祈りの先に 序

 少年――フョードル・ドストエフスキーがそこを訪れたのは、純粋にただの気紛れであった。
 横浜に眠る白紙の文学書の噂を聞き付け極東の島国まで足を運んだものの、現状では奪取不可能という結論に至り、延いては志を同とする協力者と綿密な計画が必要だった。
 その憂さ晴らしというわけではないが、足の向くまま彷徨っていたところ辿り着いたというだけであった。

 横浜から程近い山間にある小さなその港町は、数年前大手企業によって建設された資源採掘場で潤っており、漁業によって生計を立てていたかつての面影はない。漁港には打ち捨てられた漁船が漂い、卸売場も閑散としている。

 しかし海を離れ山間部に近づくにつれ、往来は増えていく。
 以前は限界集落といっても過言ではなかった町には、路傍を駆け回る子供や呼び込みの声で活気に満ちていた。周辺地域のみならず遠方からも、働き手として若者が移住しているのだ。
 そういった新参者が珍しくない土地柄からか、異国人であるフョードルを見かけたところでいぶかしむ様子もない。
 都市部に大分遅れることやってきた、近代化の波というやつか。いずれにしろ、平和なことだ。

 そんな今昔入り混じる小さな町を、フョードルは人波などもろともせず、するすると散策していた。
 すると前方に、喧しく煩雑とした町には不釣合いな白い建造物が姿を現した。
 僅かに首をもたげた好奇心に誘われるがまま、フョードルはその建物に近寄っていく。

 邪を拒む結界の如く建物を取り囲む赤い薔薇、迷い人を導くような石畳、色鮮やかなステンドグラスに、天高く伸びる白い塔――。
 それはこじんまりとしていながらもどこか荘厳な雰囲気を纏った、一堂の教会であった。
 こんなところにも神の目は届いているのですね……。
 フョードルの口からは自然と深い息が出る。

 敷地内は綺麗に手入れが行き届いており、町中とはどこか隔絶された印象がある。
 小気味良い音を立てながら石畳を進めば、ぴたりと閉じられた大きな両開きの扉が正面に現れた。
 フョードルは装飾の施された金色の取っ手の感触を確かめた後、血の透けるほど青い手でゆっくりと開け放った。

 まず目に入ったのは、正面に掲げられた巨大な十字架。あらゆる悪を断罪し、迷える子羊を救うには十分過ぎる威厳がある。
 その真下には小さな祭壇、背後には有名な宗教画を模したステンドグラスが嵌められ、万華鏡のような陽の光が優しく堂内を照らしている。前方左手には小降りなグランドピアノ、中央には赤絨毯が敷かれ、左右の椅子はせいぜい五十人収容するのが限界か。

 春先とはいえどこかひんやりとした教会の奥へ進んでいくと、そこで始めてフョードルは自分以外の人間がいることを認識した。
 人の気配には敏感なはずの自分にここまで存在を秘匿できるとは……。
 俄然興味が湧いてきた彼は、確固たる目的をもって足音も立てずにその人影に歩み寄っていく。そして正面に回り込んだ途端、フョードルは言葉を失った。

 色取り取りの光に彩られた少女が、この世のものとは思えないほど美しかったからだ。
 フョードルの存在に気付かないほど熱心に祈りを捧げる少女は、天使の輪が輝くほどの艶々しい黒髪に、ほんのり色付いた頬が眩しい白磁の肌、閉じられた瞼を縁取る長い睫毛は自然と上を向き、赤い唇が妙に扇情的だ。そしてクリームのたっぷり乗ったパンケーキのように柔らかいワンピースが、彼女の細く小さな体を真綿のように包み込んでいる。
 年の頃は十代半ばだろうか。少なくともフョードルよりは年若い。
 どうやらその年齢にそぐわぬ小柄さが、結果として椅子の背凭れに彼女の姿を隠す結果となっていたらしい。

「……あら、今日の礼拝は先程終わってしまいましたよ」
 ついいつもの癖で人間観察をしていたフョードルの耳に、軽やかな声が入ってきた。声ですら天使のようだ。
「……ああ、いえ、祈りを捧げに来たわけではありませんから」
「そうなのですか?」
 見も知らぬ男を相手にしているはずなのに、少女の瞳は満点の星空を閉じ込めたかような眩しさを湛えており、フョードルは知らず目を眇める。

