これといって特徴のない、ただただ白いポートマフィアの緊急避難通路を、中原中也は淡々と歩いている。
 そしてそんな彼の左手には、北森鴻の小さな右手が確りと握られていた。

 こんなに心優しく穢れを知らない少女が、裏社会でやっていけるのか――?
 無論、そんな疑問が沸かなかったわけではない。
 今後師事することになる尾崎紅葉でさえ、心配していたほどだ。しかし鴻が共にポートマフィアに加入することに関して、中也は思いの外すんなりと受け入れられた。
 理由はいくつかある。

 まず現在の混沌極まる横浜において、ポートマフィアほど彼女を守ることに適した組織はないということ。
 首領の人格、組織的戦力、そしてこれは癪ではあるがあの太宰という少年の知略も、敵に回すには非常に厄介なものだ。しかし一度味方になってしまえば、鴻の身の安全は磐石なものとなる。
 それから、いつまでも二人きりでいるのは限界があるだろうという現実を考慮したこと。
 中也も鴻も互いが一番大切な人である、という事実は揺るぎようがない。だからとはいえ、決して依存したいわけではない。互いが互いの幸せを願っているからこそ、相手の枷になることを良しとしていないのである。
 それならどこか安全な、裏社会とは縁遠い場所に彼女を匿うべきだ。おそらく一般的な考えなら、そうするのだろう。

 それでも――彼女と離れ離れになることだけは、中也は許容できなかった。
 枷にはなりたくない、足を引っ張りたくない。しかし共にいたい、いつも側にいて欲しい――。
 そんな相反する感情の狭間に、彼らはいる。

 中也が様子を窺うように目線だけで横を見やれば、それに気付いた鴻が笑顔で応える。
 その不安も恐怖もない、中也への信頼と愛情だけが滲み出る笑顔を見るだけで、彼の心中に渦巻くもやもやとした感情は吹き飛んでしまう。
 中也が大切な少女の手を強く握り返すのと時を同じくして、前方からひょろりと細長い人影が近づいてきた。その両脇にも小柄な影が二つある。

 徐々に双方の距離が詰まってくると、影の正体が次第に視認できるようになってくる。大きな人影は首領の森鴎外。
 そしてその隣には――、
「あーー!」
「手前え!」
 少年二人は顔を見合わせるなり、同時に声を荒げた。

「ちょっと、どうして君が鴻ちゃんと一緒にいるのさ!」
「ああ?! そんなもん当然だろうが! 自然の摂理! それ以外にねえよ!」
「せっかく鴻ちゃんとあんなことやこんなことができると思ってたのにー! そしてそれを君に見せびらかすという、僕の重大かつ崇高な計画が破綻してしまったじゃないか!」
「それのどこが崇高だ! 阿呆!」
「小人の癖に、責任取れ!」
「俺は小人じゃねえ!」
 中也はそう吼えた後、ふと何かに思い至った様子でニヤリと右の口角を上げ、
「……ははん、手前、もしや負け惜しみか? 鴻程の美少女に素気無くされて、悔しいんだろ」
「はあ? 冗談は身長だけにしてよね。勝った僕がどうして君に負け惜しみを? まだ君を僕の犬にするというあの契約は有効なんだからね」
「だからあれは手前の小癪な――」
「森さーん、チェンジ! 今すぐチェンジ!」
「勝手なこと抜かすな! つうか人の話くらい聞けよ!」
「鴻ちゃんがいてくれたら僕、もうちょっと仕事してあげてもいいよ! 自殺もほんの少しなら回数を減らしてあげたっていい!」
「巫山戯んな! やっぱ出前は殺す!」
 互いの髪や胸ぐらを掴み合い、精神的にも肉体的にも凸凹な少年たちはメンチを切り合う。

 そんな二人の様子を、鴻が微笑ましそうに眺めていた。自分の前ではいつも格好良く毅然とした中也が年相応で嬉しいのだろうか。
「……ふふっ」
 その内我慢しきれなくなった鴻の笑い声が漏れ出すと、少年二人は無言ですうっと互いに距離を取った。
 可憐な少女の前で大人げない言動をしたのが、今更ながらに恥ずかしくなったのだ。いくら狡猾な頭脳や圧倒的暴力性を秘めていようと、こういうところはまだまだ可愛らしさの残る少年だ。異性の前では格好つけたいお年頃なのである。
 とはいえ太宰が鴻の両手を握り絞めて久方ぶりの再会を喜び出せば、怒った中也が再び太宰に噛み付き、少年たちの喧しい言い争いは終わりを見せない。

