坂道とチロルチョコ


 冷蔵庫を開けると、牛乳がなかった。
「うそーん」
 ドアポケットはもちろん、ストックもない。抹茶ミルクにするつもりで、もうカップに濃いめの抹茶を溶かしてあるのに。砂糖を入れていなければお湯で薄めて普通のお茶で飲むこともできたが、後の祭りだ。
 牛乳は彼のジャスティスである。
 ほしほは冷蔵庫のドアを閉めると、居間を覗き込んだ。炬燵に当たってテレビを見ていたのは祖母だけで、彼はその隣に膝をついて片手を出した。
「婆ちゃん、牛乳買ってくるから金ちょうだい」
「はぁ? あんたなにゆうてんの、外
雪ふっとるよう」
「げ、マジで?」
 しかし背に腹は変えられぬ。大体雪が降るほど寒いなら尚のこと、暖かいミルクティーやホットココアやカフェオレがなくてはやってられない。
「さっと行って戻るよ。ついでに買ってきてほしいものある?」
「ないよ。滑らんよう気ぃつけてな」
「おー」
 祖母から千円札を一枚受け取ると、ほしほは身支度をしに部屋へ戻った。
 一番近くのスーパーまでは、歩いて10分ちょい。時間的にギリギリだ。コンビニはその先を更に5分以上。できれば自転車を使いたいところだが、外に出たほしほはすぐさまそれを諦めた。
「ちょwwやめろしwwww」
 すでに雪は庭木を白く染める程に降り積もっていた。明日の登校はしんどそうだ。
 ダウンジャケットの衿元にもこもこしたカラフルな毛糸のマフラーをきっちり巻いて、手袋をした手をポケットに突っ込む。雪はけっこうな牡丹雪で、傘の生地に当たっては、カサッというかポコンというか、そんな間抜けな音を立てている。柄を肩に引っ掛けた猫背で、ほしほは雪で湿り気を帯びた私道を歩き出した。
 スーパーに着くと、閉店の5分前だった。雪で客足が途絶えたらしく、従業員はもう閉店の作業を始めている。早く帰りたそうなレジ打ちバイトの顔を眺めながら、牛乳を二本、あとおまけに板チョコを一枚買う。
「ありがとうございましたーぁ」
 間延びした声に押し出されて、ほしほは再び傘を広げた。
 しんしんと雪が降り積もる。雪が音を吸い取って、辺りはとても静かだ。
 と、

 ――ガシャガシャンッ!

 激しい物音に、ほしほは思わずそちらへ顔を向けた。公園を少し過ぎた辺りの脇道に、坂のちょっと上にある住宅街に続く階段とスロープがある。そこに転がり落ちたらしい自転車の哀れな姿があった。
「もーヤダ!」
 叫びながら、その持ち主が駆け降りてくる。ほしほは傘の縁を持ち上げた。
「鰤じゃーん。なにやってんの?」
「あ、ほしほじゃーん! チョリーッス!」
 少女は青い唇で笑って見せた。
「雪降ってんのにチャリ?」
「家出た時は平気だったもん」
 少女は頬を膨らませながら、自転車を地面から起こした。
 スロープの路面は、踏み固められた雪で半ば凍っている。
 少女は自転車のタイヤをスロープに乗せ、自分は階段を使って上り始めた。しかし腕力がないので、だんだんと自転車が後退し始める。
「んぎぎぎぎぎ……」
 坂の半ばで少女の進む力と自転車の下がる力が釣り合い、かじかんだ指がハンドルを放した途端、自転車は先程聞いたような音を立ててスロープを転げ落ちた。
「ちょwwwwワロスwwwww」
 ほしほは指を差してげらげら笑った。顔を真っ赤にした少女はイーッと歯を剥いて唸る。
「もういい! 置いて帰る!」
「やめろしww盗まれるっつのwww」
 げらげら笑いながら、ほしほは階段を上がった。
「上げてやるから、代わりに持ってて」
 傘とスーパーのビニール袋を少女に預けて、ほしほはスロープ下の自転車を拾った。ボディを脇に抱え込むようにして、反対の手で前の部分を動かないように支える。
 暴れない分山羊より軽い。
「鰤ん家ってこの上だっけ?」
「うん」
 なるべく雪の新しいところを踏みながら、ほしほは自転車を抱えて慎重に階段を上った。ビニール袋を下げた彼女が、慌てて並んで傘を持ち上げる。
「いいって。それより足元気ぃつけろし」
 雪が髪に、肩に降る。少し熱の上がった吐息が、二割増しくらいに白く、辺りの空気を濁らせる。
「よっこいせっ、と」
 坂を上りきったところで、ほしほはゆっくりと自転車を地面に下ろした。
「送る?」
「ううん、いい。こっからは坂ないから」
 少女はぷるぷると首を振った。羽織ったポンチョの細い肩が、寒そうに震えている。自転車同様、油断していたのだろう。
「マフラーと手袋どっちがいい?」
「いらないよっ! 寒いの得意!」
「女の子は体を冷やしちゃいけませーん」
「ほしほセクハラww」
「違えしww ほら、どっちする?」
「じゃマフラー。手袋だと多分ぶかぶかだし」
「ん」
 ほしほはマフラーを解いた。とたんにひやっと首のあたりを冷気が撫でる。彼は首を竦めながら、自転車のハンドルで両手の塞がっている少女の首にぐるぐると巻いてやった。マフラーが長くて、口元まですっぽりだ。
「鼻水付けたらゴメンネ☆」
「やめてーそれ婆ちゃんお手製」
「……じゃあ気をつける」
「よろしくー」
 にやりとしながら、ほしほは受け取ったビニール袋を手首に通し、また手をポケットに突っ込んだ。
「じゃあな」
「うん、ばいばい」
 手を振る代わりに会釈して、また傘の柄を肩にひっかけ、猫背でほしほは家路を急いだ。開いた首から寒さが染みる。早くあったかい抹茶ミルクにありつきたい。
 爪先ばかり見て歩いていたほしほだが、ふと下げたビニール袋の形が変わっているのに気がついた。
「……ん?」
 ポケットから手を出して、ビニールの口を開いてみる。
 袋の中にはチロルチョコのミルクが3つ、ありがとうの代わりに入っていた。









2012/02/02 up



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