今日もお休みですか……。
いつもの教会、いつもの最後列から前方を眺めていたフョードルは、僅かに眉を潜める。
鴻が教会に姿を見せなくなってから、今日で丁度一週間。
当初は信者の間でも心配の声が上がっていたものの、神父の体調不良という言葉を鵜呑みにした烏合の衆は、三日目にはもはや話題にもしなくなっていた。
「――すみません」
いの一番に立ち去ろうとする神父に、フョードルは声をかけた。
「体調が芳しくないということですが、お嬢様のお加減はいかがですか?」
「……ああ、わざわざ有難う。娘のことなら問題ない。疲れが溜まっていたのだろう。家で休んでいればそのうち治るさ」
「おや、ご自宅にいらっしゃるのですか? では、少しだけでもお見舞いを」
「そ、それは駄目だ。私はこれから外出の予定があるし、あんな体で客人を持て成すなど……」
どこか判然としない司祭の顔には娘を心配する素振りはなく、異人の少年に対する煩わしさと、ほんの少しの安堵が見て取れた。
なるほど……。
フョードルには神父の心中など手に取るように分かった。
司祭である自分より人気と人望のある娘のことが、この男は気に食わなかったのだ。その原因が取り除かれたことで己が権威が復活したことを、こともあろうに喜んでいるのである。
少女の姿が見えなくなってから信者の数は目に見えて減っているにも関わらず、そんなことには露ほども気が付いていない。
「私は忙しい身でね。用がそれだけなら失礼するよ」
その内逃げるように教会を後にする神父の背を、フョードルは温度のない暗紫の瞳で見つめていた。
指に付着した血を煩わしそうに拭うフョードルの足元には、カソック姿の男が道端の石ころのように転がっている。心臓は既にその役割を果たしてはいない。
掃除の行き届いた自宅のフローリングに放射線状に飛び散った赤が太陽に照らされ輝く様は、まるで男の罪を裁いたフョードルを称賛しているかのようだ。
男の話など端から信じてはいなかったが、病に臥せっているというわりに通院履歴のない少女の行方を追う過程で、芋蔓式に神父の悪行が詳らかになった。
男は司祭という立場にありながら信者の女性と複数関係を持っており、中には既婚者も含まれていた。ミサの後の度重なる外出は、彼女たちとの密会が理由だったわけだ。
もしかすればそんな男にとって、娘の鴻は疎ましい以上の邪魔な存在だったのかもしれない。
神の使いが聞いて呆れる。他者を救う前に娘を救え。娘一人救えない者に、他者を救うことなど出来ようか――。
フョードルはなんの感情も浮かんでいない顔で、黒い物体を見下ろす。
……でも心配しないで下さい。彼女のことは貴方の代わりにぼくが救って差し上げましょう。
とうの昔に男から興味を無くしていた彼は、その足で協会へ向かった。
教会において変動があったのは、少女がいなくなった日の前日。
なにやら作業服を着た男たちが数名、夜分遅くに中へ入るのを目撃した者がいた。しかもその男たちは始めて見る顔で、どうやら町外から訪れたらしい。
そこからさらに調査した結果、この教会の地下は戦前隠れキリシタンの潜伏先になっていたことが判明した。
教会や自宅にもおらず町から出た形跡もないとなれば、答えは自ずと知れる。
慣れたように十字架の真下のタイルを持ち上げると地下への入り口が開け、そこにフョードルはなんの躊躇いもなく身を投じる。
狭く急な階段を降りれば、程無くして足が平面についた。
地下は自然の明かりは一切入らず、前後左右が不明瞭なほど暗い。しかし事前に教会から燭台と蝋を拝借していたフョードルはそれに火を灯すと、鼠を彷彿とさせる足取りで進んでいく。
地下は岩盤を掘っただけの代物らしく、人工物や人の生活を匂わせる代物が見当たらない。所々に掘られた十字架だけが、当時の面影を残していた。空気は冷たさでぴんと張り詰めており、凸凹と隆起した地面に足を取られそうになる。
それでも暫く緩い蛇行を繰り返すと、前方がぼんやりと明るくなってきた。歩行速度を上げたフョードルは、ついに目標に辿り着く。
「鴻さん」
探し人は鉄格子の中にいた。
頼りない数本の蝋燭のみで照らされた少女は、見えるはずのない空を仰ぐように一心に祈りを捧げている。
フョードルの読み通り、先日入った業者はこの牢獄を拵えるための人員だったのだ。辛うじて面積が広いのは、実の娘への情けだろうか。
格子状に張り巡らされた鉄棒は間隔こそ大きめだが、二人を分かつには大き過ぎる隔たりだ。
「迎えに来ました。一緒に地上へ出ましょう」
鉄格子越しに声をかけたフョードルだったが、少女はそちらを一瞥しただけで首を横に振る。
「司祭に閉じ込められているのでしょう? それなら安心してください。ぼくが既に話をつけてきましたから」
「いいえ、父は関係ありません。寧ろここを提供してくれた父には感謝しています。私は自分の意思でここにいるのです」
フョードルが怪訝そうな顔をしたのを空気で感じ取った鴻は、さらに続ける。
「今の私は、ただ悪戯に周囲を害するだけの悪魔です。ですから、ここから出るわけにはいかないのです」
「何を――」
そこでフョードルは不自然に言葉尻を切った。
暗闇の中、鴻の周囲だけが鈍く煌めいている。それは地面にも這っており、よくよく目を凝らすと岩や鉄格子の一部が不自然に溶けていた。
まさかこれは――。
十中八九、異能力だ。
フョードルは僅かに瞠目した。
おそらく溶解性の毒液を分泌する異能なのだろう。ただし制御が出来ずに持て余し、他者に被害が及ばぬよう、彼女はここに自ら閉じ籠ったのだ。
貴女はどこまで清い存在なんだ――。
「その力は訓練すれば使いこなせます。実は私にも似て非なる特殊な能力――異能が備わっています。ですからきっと、貴女の力になれるはずです」
フョードルは牢の中へと手を伸ばすが、鴻がそれを掴むことはない。
「……母が亡くなったのは、きっとこの力のせいです。どうして今頃になって再び発現したのかは分かりません。しかい私はその罪を償わなければなりません。だからここで祈りたいのです。これは私に与えられた罰。それが許されるまで、ここから出るつもりはないのです。……さあ、フョードルさんも早くここから立ち去って下さい。私から出る毒液はとても危険です」
「鴻さん……」
どこまでも頑なな少女に、さしものフョードルも二の句が継げなかった。
牢の鍵も入手済みのため力任せで引きずり出すことは可能だ。しかし彼が鴻にそんな無体を働けるはずもなく、後ろ髪を引かれる思いで一度引き上げるしかなかった。
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