「ええ、この辺りをぶらぶらしていたら、たまたま目に入りましてね。とても立派な教会でしたから」
「有り難うございます。そう言ってもらえると、私も嬉しいです」
 作り笑いではない、心の底から涌き出る笑顔を浮かべる少女に、フョードルも裏のない疑問を投げかける。

「ところで、貴女のお名前は?」
「まあ、挨拶もせずに失礼いたしました。私は北森鴻と申します。貴方は……始めまして、ですよね?」
「ええ、フョードル・ドストエフスキーと言います」
「まあ、どちらのお国のお方なのでしょう」
 その質問にフョードルは笑みを浮かべただけで答えず、
「先程礼拝は終わったと仰っていましたが、貴女は随分と熱心なのですね」
「熱心かどうかは……。ただ父がここで神父をしているので、時間がある時は自然と足が向いてしまうのです」
「これだけ祈りを捧げられたら、神もさぞお喜びでしょう」

 フョードルの言葉に、敬虔なキリシタンの少女は照れ臭そうに目線を外した。しかしすぐにはっとして、
「もし宜しければ、ご一緒にいかがですか?」
「素敵なお誘いですが、ご迷惑では?」
「いいえ。父は只今外出中で、帰宅まであと数時間はありますし、遠慮せずにどうぞ。それに偶然とはいえ、今日貴方がここに訪れたのは何か意味があるかもしれませんもの」
「おや、そうですか。では、お言葉に甘えて」
 フョードルは外套の裾を翻しながら少女の隣に腰掛けたが、彼女が祈る姿を飽きもせず眺めていただけだった。



 それから二日と置かず足しげく通うようになったフョードルが信徒から聞き出した情報によれば、この教会は鴻の天使のような愛らしさが受け、住人も足しげく通っているらしい。
 しかしフョードルからすれば、それはただの言い訳にしか聞こえなかった。
 おそらくこの町に古くから住まう人々は、利益のために町の歴史を捨てたことに後ろめたさを感じている。
 過去を守るか目先の益を取るか、どちらを優先すべきかという問題に正解はないはずだ。しかし例えどちらを選んだとしても、彼らの心が晴れることはない。
 とはいえ彼女はそれすら見透かした上で、彼らの心を救わんとしているようにフョードルの目には映る。

 そしてそんな清廉で天真爛漫な少女に、フョードルもいつしか惹かれていた。
 ――いや、おそらく一目見た瞬間から、心を捕まれていたに違いない。
 盗賊団の頭目の心を奪うなど、傑物なのかそれとも不運なのか。
 何れにせよいつもミサが終わる頃にふらりと現れるフョードルは、最後列から暫し少女の姿を堪能した後訪れる、短いながらも二人だけの時間が殊の外心地良かった。

「外の薔薇はいつも綺麗ですね。あれは何方が手入れをなさっているのですか?」
「僭越ながら私が。以前は母がしていたようなのですが、産後の肥立ちが悪かったのか私が生まれてすぐに亡くなってしまいまして……。それからは放置されていたようですが、数年前から私がまたお世話をするようになりました」
「あの量をお一人で……。それはさぞ大変でしょうね」
「そうですね、始めの内は棘で怪我ばかりしていました。けれど、花は注いだ愛情を綺麗に咲くことで返してくれますから、苦に思ったことはありません。それに薔薇は花弁をポプリや茶葉にしたりと、使い道も多いんですよ。なにより教会の白に薔薇の赤はとても映えます」
「そうですね、私も目を奪われましたから。……ところで、お茶も作っているのですね。ぜひご賞味に預かりたいところです」
「まあ、でしたら出来上がったらお裾分けしますよ。たまに信者の方にも配りますから」
「有り難い申し出ですが、困りましたね。ぼくはお茶を淹れるのがどうも不得手でして……。それに美味しいものは美しい人と共に味わいたいのです」
 流れるように鴻の白い右手を掬い上げたフョードルが笑みを浮かべると、少女は熟れた林檎のように頬を真っ赤にして俯いてしまった。

 ひどく他愛ない内容にも関わらず、天使と見紛うばかりの美しい少女との会話は心が洗われるようだ。自分が今後成そうとしていることがとても愚かなことであるかのように、フョードルは錯覚してしまいそうになる。
 この時間がもう少し長く続いていたなら、彼が”魔人”と呼ばれ畏怖されることはなかったかもしれない。
 彼らの細やかな幸せは、ある日突然呆気なく終りを告げた。


[21/25]

[戻る]
[しおりを挟む]
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -