桜色の出会い

 本日付でさる高校に教育実習生として赴任してきた織田作之助は、初日の全日程を終えたばかりであった。
 とはいえ実習初日で出来ることなど高が知れており、彼本人は自己紹介や質疑応答をしたのみ。その後は指導を担当してくれる先輩教師――国木田の授業を教室の後方から眺めていただけに過ぎない。
 それでも初日ということもあってか、いささか気疲れしてしまったのだが。
 加えて国木田は生真面目が服を着て歩いているような男。粗略な人間に教示を受けるよりは断然ためになるとはいえ、余計に肩に力が入ってしまった気がするのは否めない。

 その上これだからな……。
 作之助の両腕は、そんな先輩から渡された参考資料やら教材やらで塞がっている。彼なりの親切心なのだろうが、ある程度の取捨選択は必要だ。
 もしかすると彼は、それを認識させるためにわざとこんな量を寄越したのではなかろうか……?
 いや、それはないだろう。
 作之助は内心で自問自答する。
 国木田の言動に裏も表もありはしない。性格同様、そのまま正直に受け止めるべきだ。
 ――とにもかくにも、初日から根を上げるだなんてことありえない。まずは出来ることからやるとして、職員室に戻ったらすぐに明日の授業の準備だ。

 スキップでもしているような軽やかな風が髪を撫で、青さの滲む生徒たちの声が耳を掠めていく。
 学徒の放課後といえば、委員会に部活動、級友とのお喋りや悪巧みの相談など多種多様。自分にもあんな時期があったのかと思うと、少々感慨深くなる。
 教師になった暁には、顧問の仕事も増えたりするのだろうか。
 そんなことをつらつらと考えながら、作之助は庭に面した渡り廊下を颯爽と前進する。

 庭には立派な桜の木が整然と立ち並び、花は丁度満開だ。時折ひらひらと落ちていく淡い花弁が、芝生の青を桜色に染めていく。毎年同じような光景を目にしているはずなのに、毎度飽きずに目を奪われてしまう。
 作之助の足は自然と止まっていた。

 春というとやれ花粉だ虫だと厭う者もいるようだが、彼は好ましいと思っている。
 新しい生活に不安を覚えつつも、どこか希望に満ちた子供たちの顔を見るのは嬉しいものだから。それに今年は自分の夢を叶える第一歩を踏み出したところ。それを後押ししてくれているようで、とても幸先が良い。

 ん……?
 立ち並ぶ木々の中でも一等雄大な桜の枝間に、ふと作之助は人影のようなものを垣間見た。
 まさか自殺愛好家の隣人だろうか。
 彼の頭に真っ先に思い浮かんだのは、川があれば飛び込み木があれば首を吊る――まるで息をするように自殺を繰り返す隣人の締りのない顔。
 その予想通りなら挨拶くらいはするし、そうでないのであれば実習中の半人前とはいえ教育者を志す以上、一言注意くらいはすべきだろう。

 いぶかしみつつも作之助が件の桜の木に近づいた途端、
「きゃっ!」
 かなり小柄な人影が宙に投げ出されるのを目に止めて、抱えていた教材を地面に放ると咄嗟に腕を伸ばした。

「危ない!」
 すんでのところで作之助は、その人影を抱き止めることに成功する。
 体格と小さな悲鳴から女性だとは予想していたが、尻餅をつくどころか多少腕に衝撃がきただけだった。腕の中で驚きで身を固くする女子生徒は、どうやら同世代の中でもとりわけ小柄であるらしい。
 ふう……。
 取り合えず無事だったことに安堵した作之助が声をかけようとするより早く、にゃあという可愛らしい鳴き声が耳に入った。
 それから一匹の白い子猫が女子生徒に飛びかかり、さくらんぼのように赤い舌で懸命に少女の頬を舐め出した。

