地下鉄のホームで君を見た


※もし鳴鐘町に地下鉄があったら

 地下鉄のホームで遠野を見た。俺が気づくのと千代が気づくのは殆ど同時で、千代はぱっと顔を明るくすると人目を憚らずに大きく手を振る。
「あ、七葵くん、紗夜お嬢さんですよ! お嬢さーん!」
「馬鹿、静かにしろ」
 咄嗟の制止は少しばかり声が大きかったようで、前に並んでいたサラリーマンが不審そうに振り返った。俺は何食わぬ顔でそっぽを向いてやり過ごす。
「……ごめん、七葵くん」
「………………」
 ため息をついて首を横に振り、俺は遠野を再び見遣った。彼女は片手に文庫本を開いて、熱心に読み耽っていた。幸いなことに、こちらには気づいていない。ほっとしたところへ電車が滑り込んできた。俺達は列の流れるまま、同じ車両に乗り込んだ。
 車内はちょうど帰宅ラッシュの時間帯で、割合に混んでいる。ひとつ座席が空いたが、その前にはやはり帰宅するらしいくたびれたサラリーマンが立っていた。当然、前にいたそいつが座るのが順当だろう。だがそいつにとって運がいいのか悪いのか、乗り込んできた遠野がその横に立った。一度、空席には目を遣ったが、前に人がいるのを見て吊り革を掴む。そして再び文庫本に目を落とした。
「あの」
 くたびれたサラリーマンが声を上げた。遠野が目を上げる。
「良かったら、どうぞ」
「……宜しいのですか?」
 遠慮がちに小首を傾げる遠野に、サラリーマンはこくこくと無言で首を縦に振った。
「ご親切に、ありがとうございます」
 男殺しの微笑みを浮かべ、彼女は軽く会釈をして座った。きちんと両膝を揃えて、また文庫本のページをめくる。
「七葵くん七葵くん」
 千代が眉を曇らせて俺の腕をつつく。
「あの人、お嬢さんの方ばかり見てますよ。もう少し離れて立った方が……ああっ、揺れて足がお嬢さんの膝にっ」
「混んでるんだから、不可抗力だ」
「でも……あっまた」
「落ち着け、千代」
 痴漢ならともかく、それぐらいで騒いだら相手も迷惑だ。混雑した車内で、くたびれていた若いサラリーマンは、顔を真っ赤にして立っている。揺れる人波に流されて座席に倒れ込まないよう、踏ん張っているからだ。同じ混雑の車内で俺がこんなに余裕があるのは、千代がいるおかげだった。千代の存在は他人には知覚されないが、なんとなく避けられる傾向がある。
「《次はー、鳴鐘三丁目ー、鳴鐘三丁目ー》」
 車内アナウンスが流れた。遠野の降りる駅だ。しかし彼女は俯いたまま、ぴくりともしない。なんとなく予感がした。
 走行区間から駅に近づき、電車のスピードがゆるやかになった。黒とオレンジだった窓の外が一転して白くなり、柔らかなアイボリーと茶系の色調で整えられた鳴鐘三丁目のホームが流れる。
「《鳴鐘三丁目ー、鳴鐘三丁目ー》」
 住宅街に近い駅だ。降車の客が出口の方に向き直り、ドアが開くと同時にどっと降りた。混雑の波を避けながら遠野を見遣ると、まだ座ったままで本に夢中になっている。
「お嬢さーん、降りる駅ですよ、お嬢さーん!」
 千代が余人に聞こえぬ声を張り上げたが、聞こえるはずの彼女に全く届いていなかった。予感的中だ。俺は車内に留まる乗客の間を急いですり抜け、俯いた肩を掴んだ。
「おい!」
 びくっとして、夢から醒めたような顔で遠野が見上げてくる。
「乗り過ごすぞ。いいのか?」
「………あ!」
 遠野はぱっと立ち上がると、慌てて鞄を持ち上げた。
「降ります、すみません、降ります!」
 華奢な体は人混みを中々抜けられない。ドアが閉まるチャイムが鳴って、俺は強引に腕を伸ばした。
「降ります!」
 細い二の腕を掴んで引っ張り、ドアが閉まる寸前でなんとか俺達は降車した。
「はぁ……危なかったですね」
「はい、ありがとうございました」
 ほっと息をつき、遠野はぺこりと頭を下げた。
「お二人はどちらまで行かれるのです?」
 遠野に訊られ、制止する前に千代が意気込んで答えてしまう。
「鳴鐘東です」
「馬鹿っ」
「え?」
「二つ先の駅ですね。すみません、私の所為で降りることになってしまって」
「……あ」
 申し訳なさそうに言われ、千代はようやくその意味に気づいて慌てた。
「大丈夫ですよ。 ねえ、七葵くん?」
「ああ。別に一本くらいかまわない。それより、遠野」
「はい?」
「本を読むのを悪いとは言わんが、あまり夢中になりすぎるなよ。電車を乗り過ごすくらいならまだしも、掏摸や痴漢なんかの犯罪に巻き込まれる隙になるぞ」
「肝に命じます」
 遠野は素直に頷いた。だが、一体いつまで覚えているやら。俺は鞄の柄を握り直し、二人に顎をしゃくった。
「行くか」
「え?」
「降りたついでだ、家まで送る。………いやならいいが」
「とんでもない」
 ぶんぶんと頭を振った、その動きで広がった長い髪から甘い芳香が立ち上る。
「ありがとうございます」
 彼女は嬉しげに笑った。さっきの男殺しの微笑みより何倍も威力のあるそれに、俺は申し出たことの気恥ずかしさを改めて噛み締めた。
 だが、もう言ってしまったことだ。歩き出すと、小さなローファーの踵が、俺より短いリズムを刻んでついてくる。千代は足音の代わりに鼻歌なぞ歌い始めた。
「送るくらいではしゃぐな」
「えー、はしゃいでなんかないよ。ねえ、お嬢さん?」
「ふふ、そうですね」
「お前達……」
 二人はニコニコと笑いながら、揃って頷き合う。俺はポケットから定期券を取りだし、改札に押し当てながら二人に見えないように小さく笑った。

  他愛ないひとときの、小さなしあわせ







2012/03/02 up










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