「マフィアはいつから児童保育施設になったのかえ?」
 中也と鴻を引率していた紅葉は呆れると同時にマフィアの将来に少々不安を覚え新首領に疑問を投げかけたが、当の本人は大丈夫だと首を横に振るばかり。
 森は静かに中也と鴻を見つめる。
 中也の手には古い黒帽子、そして鴻の首には黒いチョーカーが、まるで初めからそこにあったかのように鎮座していた。


 中也に遺品である黒帽子を授けた後、森は鴻と面会していた。
 中也と共に紅葉預かりとなった鴻は一通り着せ替え人形になった後、結局黒のワンピースを与えられたらしい。紅葉は自分と同じく和装をさせたかったようだが、彼女の容姿には洋装の方が似合うという結論に至ったようだ。
 それには森も大賛成だが、強いて言うならもう少しレースとフリルが多いと尚良し。あと欲を出すなら差し色も欲しいところだ。

 身長的には全然アリなんだけどねえ……。
 森は執務机の向こうに立つ、人形のように美しい女児を観察する。
 鴻の体格は十三歳にしてはかなり小さい。中也と並ぶ分には非常に似合いなのだけれど。栄養が足りていないわけではないようなので、おそらく遺伝だろう。

 あと一年、いや半年でも早く会いたかったと思わなかったといえば嘘になる。しかし今はそんなことを口走らなくて正解だったと、森は己が英断を賞賛した。そんなこと一言でも口にしていたら、おそらく中也はどんなしがらみをかなぐり捨ててでも森を始末していただろう。
 そのくらい中也にとって北森鴻という少女は大切で、何者にも代え難い存在なのだ。

 中也が”羊”に入ったのも彼女のためだろうと、森は推察している。
 おそらく彼は自分が彼女を守れない抜き差しならぬ状況に陥った際、彼女に降りかかる危険を受け止めるための、いわば傘が必要だったのだ。とはいえマフィアやGSSは信用できない。
 そこで子供だけで結成された”羊”に身を置いた。無論、彼らの力になりたいという彼の気持ちは嘘偽りないもののはずだ。
 しかしやはりその根底には、少女の存在がある。

 二人の出会いに興味が沸いた森は、鴻に訊ねてみることにした。彼女ならばはぐらかしたりせず、正直に告白してくれるに違いない。
「鴻ちゃん、これは強制ではないのだけれどね……。中也君とはどうやって知り合ったんだい? 随分長い間、共にいるみたいだけれど」
 それに鴻は、こちらの世界にはまるで不釣合いだ。

 少女は僅かに躊躇う素振りを見せたが、森の思惑通りすぐに口を開く。
「中也君と出会ったのは八年ほど前です。……実は私、小さい頃とある犯罪組織に攫われて、そこで暫く異能の使用を強要されていました」
 これは森も予想していた。
 死を拒絶する貴重な異能を有する女児がいるという噂は、かつて彼の耳にも入っていたからだ。おそらく件の組織はその稀有な異能を利用して戦況をひっくり返し、あわよくば他組織を出し抜いて横浜で一旗上げようと画策していたのだろう。
 しかしその後ぷっつりと消息が掴めなくなっていたため、てっきり抗争に巻き込まれて亡くなったものとばかり思っていた。

 先を促すように森が頷くと、鴻はワンピースの裾を小さな手でぎゅっと握る。
「来る日も来る日も異能を使って疲弊していた頃でした。私を捕らえていた組織が他組織と一時的な協力関係を築くために、秘密の会合を設けたのです。ですが――どうやら相手組織は手を結ぶつもりなど更々なく、狙いは端から私の異能だったようなのです。それから両者は全面抗争に発展していきました」
「騙し合いは日常茶飯事。ちょっとした読み違いが死に直結する世界だからねえ……。それで、その後君はどうしたのかな?」
「はい……。私はその混乱に乗じて組織を逃げ出しましたが、子供の足で逃げられる距離なんて、高が知れています。すぐに追っ手に居場所がばれて、袋小路に追い詰められてしまいました。――中也君に会ったのは、まさにその時です」

