この指先に、

 
 コンスタンス。
 ここに君がいない。




「……雨か」
 回廊の柱が落とす影の色合いが翳ったのを見て取り、トレヴィルは視線をもたげた。小脇に抱えた楽譜の端を、湿り気を帯びた風がばさばさと捲る。
 セピア色のヴェールが掛かったような秋の庭は、一滴、また一滴と落ちてきた雨粒に少しずつ暗色に染まり、やがて叩きつける雨に色彩を流されていった。象牙色のタイルだけが、白く浮いて見える。
 その代わりのように、土と枯葉の匂いが強く香った。
 天を衝くように伸びる、脇道のポプラを見上げる。
 太陽の光に重ね染めされた木の葉は、彼女の髪の色を彷彿とさせる。乾いた昼間には軽やかに風に舞い、雨に濡れればしっとりと艶を増す。触れたのはただ一度だけ。血と埃に汚れていても、絹糸のように指の間を擦り抜けた。三百年の時を経ても、色褪せずに残っている。
 物憂い静寂を破ったのは、水を跳ね返す足音だった。腕で雨から顔を庇うようにして、華奢な影が屋根の下に飛び込んでくる。
「はぁ…、良かった」
 子犬のようにふるふると濡れた頭を振ったのは、憎むべき白皙の横顔だった。
「ダルタニアン…?」
 声を掛けると、少女はぱっと顔を上げ、明かりをみつけたように微笑んだ。
「トレヴィル先生!」
 彼女の腰には、いつものように古びた剣が下がっており、磨かれた鞘の表面を雫が伝っていた。おそらくまた、森で剣の練習をしていたのだろう。予想に違わず、少女ははにかみながら弁明した。
「剣の鍛錬をしていたら、急に降られてしまって」
 ほっそりと白い頸の辺りに、濡れた髪が纏わりついている。頬にも一筋掛かっていて、トレヴィルは反射的に手を伸ばしてそれを横に避けてやった。指先に触れた頬は柔らかく、だが冷たい。
「ずぶ濡れじゃないか。大丈夫かい?」
「はい。その、すぐに寮に戻りま…」
 言い終える前に、くしゅん、と可愛らしいクシャミが飛び出す。
「す、すみませ…っくしゅん、くしゅん!」
 謝りながらも、立て続けに繰り返す。恥ずかしそうに肩をすぼめる様を見て、トレヴィルは声を立てて笑った。
「大丈夫ではなさそうだね。とりあえず、上着を脱ぎなさい」
「はい……っくしゅん!」
 小さく震えながら濡れた上着を脱ぐ。薄いシャツは鍛錬の汗でひたりと張り付き、僅かに乱れた胸元からごく淡い紅色に染まった白い肌が覗いた。秋の香りにそっと、彼女の香りが混ざる。飾らない野の花のような、どこか懐かしい甘く透き通る香気。
 トレヴィルは自らの上着を脱ぐと、それを封じるように少女の肩に被せ掛けた。慌てて押し戻そうとした少女の手を掴み、頭を振る。
「着ていなさい。そのままでは風邪を引いてしまう」
「でも…先生が冷えてしまいます。こんなに寒いのに」
「こう見えて私も男だからね。そうか弱くはないよ」
 元々、気温には左右されない体だ。
 鳶色の双眸を覗き込んで言うと、ようやく少女は遠慮がちに頷いた。
「ありがとうございます」
 屈託なく笑う。
 その笑顔から、トレヴィルは目を逸らした。
「すまないが、用事があってね。一人で帰れるね?」
「はい、大丈夫です」
 ダルタニアンは頷き、折り目正しく一礼した。
「では、失礼します。先生」
 去っていく少女の背中を一瞥し、トレヴィルは彼女とは逆の――元来た方へと歩き出した。
 用事など嘘だ。ただ、彼女と接触するのを避けたかっただけだった。
(何故?)
 懐かせておいた方がいい。懐き親しむ程、裏切りの傷は深く鋭くなる。そう画策して、今まで接してきたのに。
 何故、不安が過ぎるのだろう。
 トレヴィルは、指先を持ち上げた。彼女の頬に触れた指は、他と変わらず冷えている。
 なのに。
 どこか、あたたかい。
「……………ふ」
 冷笑して、トレヴィルは熱を振り払うように手を振った。
 三百年前、この腕の中で失われた熱。
 この腕に温もりが戻る時は、棺の中の彼女に温もりが戻る時だ。彼にとって彼女こそが色彩であり、熱であった。彼女が別の誰かを愛していても、彼女が生きて、笑っていさえすれば。
 なのに。




 コンスタンス。
 ここに君がいない。






 なのに、どうして。











 この指先に、熱が灯る。
 













2011/08/17 up
Dear Kannburia




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