「くすぐったいです……! あ、駄目ですよ……!」
 女子生徒は身をよじって逃げようとするが、子猫は全く意に介していない。しばし子猫の強烈な愛情表現に呆気に取られていたものの、うら若き少女を抱きあげている――それもお姫様抱っこで――という問題に直面し、作之助はようやく口を開いた。
「大丈夫か……? とりあえず降ろすぞ」
「あ、はい!」
 女子生徒から了承を得た作之助は、濃紺のローファーに包まれた足をゆっくり地面につけてやる。女子生徒は直立してもはやり小さく、彼からは少女の旋毛が良く見える。

 絹のような黒髪をなびかせながら、女子生徒がくるりと作之助の方へ振り返った。
「危ないところを助けていただいて、有り難うございました」
「いや、気にするな……」
 丁寧にお辞儀をした女子生徒を前にして、珍しく作之助は惚けていた。
 眼前の少女はまるで桜の精の如く美しく可憐で、それでいて溢れんばかりの瑞々しい生命力で満ち溢れている。白昼夢でも見ているようだ。
 どこか甘い匂いを纏わせつつ、桜の木から落ちてきた美少女――。
 そんな人物が実習初日の見習い教師に助けられるなんて、なんて幻想的で、なんて運命的なのだろう。
 彼らは暫くの間、まるで一枚の絵画のように、咲き乱れる桜の下で向き合っていた。

「にゃあー」
 しかしそんな二人の様子に我慢ならなくなったのか、子猫が小さく非難の声を発する。そうすると二人も自然と言葉が口をついて出て、
「怪我はないか? どこか痛いところは?」
「いいえ、大丈夫です」
「そうか……。しかしどうして木になんて登ったんだ。俺がいたから良かったものの、あのまま落ちていたら怪我をしていたぞ。しかもスカートのままで……」
「ごめんなさい。木に登って降りられなくなったこの子を助けようとしたのですけれど、足が滑ってしまって……」
 そう言いながら少女は、罰の悪くなった自分の顔を隠すように子猫を持ち上げた。
 すると作之助は自然と猫のくりっとした碧瞳と見つめ合うことになるのだが、どこか刺々しさを感じるのは気のせいだろうか。いや、大方恩人を苛めるなとでも言いたいのだろう。小さいながらに勇敢で度胸がある。
 視線を少し下にずらすと、思った通り雄だった。作之助は毛艶のよい子猫の頭を撫でてやる。

「まあ、無事ならいいさ。この通り子猫も喜んでる」
 お説教がないことにほっとした少女は、ちぎれんばかりに尻尾を振る子猫を腕の中へ戻した。それから頭一つ分以上は大きい作之助を見上げ、
「あのう、もしかして織田作之助先生ですか?」
「ああ、そうだが……」
 作之助は同意しながらも内心首を傾げた。
 今日担当したクラスに、こんな女子生徒はいなかったはずである。だからとはいえ、授業をサボるような生徒にも見えない。
「クラスメイトが教えてくれたんです。世話焼きの面白い隣人が教育実習生として赴任すると。とっても嬉しそうでした」
「隣人……? もしかして太宰か?」
「はい、太宰治さんです。私とは席がお隣なんですよ」
「そうか、あいつの……」
 私生活について話せる友人がいたことを微笑ましく思うと同時に、図らずも作之助はあることを思い出した。

「ん……ということは、君はもしかして北森鴻という名前だろうか?」
「はい、北森鴻は私です。ご存知なんですか?」
「ああ、太宰からな」
「まあ、太宰さんから。本当に仲良しなんですね」
 我がごとのように破顔する鴻を前に、どうりで太宰が気に入るわけだと作之助は納得した。
 彼女には誰しもが持ち得る悪意や嫌味といった負の感情が感じられないのだ。無論ないわけではないだろうが、それを他者に感じさせないほどの朗らかさがある。

