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 器用に人波をかき分けながら、中嶋敦はヨコハマの繁華街をひた走っていた。
 数分前に上司から届いた「至急帰社されたし」の一報を受けてのことであるが、そもそも彼がこうして外出していたのだってその上司のせいである。
 理不尽だ!
 不満を爆発させるように、敦はさらに速度を上げた。

 暇さえあれば人目もはばからず自殺心中と謳って行方をくらます勤務怠慢な男の捕獲を押し付けられているようで、彼はとても不服だ。新人であるからある程度の雑務は負ってしかるべきなのだろうが、果たしてこれは業務内容に含んでいいのだろうか。逃亡対策としての身柄拘束をたまに実行してしまいそうになるが、自他共に認める自殺愛好家のあの男はきっと、それすら歯牙にもかけないのだろう。
 僕がこうやって考えてることも、きっとお見通しなんだろうな……。
 諦めたように肩を落として道を右折した敦だったが、何だか小さくて柔らかいものに当たり後方に数歩たたらを踏んだ。

「……す、すみません! 大丈夫ですか?!」
 相手が女性で、しかも勢い余って地面に尻餅をついていたため、慌てふためいた敦は即座に謝罪をして傍に駆け寄った。
 倒れた女性は同性の中でも小柄なほうであるらしく、首も手も脚も一捻りで折れてしまいそうなほどに頼りない。どこかに怪我でもしてやいないかと不安になり敦の身はすくんだが、幸いにも女性は無傷だったようで、
「……大丈夫です。こちらこそごめんなさい」
 そう呟いておもむろに顔を上げた。

 うわぁ……。
 女性の容貌を真正面から認めた敦は思わず目を奪われた。
 白磁の肌に筋の通った鼻、長い睫毛が影を作り物憂げにも見える黒曜石の瞳に、癖のない長髪は烏の濡羽色。小ぶりな唇だけが赤い。胸元と袖にレースのあしらわれた上品な膝上の黒いフレアワンピースは、まるで彼女のために拵えられたかのように裾を泳がせ、黒いタイツと同色のハイヒールが小さな足を守っていた。
 絵本から飛び出してきたお姫様みたいだ……。
 あまり学があるとはいえない敦ではこの程度の表現が限界であったが、仮にどれだけ知識があって語彙が豊富であろうとも、彼女の規格外の美しさを現す言葉などないように思える。仕事柄、これまでにも彼は多種多様な人物と遭遇してきたし、職場も粒ぞろいの美人が揃っているが、これほどの麗人には未だかつてお目にかかったことがなかった。
 それくらい、彼女は美しかったのだ。

 閉口する少年の態度から腹を立てていると捉えたのか、女性はすっくと立ち上がって、
「本当にすみません。急いでいたとはいえ、こちらの前方不注意でした……」
 深々と腰を折り、丁寧な謝意を述べた。
 するとようやく敦も我を取り戻し、女性よりもさらに深く頭を垂れて、
「そんな、謝らなきゃいけないのはこっちのほうですから……! ほんっとうに、すみません!」
「いえ、こちらこそ本当にごめんなさい……」
「怪我とかしてませんか?!」
「ええ、何ともありません。そちらこそ、どこか傷めたりは……」
「ありません、まったく、全然、これっぽっちも! 体が丈夫なことくらいしか、とりえがありませんから! か弱い女性にぶつかって転ばせるなんて本当に、男の風上にも置けません! すみません、すみません……!」
「いえ、こちらこそ……。いたいけな少年に衝突してしまうなんて、本当にごめんなさい……」
 壊れた玩具みたいにいつまでも交互に詫び続ける両者は、魔都と悪名高いヨコハマの街でも浮いている。

 とはいえしばらくすると二人の間には、自然と笑いが起こった。
「ふふふ……。それでは、ここは喧嘩両成敗ということにしましょうか」
「はい!」
 敦は元気よく応じた。
 ただ女性が笑っただけなのに、まるで満開の桜の下にいるような、不思議な高揚感が湧いてくる。
「この街は良からぬ噂が多くて気掛かりだったのですけれど、貴方のような人がいるのなら、そう悪いところではないのでしょうね」
「まぁ、実際に色々と起こってるのは事実なんですけどね……」
 決まり悪そうに頬をかく敦だったが、だけど僕も今ならそう思いますと断言した。
 苦しいことも辛いことも沢山あったが、それ以上に嬉しいこと楽しいことをこの街は教えてくれた。

 どこまでも実直な少年を穏やかに見つめていた女性は、短い別れの挨拶をすると踵を返す。その遠くなる小さな背中を敦は無意識に呼び止めていて、
「あ、あの……! 実は僕の職場、ここから近いんです。もし――もし良ければですけど、そこでお礼をさせてもらえませんか?!」
 言ったそばから彼は自分の顔が火を噴いているのが分かった。女性を誘うなんて初めての経験であるし、ナンパだと勘違いされていたらそれこそショックでしばらく立ち直れない。しかもこれが同僚や上司にばれた未来を想像すると、ざんきに耐えなかった。
 とはいえ幸か不幸か、彼の一世一代の勇気ある行動は初回で空振りに終わることとなる。
「ごめんなさい、とても魅力的なお誘いなのですけれど……。今、少々立て込んでいて……」
「そんな、こっちこそいきなりこんなこと言って、すみませんでした!」
 何度目かになる深いお辞儀をした少年に手を振った女性は、そのうち喧騒に紛れて見えなくなった。

「はぁ……」
 何だかどっと疲労が押し寄せてきて、敦は盛大にため息をついた。原因を作ったのは自分なので文句は言えないが、嬉しいやら恥ずかしいやら情けないやら――色んな感情がぐるぐると体中を駆け巡っているのが酷くこそばゆい。
 結局、自己紹介もできなかったなぁ。このことは皆には内緒にしておこう……。
 固く己にそう誓った少年のポケットがやにわに振動し、支給された携帯電話の画面を確認すれば、そこには見慣れた上司の名が表示されている。
 やばい……!
 敦は帰社を急いでいたことを思い出し、脱兎の如く職場へと駆けていった。


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