自殺嗜癖の青年と

「本当に結婚するんだ……」
 来訪早々、開口一番にそう呟いた太宰治は、それきり濡れ縁に突っ伏して動かなくなった。いつもはひんやりと気持ち良いはずの板の冷たさも、今の彼には心の傷をさらに抉る要素でしかない。
 しかし傍らでその一部始終を静観していた男――澁澤龍彦は、相手にしきれないとばかりに読みかけの本に目を落とした。

 横浜繁華街から程近い一軒の古本屋――ドラコニアに住まう恋人たちがついに入籍すると小耳に挟んだ地獄耳の太宰は、いてもたってもいられずこうして仕事を放り出してまで足を運んだというのに、目の前の白い男は大して顔つきすら変えやしない。
 あんな別嬪をお嫁さんに貰うのだから、もっと大手を振って喜ぶべきだ。

「君の考えていることは手に取るように解るよ。しかしね、私と鴻はもう十年弱の付き合いだ。今さら紙切れ一枚役所に提出したところで、何が変わるというのだね」
「かああー! 分かってないなー、君は!」
 太宰はうつ伏せていた体を180度回転させ大の字になり、駄々を捏ねる赤子のように手足をばたつかせる。
「女性にとってはその紙切れ一枚が大事なんじゃないか! 小難しい本を読む前に、君はもっと女心ってやつを学ぶべきだね!」
「ふむ、そうか、肝に命じておこう……。しかし私よりその女心とやらを理解しているはずの君は、現状恋人すらいないようだが?」
「ぐうっ……!」
 不可視の矢に射ぬかれた太宰はその場でもんどりを打つが、すぐに勢いよく上体を起こして真顔になる。

「お鴻ちゃんみたいな絶世の美女と結婚? なにそれ、超羨ましい」
「終に本音が出たな」
「そりゃあそうでしょ! 毎日温かいご飯があって、帰ってきたら笑顔で出迎えてくれて、同僚に苛められたときはそっと慰めてくれるのだよ。私だってして欲しい! 抱き締めて欲しい! そして願わくば共に心中をー!」
「相手は地道に探したまえ」
「これが既婚者の余裕と云うやつか……。くそう、今君、世の独身男たちを敵に回したよ!」
 太宰は威嚇する猫のように捲し立てるが、澁澤は肩を竦めるのみで読書を再開した。


 澁澤の恋人――北森鴻と太宰の出逢いは、まだ彼が横浜裏社会で人を殺めていた頃まで遡る。
 大雨の翌日、増水した川に意気揚々よ飛び込み入水を試みたが結局死にそびれ、流されるかままに漂っていたところいつの間にか古書店近隣に漂着。そこをたまたま買い物帰りの、当時まだ少女だった鴻が通りかかり、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。その際ちゃっかり連絡先を入手し、お礼と称したデートを取り付けたまでは順調だったのだが――彼はそこで気がつくべきだった。
 彼女程の器量良しに、恋人がいないはずがないということを――。
 今でも太宰はあの時のことを悔やんでいる。そして長時間水に浸かったせいで発熱し、仔細な判断が出来なかっただけだと思い込むようにしていた。そうしないとやっていられないのである。

 デート当日、浮かれる太宰の目の前に現れたのは、華奢な美女とは程遠い白い成人男性――そう、他の誰でもない澁澤本人だった。
 それだけでも太宰にとっては衝撃だったというのに、澁澤は彼に一言も発言を許さず、あまつさえ鴻が己の恋人であることを強調し、妙な気を起こさぬようしっかりぐっさり釘を刺してから、珈琲一杯すら注文せずさっさと帰っていった。
 それからしばらく、あまりのショックに太宰は連日勤しんでいた自殺さえ億劫になるほどに心身を乱したものだ。

 こんな経験をしたら大抵は縁が切れそうなものだが、太宰という男はただでは起きない。
 ポートマフィアの情報収集能力を私的に駆使し自宅を割り出し、目の保養だなんだと適当な理由をつけては勝手に上がり込んでだらだらと寛ぎ始めた。
 それでも始めの内は蛆虫でも見るような視線で澁澤から追い出されていたのだが、次第に面倒になってきたのか放っておかれるようになった。
 太宰の粘りと図々しさが勝ったわけだ。
 しかし暇潰しにあれこれ言葉を交わすようになると、互いに同じレベルで会話のできる唯一の相手だということに嫌でも気付かされ、結果太宰が後ろ暗い職から足を洗った今でも、彼らの交流はなんだかんだと続いている。

 大げさな溜め息をついた太宰は木柱に頭を預け、
「まあ、君たちが幸せならいいけどさ……。でもそういう大事なことは、直接教えてくれてもいいんじゃない?」
「固定電話のダイヤルを逐一回している私の姿が想像できるか?」
「……いや、うん、悪かった」
 太宰は少々間をおいてから、素直に謝罪した。
 この店の古いダイヤル式電話の前で、電話帳と睨めっこしながら背中を丸める澁澤なんて、同僚の国木田独歩が怠惰になるくらいあり得ない。

「いやでも、せめて社に顔を出すとか! うちの社長はここの常連なわけだし、可愛がっている敦君や鏡花ちゃんだっているのだから」
「なぜそこまでむきになる?」
「ええー、だって水くさいじゃないか! 私たちは別に仲良しこよしじゃあないけれど、それなりに長い付き合いだろう。それにこっちは結婚式に向けて色々と準備をしなくちゃだし」
「結婚式……」
「え、ちょ、まさか君、この期に及んで式を上げないつもりなの?!」
 化け物にでも遭遇したかのような顔で太宰が非難すれば、澁澤は何度か瞬きを繰り返し、
「私も鴻も式に呼べるような親族などいないからね。話題にすら上がらなかったものだから、すっかり失念していたよ。そうか、世間一般ではそういうことをするのだったな……」

 それを言われてしまうと、さしもの太宰もこれ以上強く出られない。
 彼ら二人がそれなりに複雑な事情を抱えているのは、何となく予想がつく。そもそも事情がないのに若い男女が十年近く生活を共にできようはずもない。
 しかも彼の場合、政府直下の副業が多分に厄介であるので、時間の都合がつけにくいというのも大きい。
 愛しい恋人のため甘んじて国家権力の下についているというのに、そのせいで人生最大級の祭事すら行えないなんて気の毒でならない。

「……まあ、結婚式じゃなくても披露宴だってあるしさ。うちの社員は喜んで出席すると思うよ。もちろん私だって! 祝いの席で飲む酒はまた格別だからねー。ついでに蟹を出してくれるとご祝儀が弾むなあ。お鴻ちゃんに一度相談してみたら?」
 照れ隠しとも取れる提案をした太宰は、話題を変えるようにきょろきょろと周囲を見渡し、
「ねえ、それよりもお鴻ちゃんは? 言おう言おうとは思っていたのだけれど、いつも来たらすぐ飲み物を出してくれるのに」
「おや、喉が乾いていたのか。……出涸らしで良ければ出せるが?」
「出涸らし飲むくらいなら、ただのお湯を飲んでいた方がまし」
「ふむ、ではすぐにでも沸かしてこよう」
「いやいやいや、大丈夫! 君のことだから硝子のグラスに注いで持ってきそうなんだもの!」
「さすがにそんな非常識なことはしない。君は私のことをなんだと思っているんだ」

 澁澤は心外そうに片眉を上げ、
「薬缶のまま出すに決まっているだろう」
「うわあ、さらに酷くなった!」
「……南部鉄器だが?」
「それ関係ない! ウェッジウッドの紅茶ポットからでも直飲みはしたくないよ、私は! ……全く、そういうとこだよ、ほんと! そういうとこ良くないよ、君!」
「冗談だ」
「君の冗談は冗談に聞こえないの! 冗談は分かるように言って! それか事前に”これから冗談言います”って宣言して!」
 いつもはしないツッコミを連発したため極度の疲労に襲われた太宰は、真夏に放置されたアイスクリームのように崩れ落ちた。
「心配しなくとも、鴻ならそろそろ帰ってくる。……ああ、ほら、噂をすれば」
 澁澤の視線は太宰を通り越し、縁側のさらに向こうへ注がれている。
 耳を済ませてみると、太宰の耳も玉砂利が擦れる音を拾った。

「……あら、太宰さん。いらっしゃっていたんですね」
「お鴻ちゃーん……」
 買い物袋を提げた美女の姿を目に留め途端、太宰は力の抜けた声を上げ、
「助けてお鴻ちゃん! 君の恋人に苛められているんだ。可愛そうな私を慰めておくれよー」
「まあ、この人ったらお茶もお出しせずにご免なさい。すぐに用意しますね」
 太宰の真意が伝わらなかったのか、それとも分かっていて無視したのか、斜め上の返答をした鴻はスカートの裾を翻し、そそくさと台所へ消えてしまった。

 美女にすげなくされたというのに、太宰は胡座をかきつつ腕を組んでは何事か考え込み、
「うーん、夫婦は似るっていうけれど、それは容姿のことだと思っていたよ。あしらい方が実に君そっくりだ」
「それだけの時間を共有してきたからね」
「……ああー、自分で言っておいてあれだけど、なんか複雑ー」
 互いを頑なに知人だと言い張るわりに仲良さげな男二人は、お茶と茶請けを運んできた鴻を交えながら、その後もしばらく雑談に興じたのだった。


