残り雁


 雁は渡り鳥だ。冬になると日本にやってきて越冬し、春が来ればまた北へ帰って行く。
 梅花が散り初め、代わりに桃が咲き綻ぶ空を見上げた蒼は、その名と同じ色の瞳を細めた。
「どうしたのですか、蒼?」
「雁が飛んでいる」
 白い指が差した先には、灰色の鳥影が一羽、寂しげに飛んでいる。秋桜の丘の向こうの空にぽつりと、わずかな染みのように漂っている。
「白鳥は 哀しからずや 空の青 海のあをにも そまずただよふ……」
 紗夜は若山牧水の有名な短歌をくちずさんだ。この歌の『白鳥』はスワンの方の白鳥ではないそうだけれど、白鳥もまた雁と同じく越冬する渡り鳥だ。あれは渡りの群れから離れてしまったのだろうか。
「寂しいですね」
「……そうだな」
 遠い北から来た青年は、自らを重ね合わせているのだろうか。屹然と翼をはばたかせる鳥の行方を、蒼いその瞳でじっと見つめている。
 そんな時の蒼は、彼が死神になりたかった頃のようにどこか幻想的で、世界から切り取られたように孤独に見えた。
「蒼」
 紗夜は両手を伸ばして、愛しいその名を呼んだ。蒼はその手を取って、華奢な体を抱きしめる。
「故郷に帰りたいですか?」
 たとえ悲しい思い出が多くとも、生まれた場所は特別だ。己の血肉が育まれた場所へ、人はなにがしかの愛着を覚える。鮭が生まれた川に帰るように、回帰する本能が人にも備わっている。
「もしその時は」
 紗夜は少し体を離し、蒼の額におちかかる髪を梳きわけた。
「私も一緒に連れていって下さいね」
「……その必要はないと、以前にも言っただろう」
 髪を梳く手をとった蒼は、そのてのひらに愛しげなくちづけを落とす。
「私の家は、ここだ」
 鳥の孤影は空を越え、街の向こうに消えていく。


 北へ帰らない鳥のねぐらは、春を待つ花の傍らにあるのだろう。













2012/01/23 up


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