Fry me
to
the Moon


 早春の夜はまだとても寒い。特にアジュコがテントを構える河岸は、水の流れが気温を奪うから、夜中近くなると息が白くなる。
 アジュコは寝袋に包まって、心地好い睡眠を貪っていた――その胸にドスンと黒猫が飛び降りるまでは。
「ぐふぅ!」
 肺が潰れそうな衝撃を受けて、アジュコは目を覚ました。げほげほと咳込みながら、犯人に潤んだ目を向ける。
「いきなりなにするんだよぅにゃっ様ぁ……永遠に目覚めなくなったらどうするの」
「ケッ。だらしねェ」
 黒猫は尻尾でアジュコの頬をニ、三度叩くと、くいっと顎を反らした。
「外。客きてンぞ」
「え?」
 思わず時間を確認すると、0時を回っている。こんな時間に来る客なんて、一人しか知らない。アジュコは慌ててゴソゴソと寝袋から這い出すと手櫛で髪を整えた。
 テントの外へ出てみると、綺麗な月が昇っていた。
「鰤さん!」
 河岸に立つ人影はまさしく彼女だった。月が明るくて、足元に長い影ができている。
「アジュコくん」
 いや、影に見えたのは自転車だった。秋の夜長に星空散歩した、あの時の自転車だ。落ちて壊れたのを、いつの間にか直してくれたのだろう。
「ちょっと鰤を月まで連れてってくんない?」
「えっ、は、はいっ!」
 アジュコは駆け寄り、古びたママチャリに跨がった。後ろに彼女が乗ったのを見て漕ぎ出す。こう見えて超電動アシスト付きだ。二人の姿がふわりと浮く。滑らかに自転車は位階を超え、空を走り出した。
 川下の梅林が満開だ。白梅白さが地上の星のように見える。
「寒くないですか、鰤さん!」
 ペダルを漕ぎながら後ろを振り向いて、意外な近さにどきりとする。
「前前!高度落ちてる!!」
「はははいっ!!」
 脇見運転は事故の元。アジュコは一生懸命漕ぐことだけに専念する。
「去年の今日はこんな風にしてるなんて全然思ってなかった」
 後ろの彼女が呟いて、しがみつく腕をぎゅっとつよくする。アジュコはその強さを嬉しく思いながら、冷たい風を胸に吸い込んだ。
「僕もです。こんな綺麗な空を大好きな人と一緒に走れるなんて、思ってなかったです」
 生きてさえいないかもしれないと思っていた。或いはたった一人生き残って、孤独にこの月を見上げていたかもしれないと。
 だけど、どちらも違った。
 今アジュコの目の前には命溢れる銀河が、背中の後ろには溢れる生命力をたたえた少女がいる。
「ウオオオ!!!綺麗!!!」
 地上の銀河がまばゆく輝いている。家のあかり、命のあかり。あかりには命の温度がある。
「アジュコくん月まであとどれくらい?」
「あとちょっとですよ!」
 宇宙の王子様は一億五千kmの距離をそう評した。彼の母星までの距離からすれば確かにちょっとかも知れないが。
 甘い香りがした。梅の香りは遥か下だ。だからこれは彼女の香りだ。背中に触れた体温。息遣い。鼓動。
 月が迫ってくる。
「鰤さんが好きだ――――――!」
 思い切り叫んだ。幸せでお腹の底がポカポカしている。
 照れ笑いする横を、彼女のはっきりと明るい声が追い越していく。
「アジュコくんが大好きだ――――!」
 彼女は月に向かって叫んだ。月の向こうのずっと先にある彼の母星へ。
「生んでくれてありがとう――!」
 星がにじむ。月が笑う。
 アジュコはハンドルから手を放し、体を捻って振り向いた。
「鰤さあああん!!」
「うおお!?」
 ぎゅっと抱き着くとバランスを崩した自転車の天地が逆さまになる。けれど二人は落ちることはなかった。
「ありがとう……!」
 局地的な天気雨が降ったかもしれない。軽やかな笑い声を響かせて、空転するペダルが速度を緩めながらママチャリは天の川を渡りきる。タイヤの残した二本の轍は月の縁をかすめて滑り、大きな指切りの証のように地球と月とを結んだ。



アジュコくんお誕生日おめでとう!







2013/02/26 up









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