 鴻は微かに頬を桃色に染めながら、
「初めはそれが何なのか、分かりませんでした。それは突然空から、私と追っ手の間に降ってきたのです。一瞬燃えた木材でも飛んできたのかと思いましたがどうやら生物のようでしたし、でも、それにしては理性を持ち合わせているようには見えません。そしてそれは一瞬で追っ手を戦闘不能にして、私の方へ振り返りました。……けれど私は、不思議と怖いとは思いませんでした。たった今、目の前で屈強な男たちが倒されたのを目撃しているにも関わらずです。そしてそれも、不思議と私を襲おうとはしませんでした。そうして暫く無言で相対していると、目の前にいたそれが次第に人の形になっていき、気付いた時にはただ一人の少年――中也君の姿があるだけでした。……その後は中也君にも教えた通り、倒れた彼を引きずって手近な建物で看病を」
「……なるほどねえ」

 森は内容を吟味するように数度頷き、
「しかし、どうしてそのことを中也には黙っているのかな? 彼は何も知らない様子だったよ」
 そう訊かれると、鴻は柳眉を下げた。自分でも気持ちに説明がつかないといった風で、まるで迷子センターで親を待つ子供のようだ。
 しかしその内、自ら訥々と語り始める。

「中也君には何だって話しますし、嘘だって吐いたことはありません。嬉しいこと楽しいこと、痛みや悲しみだって、いつも共有してきました。それは本当です。けれど何故かこれだけは――自分の中に秘めておきたかったんです。中也君には私を助けた記憶はないけれど、あの瞬間から中也君は、私にとっての神様なんです。あの時空からやってきて、成り行きだとしても私を助けてくれた。――あの時の中也君の姿は、今も脳裏に焼きついています。だから、この気持ちだけは、私だけのものなんです」
 まるで神に祈る信徒のように、両手を胸の前で組み瞳を閉じる鴻が、なんだか森は無性に羨ましく思えた。
 現在の地位に就いた時点で覚悟はしていたが、己以外の全てを疑って生きるというのはとても孤独だ。
 中也君は幸福者だねえ……。
 森は複雑な過去や生い立ちをしていながら、どこまでも真っ直ぐな少年の青い瞳を思い出していた。

「組織の長への信頼の証として、森さんだけには話したのですから、絶対に秘密ですよ! 誰かに喋ったら、私マフィアを抜けちゃいますからね!」
「それは困るよう」
 念には念を押す鴻に、森は微笑みを添えて口外しないことを約束した。

「――そうだ、君にも渡しておかなければね」
 森はさも今思い出したかのように切り出すが、本来の目的はこれである。執務机の引き出しから小さな白箱を取り出し、
「マフィア加入の徴だよ。中也君には黒帽子、君にはこれだ」
 箱の中から森が掲げて見せたのは、真っ赤な薔薇と宝石で彩られた黒いレースのチョーカーだった。
「まあ、可愛らしい。でもこんな高価なもの、頂いてしまって良いのですか?」
「鴻ちゃんはここでうんとよく働いてくれる気がするからね。……であれば、それ相応の物でなくては」
「……もしかして私、心理的圧力(プレッシャー)をかけられています?」
「ははは、まさか」
 鴻はチョーカーを受け取ると、何の躊躇いもなく己の細首に巻いた。

「うんうん、ぴったりだね。私の見立てはやはり正しかったようだ」
 それを見た森は満足げに顔を綻ばせながら、
「さあ、今日の面会はこれで終わりだ。早く中也君にも見せてきてあげなさい」
「はい、有り難うございました。大切にしますね」
 ワンピースの裾を持って華麗に退出の挨拶をした鴻は、気持ち急ぎ足で執務室を後にした。

 少女がいなくなった後、森は静かに今後のポートマフィアの行く末を見つめる。
 ――金剛石は金剛石でしか磨けない。ではそこに、研磨剤が投入されたら――?
 答えは明白だ。磨かれる速度は格段に上がる。
 その時、森にはポートマフィアの今後に対して、不思議な安心感と確信的な予感があった。


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