Goodbye,graceful red. -pre.-



 広瀬は横断歩道の前に立ち、信号が青に変わるのを待っていた。日が落ちるととたんに肌寒くなる季節だ。薄着で来た事を少し悔やみながら、広瀬は軽く肩を震わせた。
 人間関係などというものは、案外希薄なものだ。
 今しがた出てきた塾のビルには、まだいくつか明かりが点っている。広瀬が出た時、教室には誰かがまだ残っていたが、その名前すら広瀬は知らない。
 名前を知っている塾生ですら、「じゃあね」と言えばそれでおしまいだ。
 次の週の同じ曜日に、彼がいてもいなくても変わらない。きっと思い出しもしない。
 ――そんなものだ。
 諦念を湛えた目で、広瀬は赤信号を見つめた。変わらない信号と同じ色の夕空に照らされて、アスファルトに落ちた影が黒々と伸びた。段差に歪むそれがまるで彼自身の本質のように思えて、広瀬は口を噤んで目を対岸へと逸らした。
「あ」
 声を上げたのは、怯えたからだ。認めたくはなかったが、あの鮮やかに赤いツインテールを見た瞬間、胃のあたりがぎゅっと縮む。反射的な感情を打ち消すよう、広瀬はあえて声をあげた。
「水城先輩」
 水城一陽は対岸にいた。こちらを睨みつけるくっきりとした両目が、眼鏡のないぼやけた視界でもなぜか良く見えた。
 彼女は赤信号にも関わらず、一歩を踏み出した。
 車が行き交う。車道はまだ青信号だ。
 危ない、そう叫ぼうとしたが、白いカローラも赤い軽自動車も、一陽の体を摺り抜けていく。
 無意識に一歩、広瀬は後退りした。
「おい、お前……!」
 一陽が声をあげる。青にならない信号を見上げ、広瀬は一陽に背を向けようとした、その瞬間だった。



 トン。



 さして強い力でもない。手の平の形に背中を押され、足が前へ出た。信号はまだ赤だ。とっさに首を捻り、押した誰かの姿を探す。
 誰もいない。
 ただ長く伸びた影を引きずる少年――沼底みたいな目をした自分自身が、背中を押したその姿のまま、此岸に佇んでいた。
 ハイビームが白く視界を灼く。
 あっと振り向いた広瀬の目の前に、乗用車の前面が迫った。



 ―――あ、俺死んだ。


 衝撃はなかった。








 青々と冴えた空が窓の向こうにのっぺりと塗りたくられていた。白い雲が一筋、いやあれは煙だろうか。
 広瀬はぼんやりとそれを見ていた。
 体の感覚が妙に希薄で、それはいつかの月宿神社で感じた、あの人でない感覚に良く似ていた。
 ――ああ、俺は死んだんだ。
 奇妙に納得した気分だった。
 がらんどうの教室には、机や椅子が整然と並んでいた。はじについたナイフの傷痕。鉛筆で書かれた筆算の走りがきが、にじんで残っている。
 よくこの机で彼女に勉強を教えた。休み時間にちょくちょく来ては、わからない部分を質問しに来ていた彼女。回りで笑ってる空閑や、つまらない顔をしつつも口を出す葉村。
 ふと口許がゆるんだが、すぐに消えた。

 ――ここにはもうなにもない。
 目に沁みるような青空があるばかりで。

 広瀬は窓の外を睨んだ。
 厭味な程の晴天。人が死んでしまったというのに、腹立たしいほど晴れ渡った空だ。
「…………そんなもんだよ」
 慣れてしまった諦めの言葉が口をついた。友人達の面影が残る教室はがらんどうだ。誰もいない。誰も。
 虚空を見つめ、広瀬は踵を返した






 広瀬は教室を出た。廊下もやはりがらんどうで、面影ばかりがあちこちを過ぎった。
 窓際で立ち話をしている米原や小田島、高笑いしながら意味もなく行き過ぎる戸神。その横をすり抜けて歩いた先、放送室のドアを開ければ、やはりそこも無人で、機材を調整しながらひっきりなしにお喋りする法月や、それを聞きながらパイプ椅子に踏ん反り返る千木良の幻が、広瀬の前に浮かんで消えた。
 それだけだった。
 人間は死ぬときに生まれて死ぬまでの走馬灯を見ると聞くが、広瀬にあったのはがらんどうの教室だけだった。
「ある意味、俺らしいかな……」
 一人きりになってさえ、虚しさを誤魔化そうと呟いてしまう。馬鹿は死んでも治らない、なんてことを死んだ後にまで実感するとは。
 昼休みや放課後、淡い緊張と共に何度も語りかけた放送ブースのマイクにそっと触れ、広瀬は自嘲した。
『今日のお便りは、匿名希望Mさんからです』
 ふと、在りし日の自分の声が、耳に蘇る。
『TBCの皆さんこんにちは。七不思議ではないですが、不思議な話を聞きました。なんでも、校舎に無人の時間、屋上へ続く階段の数が変わる、という話なんですが……』
『段数が減る分には、問題ないやん』
『いやいや、そういうことじゃないし。というか普通増減しないですし』
『行き先が同じなら少ない方が楽でええし。というか校舎に無人て、階段数えてるお前は何者やねん』
 怠そうな千木良の声を聞きながら、広瀬はあの時続きを読んだ。
『その時に屋上の扉を開けると、天国に繋がっているそうです。本当ですか?』
 そう読むだけ読んで失笑した、あの日の自分。自分がこんな風に死ぬなんて、からっぽの教室に佇むなんて思わないまま、だがどこかでその虚しさを想定していた過去の自分。
「……行ってみようか」
 天国なんて柄じゃないけど、地獄にあえて行きたくはない。
 広瀬はマイクの角度を標準に戻して、最後にひとつ撫でた。









