、やはり返事がない。シャワーで聞こえていないのだろうかとも思ったが、その割には水音がしていない。
「…………ダルタニアン?」
 嫌な予感がする。トレヴィルはノブを回してバスルームのドアを押し開けた。
 わっと湯気が溢れるはずが、流れてきたのは湿った温い空気だけだった。ぼんやりと照らされたバスタブの縁に、ぐったりと両手を垂らした少女を見つけ、トレヴィルはその傍に跪いた。

 ふと、暗い欲望が過ぎる。
 幾度も幾度もこの手に掛けることを夢見た相手の、無防備な姿。
 このまま、その細い頸に手を掛けて、バスタブの底に沈めてしまえば。
 苦悶に歪んだ顔で、空気を求めて手足をばたつかせて、やがて動かなくなる。
 その様を思い浮かべると、歪んだ愉悦がこみ上げてくる。
(だが――――)
 足りない。
 そんなものでは足りないのだ。一瞬で終わる死などでは、到底贖えない。
 ならば今はその誘惑を退けよう。
 より大きな悲劇の為に。痛苦の為に。絶望のために。

「ダルタニアン」
 空恐ろしいほど優しい囁きに、ブロンドの頭がぴくりと反応した。上着を放り出してバスタブに腕を突っ込んだトレヴィルの顔を、ぼんやりとした鳶色の瞳が瞬きしながら捕らえる。
「トレヴィル先生?」
 少女は状況をわかっているのかいないのか、平然とした顔で闖入者を見詰めた。
「ああ、すみません。うっかり眠ってしまいました……」
「うっかりって……。君、うっかりにも程があるだろう。死んでいるかと思ったじゃないか」
「大丈夫です。父の仇を取るまでは死ねません」
「………………」
 深い溜息をつきながら、トレヴィルは濡れそぼった腕をバスタブから引き抜いた。袖を捲る余裕などなかったから、肩までびしょびしょである。冷め切った湯船の面が払った雫でゆらゆらと揺れた。その向こうにあるなめらかな肌色も揺れたが、その輪郭を乱す程ではなかった。瑞々しい裸身を、少女は隠しもしない。美しく張りつめた、賞賛されるべき芸術的な曲線を前に、教師の倫理や道徳など紙も同然だった。
 うつくしい。
 思うと同時に、様々な欲求が彼の脳裏を駆けめぐった。
 見たい触れたい描きたい確かめたい。
 眩暈がするほどの誘惑。
 引き込まれ掛けた意識を、トレヴィルは危ういところで取り戻した。
「とにかく、風呂で寝ないように。もし私が来なかったら、溺れていたかもしれないんだよ?」
「すみません。以後、気をつけます」
「そうしてくれ」
 紳士的な振る舞いを取り戻し、トレヴィルは上着を拾いあげた。いくらか濡れているが、平静を装って袖を通す。
「あの、トレヴィル先生。……なぜここに?」
「貸した上着に、部屋の鍵を入れていたのを忘れていて、返して貰いに来たんだ。怪我の功名ってやつかな」
 振り返らずに、肩を竦めて見せる。実際は運が良かったのか悪かったのか、微妙なところだ。彼にとっても、少女にとっても。
 立ち去ろうとしたトレヴィルを、ダルタニアンは再び呼び止めた。
「あの、先生」
「……何?」
「袖、濡らしてしまって申し訳ありません」
「……いや、気にしないでいいよ。大したことじゃないさ。君が無事ならね」
 トレヴィルは小さく微笑みながら、肩越しに振り返った。バスタブに蹲った少女は、叱られた愛玩犬の如くしょんぼりと眉尻を下げている。うっかり情が動きそうになって、トレヴィルはそそくさとドアを開けた。
「悪いことは言わないから、風邪を引かない内にあがりなさい」
「はい」
「あの、先生」
 三度目である。
 トレヴィルは少々険を滲ませて振り返った。
「まだなにか?」
「お見苦しい姿を見せてしまって、失礼しました」
「…………次からは、部屋の鍵はきちんと掛けなさい」
 疲れ果てた一言を残して、彼はドアを後手に閉めた。


 
 


「……ぐぉ………ミレディ先生……むにゃ……」
「ちょっと! パトリックさん! 今日は寝られてもいいように出向いたけど、だからってわざわざ床に転がらないで下さいよ。踏みますよ!?」
 トレヴィルの脅しなど、夢の国に旅立ったパトリックには届かなかった。雨の石牢など何処に寄りかかっても氷のように冷たいのに、よく平気で寝れるものだ。最早鼾を立てる置物になった牢番に、トレヴィルは嘆息して葡萄酒を煽った。注いでは呑み、呑んでは注ぐ。まるで水のように喉を鳴らして酒を流し込む。
 氷雨降る夜に男二人で酒盛りなど、彼等の場合珍しくはない。パトリックが先に潰れてしまうのも、いつものことだ。
「私だって木石で出来てるわけじゃないのにさ。そりゃあ教師と生徒だから邪な心はないけど、羞じらいってもんがあってもいいとは思わない? しかも……」
 少女自身は知らなくとも、自分たちは仇同士であるのに。
 鍵の呪いを掛けたあの日から十五年。手足はすっきりと伸び、娘らしく成長した癖に、中身はどうにも娘らしくない。少女が『ダルタニアン』であるのなら、無理からぬことだろうが。
「お見苦しいものって、何なんだまったく……」
 空になったワイングラスを片手に、開いた右手で目の辺りを覆う。
 瞼の裏に、星のように残像がちらちらしている。
 腑に落ちない思いを抱えて、トレヴィルは酒瓶を傾けた。だが、すべり落ちてきたのはほんの2、3滴で、いくらひっくり返しても空っぽだ。ナイフを取り出して、新しいワインの封を切る。ブルゴーニュの十七年物。だが、コルクが傷んでいたらしく、含んだ途端ひどい酸味に舌が痺れた。彼は顔を顰め、そのボトルを奥へ押しやった。新しいゴブレットを出して、次のボトルを開ける。今度は当たりだったようで、注いだ液体は彼の瞳のように鮮やかに紅く、絹のように滑らかに喉を滑り落ちた。
 酩酊が心地よく体を巡っていく。
 悪魔は酒に酔うが、恋はに酔わない。
 恋は人を狂わせる。
 否、狂おしいから恋なのか。


「どちらにしろ、復讐という美酒より酔える物はないさ」


 ひとりごちて、悪魔は酒杯を闇に掲げた。












2011/08/17 up



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