祈りの先に 急

 あれから数ヵ月の間に、港町の様子はすっかり様変わりしていた。
 以前は労働者たちで賑わっていた酒場や娯楽施設は店を閉め、道には人どころか犬一匹歩いておらず、静寂だけが町を支配している。
 当然あの教会にも、人の姿などなかった。

 これだけの衰退を招いたのは、町の収入源だった資源採掘現場で起こった大崩落が切欠だ。
 作業員の被害は数百に及び、未だ掘り返されてすらいない遺体も多いという。
 復旧や賠償にかかる莫大な費用と今後の収支を天秤にかけた結果、投資企業が事業から撤退。
 そうなれば後は坂道を転がり落ちるようなもので、採掘場は当然のように閉鎖、若者たちは新たな職を求め退去。
 そうして町に残されたのは老人ばかりになった。そんな彼らも数年放置した船では海に戻ることもできず、ある者は親族縁類を頼り、またある者は施設に入居するため、一人また一人とこの町から去っていき、町から人の営みはなくなっていた。

 そう――全てはフョードルの手の平の上である。
 他愛ない……。
 もはや生物の息吹すら聞こえない町を見渡すフョードルの口から、不意に咳が零れた。
 あれから幾度か地下牢の鴻に会いに行っているが、彼の体は徐々に、しかし確実に毒に蝕まれている。
 異能発現直後の制御不可が原因だろうが、あの短時間の邂逅だけでこれだけ体に変化があるとは、彼女の異能はかなり殺傷性が高いらしい。
 しかし、フョードルに彼女を見捨てるという選択肢はない。むしろ離れていても直に彼女の存在を感じられ、幸福感すらあるほどだった。

 フョードルはいつものように、鴻と出会ったあの白い教会を目指す。
 神父を亡きものにした後、教会の所有者に成り代わったフョードルの手練手管によって廃墟と化した町並みの中でも、教会は唯一その美しさを保っている。

 教会に着くと、彼は箒を携えた一人の老婆に出迎えられた。
 彼女は鴻の世話と教会の維持管理をさせるためにフョードル自らが雇った人物で、廃れた町から移住する金も頼る先もない独り身の町人だ。
 しかしそんな老婆の存在はフョードルにとって渡りに舟であった。
 鴻と教会のことを他言した時点で解雇という契約になっているため、己が生きていくために老婆は死ぬまで口を噤み続けるだろう。

「ご苦労様です」
 擦れ違い様に言葉だけの労いをかけたフョードルに老婆は深くお辞儀をすると、掃除を止めてひっそりと教会から出ていった。流石に年の功というのか、二人の邪魔をすべきではないと敏感に感じ取ったのだ。

 フョードルは通い慣れた通学路のように地下道を軽やかに進み、変わらず鉄格子の奥にいる美しい少女をうっそりと見つめる。
 自分がこれまでにしでかした悪事を知ったら、彼女はどうするだろう。
 奸物だったとはいえ仮にも実父を殺害したことを怒るだろうか。町から人を追い出したことを悲しむだろうか。
 ――いや、彼女は怒りも悲しみもせず、ただ只管に祈り続けるに違いない。
 牢に閉じ籠り外界を拒絶する彼女の行為は、端から見れば愚かなことなのかもしれない。しかし己が罪から目を背け、あまつさえ自覚すらしていない連中より、遥かに尊いことのようにフョードルには思える。

「こんにちは、鴻さん」
「まあ、フョードルさん。またいらしたのですか……? ここは危ないからと、以前も忠告をしたはずですのに……」
「そうでしたか……? まあ、よいではありませんか。それより、この短期間で随分と制御が効くようになっているようですね。流石は鴻さんです」
「先生の教え方の賜物です。それに練習を口実に頻繁にいらっしゃる方がいるんですもの、必死にもなります」
「おや、私のためですか。嬉しいことを言ってくれますね」
 暗がりでも分かるほど頬を染める少女が思いの外可愛らしくて、フョードルはまるで鉄格子などないように、するりと中に入っていく。

 蝋燭しかなかった初日に比べ、牢の中は確実に物が増えていた。
 時計やドレッサーに簡易寝台、鏡や本棚、小さな電灯まであり、これらは全て女性が暮らすには不便すぎると言って聞かないフョードルによって齎されたものだ。
 本当は水回りの設置もしたかったのだが、工事が大掛かりになった際に彼女が被る支障を考慮し、寸でのところで踏み止まった。よって体を清めるための道具や食事の運搬も、あの老婆の仕事である。
 電気は一応通したが、テレビやラジオは用意されていない。不用意に外の情報が彼女の耳に入るのを阻止するためだ。
 何もかも鴻のためを思って行動しているようでいて、実際のところは全てフョードル自身のためだった。

 シミ一つない白シーツが泳ぐ寝台上の鴻の隣に腰掛けたフョードルは、少女の細く小さな手を握り締め、
「もう貴女を、ここから無理に出そうとは思いません。貴女には貴女の決意がありますからね。……ただ、これだけは言わせて下さい」
 宇宙の果てを思わせる少年の瞳が、少女の深海のようなそれを飲み込まんばかりに見据える。今にもその二つは混じり合ってしまいそうだ。

「貴女は決して独りではありません。世界中のあらゆる人間から貴女という存在が忘却されたとしても、私は――私だけは、永遠に貴女の味方です」
「……」
 どう応じるべきか判じかね黙って目を伏せる鴻の手の甲に、フョードルはゆっくりと薄い唇を落とした。
 その行為は女神に許しを乞う凡夫のようでもあったし、姫に永遠の忠誠を誓う騎士のようでもあった。

 ――彼女は間違ってなどいない。
 諸悪の根元は異能なのだと、フョードルは心中で一人ごちる。
 これほど高潔で美しい少女が汚れているはずがない。彼女が安心して祈れるような、罪のない清らかな世界を――。
 フョードルは己が目的を再確認し、更に固く誓ったのだった。

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