 屋上への階段は、白く光っていた。青空の窓から差し込む光で、空々しいほどに明るい。
 見上げたスチール扉は見慣れた、何の変哲もないドアで、その向こうに天国があるとも思えなかった。
 それでもいい。
 広瀬は階段に足をかけた。一段、二段。


「優希くん」



 はっとして、広瀬は背中越しに振り向いた。
 誰もいない。
 彼女の姿はそこになかった。
 階段に落ちているのは窓から入ってくる四角い光で、階段にかかってもその直線の縁は歪まず、一段一段を確かに下りて行くようだ。
 広瀬は眩しさに目を細め、背を向けた。ドアはもうすぐそこだ。


 この向こうは青空だろうか。
 お別れだというのに、涙のひとつもない渇いた青空だ。
 自分とて泣きもしないくせに、誰も泣いてくれないことに腹を立てて、拗ねている。死んでまでそんな振りをしつづける愚かな自分と、このドアを開けばお別れできるだろうか。



「いけません、優希くん」



 広瀬は再び振り向いた。
 期待を込めた。せめて彼女くらいは泣いてくれるだろうと、別れを言う相手もない自分ではないと。
 だがやはり姿はなかった。稟とした声の響きだけが、耳の奥に余韻を残している。 ――どこまで女々しいんだ、俺は。
 ささやかなプライドを自分で傷つけてしまい、広瀬は胸を押さえた。そんな自分が嫌で、はやくさよならしてしまいたくて、広瀬は前に向き直った。階段を上がる。
「どこへ行くんですか、優希くん」
 呼ばれたが、もう振り返らなかった。もういいんだ。もういい。
 階段を上りきり、冷たいドアノブに手をかけた。捻ると同時に緩む鍵の感触が伝わる。押し開けようとした広瀬の背中から、細い腕が伸びた。
「行かないで」
 しなやかな腕に引き寄せられ、あっと思った瞬間ドアノブはするりと手から離れた。追い縋る手を阻むように、後ろから抱く腕が、押し付けられた胸が頬が、強く彼を引き戻した。
「ここにいてください、優希くん」















 はっと目を開くと、夜の青い壁が目の前を塞いでいた。眠っていた。夢だったのだ。
(……夢か…………)
 ほっと息をつく。一緒に寝ている彼女の腕が、抱き着くようにして体にまきついていた。あの夢で抱いてくれた腕は、これだったのだ。
 背中に感じる彼女の温もりを目を閉じてしばらく味わい、広瀬はそっと体勢をずらした。毛布を直しながら向き直り、深い寝息を立てる彼女の前髪をさらりと撫でる。
「……風羽さん」
 そっと抱きしめると、反射的にだろう、広瀬にかかった彼女の腕も、縋るように摺りついた。
 
 ――あったかい。
 
  一筋涙がこぼれた。雫の伝った頬はもう既に濡れていて、広瀬は自分が泣きながら眠っていたことを悟った。
 情けなかったが、悪い気分ではなかった。それに、彼女は眠っている。見られていないなら、彼の小さなプライドも守られるというものだ。
 なのに。
「……おはようございます、優希くん」
 ぱちりとつぶらな目が開き、広瀬はうっと呻いて顔を枕に顔を埋めた。
「君は本当にどうしてそう……」
 最悪のタイミングに目を開けるのだろう。
「ご気分はいかがですか?」
 寝ながら泣いていたことまで知られているようだ。驚きもせず、伸ばした指でそっと広瀬の頬を拭う彼女を、彼は少々恨めしげに見つめた。だが、すぐに緩む。
「大丈夫だよ」
 頬を撫で返す。彼女はほっと笑顔になって、広瀬の手に頬をすりつけた。
「左様ですか。……良かった」
 このてのひらを、呆れるほど無防備に受け入れたまま、彼女は嬉しそうに目を和ませる。恰好をつけるのが馬鹿らしくなって、広瀬は素直に彼女と額をこつんと合わせた。
「……しばらく屋上行くのよそうかな」
 不思議そうに首を傾げる彼女を見つめ、目を閉じる。



 扉の向こうのメッセージは、まだ当分先でいいかもしれない。







※この作品はアジュコ様の作品『Goodbye,graceful red.』よりご本人の許可を得てSS化し、掲載しております。精緻で美麗な原作をご覧になりたい方はこちらからどうぞ。










2013/06/17 up



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