甘酒


「ただいま…」
 梅雨と夏の境目にあたるこの時期は、暑さと湿気のダブルパンチだ。早くも夏バテ気味に、朝も昼もろくな食事を取らなかった皐月は、帰って来るなり玄関に座り込んだ。もうくたくたで、靴を脱ぐのも億劫だ。
「疲れたー……」
 冷たい廊下にぐったりと横たわった鼻先に、甘いような不思議な香りが漂って、皐月はのろのろと顔をあげた。おいしい物の匂いだ。
「暁兄? 来てるの?」
 料理上手で面倒見のいい従兄が来たのだろうか。片方ずつ靴を脱ぎながら、皐月は奥に向かって声をかけた。
 しかし三和土には皐月の靴しかない。
「おかしいな……誰だろ」
 首を傾げながら台所に行くと、コンロの前で悪魔が鍋を掻き回していた。
「……何してるの、ルーエン?」
 酒とつまみを取りに来る以外、滅多に台所になど立たない悪魔のエプロン姿に、皐月は怪訝な顔になった。
 鍋の中は白く、粒々したものが浮いている。
「お粥?」
 その割には甘い匂いだ。くんくんと鼻を動かしながら鍋を覗き込んだ皐月に、悪魔は掻き混ぜる手を止めた。
「粥じゃない。甘酒だ」
「甘酒?」
 皐月は顔をしかめた。正月に神社で配っているアレが、皐月は大嫌いだった。甘ったるいし酒くさいし、どうにも喉にひっかかる。ただでさえ食欲のない時に、飲みたいものじゃない。
(けど、うちに酒粕なんてあったっけ……?)
 それに、こんなに湯気が出ているのに、あの独特の匂いがしない。
「ねえ、ルーエン……お酒の匂いしないけど、何使ったの?」
「麹だ」
「麹?」
「いいから飲め」
 むっつりと口をへの字に曲げて、悪魔はお玉を掬いあげた。湯呑みに注ぎ分けた表面に、擦り下ろした生姜を乗せて寄越す。
「ごめんルーエン、ちょっと食欲が…」
「黙って飲め」
 喰うぞ、と牙をちらつかされれば是非もない。
 皐月は恐る恐る口をつけた。
 おいしい。
 しかも生姜の辛さが爽やかに香る。ちびちびと舐めながら、皐月は手の平を返したように笑顔を浮かべた。
「夏に甘酒ってのも乙だね」
「甘酒は元々夏の飲み物だ」
「そうなの?」
「ああ。季語にもなってる」
「へえ……」
 目を丸くして、皐月は湯呑みの中を見つめた。ざらつく米粒が、舌に甘い。
 甘酒は飲む点滴と言って、夏に冷たい物で弱った胃腸の為の滋養強壮に飲まれていたそうだ。
 熱い甘酒は生姜の効果もあって新たな汗が吹き出たが、湯呑み一杯飲み終わる頃には、汗と共に疲労も流れ出ていた。
「ありがとうルーエン」
 皐月は微笑みながら、湯呑みを置き――汚れきった台所を指さした。
 失敗したらしい焦げ付いた複数の鍋、汚れた軽量カップ、吹きこぼれた米粒のこびりついたコンロ。
「これを片付けるのは……」
「お前の仕事だろう」
「ですよねー」
 悪魔さ尊大に顎を反らした。食べる専門、作るのは気まぐれ。そんな彼に後片付けをさせられるのは、今のところ従兄くらいしか皐月は知らない。
「その為に元気にしてやったんだからな」
「はいはい」
 皐月は湯呑みを抱えたまま首を竦めた。
 優しい悪魔の、可愛い気遣いが嬉しかった。









2012/07/06 up










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