 太陽が沈み始め、国木田からの着信数が洒落にならないほど溜まったというのに帰りたくないと駄々をこねる太宰が、澁澤に塩を撒かれて帰社したのはつい先程のことである。

 澁澤は改めて鴻に淹れてもらった熱い茶で喉を潤しながら一息ついた。
 一度居座ると店主の都合などお構いなしに寛ぐ彼の相手をするのは、中々骨が折れる。
 しかしほったらかしにでもしようものなら、あの男は商品のみならず私物までをも勝手に触り読み動かす。しかもそれに飽きると己が恋人にまで絡みだすため、おいそれと目が離せない。
 とはいえそれが太宰だからこそ、澁澤もこうして面倒でも構ってやっているのだろう。
 別の男が同じ言動をしようものなら、問答無用で叩き出した上で、二度と店の敷居は跨がせない。

「龍彦さんは、この間購入した葡萄酒で良かったですよね?」
「ああ」
 大きめの盆を抱え台所から戻ってきた鴻が、グラスや小鉢などを慣れたように配置していく。彼女は澁澤が何も言わずとも、欲しいものを欲しいときに差し出してくれる。
 縁側に葡萄酒という絵面は一見ちぐはぐだが、これがなかなか乙であった。
 ちなみに両者とも夕飯はあまり食す方ではないため、夜はいつも晩酌と肴を摘まむ程度で済ませる。
 鴻は最近成人したばかりなので、共にグラスを傾けられるようになったことを、澁澤は心の中では喜ばしく思っていた。
 澁澤が詮を開ければ鴻がグラスに中身を注いでいき、二人のグラスは自然とぶつかり合う。

「太宰さんもお変わりないようで安心しました」
「今日はいささか、喧しさに磨きがかかっていたような気もしたが」
「久しぶりに龍彦さんにお会いできて嬉しかったんですよ」
「……君に、の間違いではないのか」
「うふふ……。まあ、そういうことにしておきましょうか」
 破顔する鴻とは対照的に、澁澤は苦手な南瓜が食卓に出されたときのような顔になった。
 いつもはからかわれることの多い鴻なので、これはチャンスとばかりに追撃をしかける。

「そうそう、私が始めて太宰さんと約束したお茶会に、龍彦さんが乗り込んでいったことがありましたね」
「その話は蒸し返すんじゃない……」
「いいえ、私は今でも怒っているんですからね。聞き分けが悪いからって、まさかドラコニア・ルームに閉じ込めるだなんて」
「それは私が悪かったと、何度も謝っただろう……。新しい服と家電、それに甘味まで買ってやったのだから、いい加減忘れたまえ」
「そうやって物で釣るのも頂けませんわ。約束の場所に龍彦さんみたいに愛想のない男性が現れた時の太宰さんの気持ちを考えると、申し訳なくって……」
「川を流れてくるような人間がまともなはずがない」
「あら、桃太郎は鬼退治をしましたよ」
「当時の太宰君はむしろ、桃太郎に退治される側だったろう」
「それはそうですけれど……」
「危機管理能力が著しく欠如している君のことを慮っての行動だ」
「う、そこまで酷くは……」
「そもそも君はもっと自分の容姿に自覚を持つべきだ。幼い頃、誘拐されそうになったのは一度や二度ではないだろう。今だって少し目を離しただけで不埒な輩に丸め込まれそうで、私はひどく心配しているのだ」
 いつのまにやら形勢逆転し、再び主導権を握った澁澤が鴻の細腕を引っ張り、腕の中へ閉じ込める。

「第一私は、恋人に言い寄ろうとしている不届き者を、みすみす見逃すような心優しい男ではない」
「存じております……」
「であれば、普段の言動から改善して欲しいものだな」
「善処します……」
 こてんぱんにしてやられた鴻は、意外と逞しい恋人の腕の中で残念そうに肩を落とした。彼女が澁澤に勝てる日は、まだまだ遠そうである。

「なんだか龍彦さん、年々意地悪になっていませんか……」
「そういう君も、昔はもう少し素直だった気がするが」
「貴方と一緒にいるから、臍曲がりになってしまったんです」
「ふふん、こんな男に惚れたのが運のつきだな」
 不貞腐れたように唇を尖らせる鴻をどこか楽しげに見つめる澁澤は、瓶が空になるまで恋人を離そうとはしなかった。


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