春風


 また春が来た。もう何度目の春だろう。窓から忍び込む春風の温かさに、十夜はため息をついた。
「兄さん」
 時が経つのは早いものだ。
 去年袖を通した時は、まだ着られている感の強かった黒い制服は、いまやしっくりと馴染んで、穏やかに落ち着いた雰囲気を醸し出している。
「兄さん、聞いていますか?」
「―――ああ、聞いているよ。今日の朗読は猫の話で良かったかい?」
「違います。明日着ていく服の話です」
 不実な兄の態度に、紗夜は少し拗ねたように顎を反らした。だが、そう続くものでもない。
「出掛けるのかい?」
 十夜が柔らかな声で尋ねると、少女は嬉しげに微笑んだ。
「ええ。夏帆とお花見に」
 篭りがちな彼女には珍しいことだ。
 紗夜は両手に一着ずつ吊したハンガーを持ってきて、十夜の前で交互に宛てて見せた。ひとつは蜘蛛の糸で織ったような繊細なレースを飾ったワンピース、もうひとつは胸元のビーズが南の星座になっているニットのアンサンブルに、ふんわりとしたフレアスカートの組み合わせだ。
「どちらもお前に良く似合うよ」
「もう、それでは決まりません」
「そうだな、レースのついている方が春めいていて良いかも知れないね」
「なるほど」
 紗夜は頷いて、ブラウスのハンガーを置くと、あらためてワンピースを胸にあてた。
 軽やかなレース。しかしその色は喪服のような黒だ。ブラウスとて同じだった。制服のブラウスの白以外、彼女の纏うのは闇の色しかない。
 なぜ彼女がそれを選ぶのか、それによって何を守り何を拒絶しているのか、彼は理解している。とてもよく、理解している。
 だが、それだけだ。
 そこから先へ、遠野十夜は連れていってやれない。春めいたレースを雲の白に、胸元を飾るフリルを空の青に、髪を結い上げるリボンをとりどりの花の色にすることは、出来ない。
 春が来る度、紗夜は美しくなる。もはや闇で覆ったとしても、その匂やかな美しさは、鈴の声音は隠しようがない。
 誰かが、誰もが手を伸ばす。その内のどんな人間が彼女を連れ出すのだろう。それを考えると十夜はとても恐ろしく、だがどこか安堵する。死刑の日を待つ囚人と大差ない。問題は彼を捕らえるその檻が、途方もなく甘美であることだ。
「兄さん」
 部屋で着替えて来た紗夜が、軽やかな足取りで下りてきた。レースの裾が花びらのようにふわりと揺れながら、細い脚にまとわりつく。
 十夜はため息をついた。
「ああ、良く似合うよ。紗夜」
 また春が来た。もう何度目の春だろう。春風に煽られて痛む胸の切なささえ、幻想とわかっていても、今はその苦しみこそが彼の我欲を満たした。


 最後の春だった。








2012/02/11 up



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