『薔薇の遺言・葬送』



 彼女が恋をした。
 その事に気がついたのは、秋薔薇が蕾をつけ始めたころだった。
 夕暮れが窓枠を染め、メゾネットの玄関が開いた瞬間、彼は常のようにその姿を室内に顕した。
「お帰り、紗夜」
 美しい妹の瞳は、熱を帯びた風情で彼の横を素通りした。軽いショックを受け、彼は思わず妹の名を呼び直す。
「紗夜」
 はっとした妹が振り返り、ゆるく微笑した。
「ただいま、十夜兄さん」
 だが、抱き着いてはこない。ただいまのキスもなく、心ここにあらずだ。
「何かあったのかい」 尋ねると、彼女の壊れかけの心臓がとくんと小さく跳ねるのが聞こえた。
「別に、なんでもありません」
 目を見て嘘が言えないくらいに同様している。彼は追求せず、鏡台から櫛をとってきて彼女をソファーに座らせた。
 美しい髪から外の埃を落とすよう、ゆっくりと彼女の髪を梳く。緩く波打つ黒髪は、すぐにもとの艶を取り戻した。
「紗夜」
 彼の声に、彼女は黙って身を寄せてきた。長い睫毛を伏せる。
 淡紅のくちびるが、切なげな吐息をついた瞬間、彼の手から櫛がこぼれた。
 動揺や、不注意によってではない。
 落ちた櫛を見つめる彼の視線にようやくそれと気づき、少女は屈んで櫛を拾い上げた。
「兄さん、落としましたよ」
「ああ、すまない。そこに置いておいてくれるかな」
「……ええ」
 首を傾げた少女であったが、それに勝る気掛かりがすぐに頭を占めたようだった。薔薇色の頬に睫毛の影を落とし、物思いに耽る。
(紗夜)
 声にならない呼び掛けに、彼の手から逃れた髪がひと房、無関心に揺れた。



 8年間――たった、と評するべきか、もう、と言うべきか。彼は悩み、そんな自分に苦笑した。随分と人間らしくなったものだ。
 待ち続けた時間は確かに、驚くべき変化を彼に齎していた。『死』という現象は『感情』という名の幻想に蝕まれ、その存在を危うくしている。
 あの日を境に、彼の声は日に日に彼女に届かなくなっていった。
 おはよう。
 いってきます。
 おかえり。
 ただいま。
 そんな当たり前の挨拶が、ひとつひとつ消えていった。その度に、彼は己が空虚なものになっていくのを感じていた。
(紗夜)
 かける言葉をなくしても、彼は少女の傍らに留まった。少女は元からそうであったように、一人で起きて学校へ行き、帰り、食事をし、夢見る代わりに恋人との電話や逢瀬で夜を過ごした。
 かつて、彼女が出来たことは彼にも適った。外へ出掛けること、本を読むこと、彼女の髪を梳くこと。ものを掴むことも、触れることすら失われていく中で、彼に根付いた感情だけは、寧ろ赤々と燃えるように鮮明さを増した。
 彼はそれでも構わないと思っていた。厳然たる死という己が崩れ去れば、或いは少女の膝下を飲み込む空虚をも拭いされるやも知れない。
 ――私は、死神だ。
 そう思えば、彼にとって彼自身の傷みなどたいしたことではなかった。
 否。
(……紗夜)
 痛みを感じる事すら、彼はもう失っていたのだ。
 彼女の言葉によって得たものを、
 彼女の呪縛によって与えられた形を
 彼女との時間で生まれてしまった感情を、
(失いたくない)
 その執着が彼に与えたすべてを奪ったのだ。
 死という本質を。
「紗夜」
 その名は美しい闇を差した。
 彼の本質の棲むべき場所を。
 孤独の夜を。
 だが、彼女はもはや孤独ではなく、彼も本質を失った。綻びた幻想を解くのは、あまりにたやすかった。
「紗夜」
 振り返りもしない少女の名を、彼は何度も呟いた。彼女にはもう聞こえないのだから、もう堪える必要もない。
(私はあの少女を愛していた)



 そして、幻想は解けた。



 目を開けると闇があった。
 外界と切り離され、閉ざされた闇だ。歯車が噛み合う単調な金属音が、光の代わりに彼に届いた。古くなった機会油の匂い、堅牢な石壁から漂う冷たい気配を感じる。
 そして、
「紗夜……」
 彼だけが知る匂いがした。
 死神が閉じ込めた、熟さずに朽ちていく蒼い果実の匂いだった。
 呼ばれたのだと悟った。結末はとうに知れていた。何千何万の死を刈り取った彼が、背後に佇む気配に気づかぬはずはなかった。
 新たな言葉で編み上げられた幻想が、そこにあった。
「蒼」
 死神と呼ばれた子供は、今やそれそのものだった。
「蒼ではない」
「私は、お前だ」
 彼はくちびるを歪めた。
 乾いた蒼天の色、悲しみの色。
 闇ではない。
 新しい死に、彼は手を差し延べた。 


 ――ああ。


 目の前に立つ白い神は、葬送の薔薇の色だった。


 秋に咲く薔薇の色は、血のような朱。
 赤い薔薇は、アフロディーテが白薔薇にその涙を落として染め変えたという。
 燃える生命の色。
 もし彼女の胸にそれがあるなら、間違いなく彼を礎に生まれたものだ。
 その事が、何より誇らしかった。
「紗夜……」



 彼は甘い吐息をついた。
(幸いを)



 最も愛した死のそばで、彼は目を閉じた。












2014/5/3 up



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