 要は根っからの善人なのである。
 いつも腹の底に何がしか抱え、真意を隠すように薄い笑みを浮かべているかの隣人は、おそらくこういった人種に弱い。
 いや、弱いというより好ましいと思っているのか。己が持っていないものを持っている人間は、とても輝いて見えるから。
 その上、目の前の少女は規格外の美しさ。
 太宰の話によれば彼女は図書委員に属しており、学園内では”図書室の女神”として密かな人気を有しているらしいではないか。立ち居振る舞いから育ちの良さも窺えるため、羨望の眼差しを一身に受けるのも頷ける。

「それで、その猫はどうするんだ。首輪はついていないようだが毛並みは良いな……。どこかの飼い猫だろうか」
「いえ、たぶん学園に住み着いている猫ちゃんだと思いますよ」
「住み着いてる?」
「ええ。理事長先生が大の猫ちゃん好きで、よくご飯もあげていらっしゃいますから。通いの子たちもいますけれど、ここで家庭を持っている子達もいますよ」
「そうなのか……」
 確かにまだ初日ではあるが、校内で幾度か猫を目撃している。三毛、黒、茶トラ等々、種類も猫カフェと見紛うばかりの豊富さであった。
 とはいえあのいかにも堅物そうな理事長が、猫を愛でる姿が中々想像できない。もしかすれば理事長は、情操教育の一環として猫の飼育繁殖を是としているのだろうか。
 頓珍漢なことを真面目に考えていた作之助だが、ふにふにとした子猫の肉球を楽しんでいる鴻の姿を見ると、なんだかどうでもよくなってしまう。

「君も猫が好きなんだな」
「はい、大好きです」
 自分に対して言われたわけでもないのに、作之助はちょっとドキッとしてしまう。
「先生はお好きですか?」
「ああ、好きだな……」
 こんな真っ直ぐな瞳で見つめられて、嫌いだと言える人間が果たしているだろうか。
 とはいえ元々作之助は猫が嫌いではないのだから、嘘は吐いていない。

「あら……?」
 やおら疑問の声を上げた鴻の腕から子猫がぴょんと身軽に飛び降り、そのまま明後日の方向へ走り去ってしまう。
 小さなその姿を視線で追うと、同じ毛色をした、しかし子猫より二回りは大きな猫がいる。おそらく親猫だろう。
「お迎えが来ていたんですね。良かった」
 礼でも述べるように一度こちらを振り返った二匹は、そのまま木々の合間に消えていった。

 その後ろ姿が見えなくなると、手を振って別れを告げていた鴻は居住まいを正し、
「改めて有り難うございました、織田先生」
「いや、礼には及ばない」
「それでは私、これから委員会があるので、失礼しますね」
「ああ……」
 お手本のように綺麗なお辞儀をし校舎へ戻ろうとする鴻の細腕を、作之助は無意識に掴んでいた。
「先生?」
「ああ、いや、悪い……。頭に桜の花びらがついていたものだから……」
 自分の行動に自分で驚いた作之助はすぐに手を離し、なんとか理由を捻り出した。実際に彼女の黒髪に何枚か桜色が絡まっていたのは僥倖だ。
 取った花弁を本人に見せるように、作之助は手の平にそれらを並べる。

「まあ、本当。重ね重ね有り難うございます」
「そのまま行ったら、図書室の利用者にからかわれるからな」
「それは困ります!」
 おろおろと髪だけでなく制服もほろい始めた鴻を、作之助は柔らかい笑みで見守る。
 おそらくそのまま委員会活動をしようと、”図書室の女神”が”桜の精”になったと好意的な噂が流れるだけに違いない。
「太宰と同じクラスなら、明日授業がある」
「そうなのですか。では、楽しみにしていますね」
「ああ。委員会活動もいいが、暗くなる前に帰るんだそ」
「はい。先生もご自愛くださいね」

 この日はいかにも教師と生徒のやり取りといった感じで、何事もなく別れた二人。
 その後、急速に距離が縮まっていくことになるのだが――本人たちは知る由もない。ただそんな彼らを祝福するように、桜が舞っていた。


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