赤い引力

 中原中也は珍しく焦っていた。
 所属組織に盾突いた不届き者への報復から戻ったところ、連れがいなくなっていたからである。
 終わるまで動かぬよう日頃から言い含めてはいるのだが、大人しい見た目に反して彼の連れは存外好奇心旺盛だ。しかも本日はたまたま手に入った――と彼は言い張っているが実際は連れのために入手した――桜色のリボンで器用に長い髪をツインテールにしてやったため、いつも以上に上機嫌だったこともある。
 とはいえ、限度というものは弁えているはずだ。
 ふらりと姿を消して思うままに周囲を散策しているなんてことは、頻繁ではないにしろ片手では数え切れない程度には繰り返している。それでも自分なりの安全範囲というのは把握しており、捜索すればすぐに見つかる距離には必ずいるのだ。そもそも中也には連れの行動など手に取るように分かるため、探すという感覚さえない。だというのに、今回ばかりは彼にも居場所が掴めなかった。
 となると、可能性は一つか――。
 そう、誘拐である。
 黙っていれば甘い顔立ちをした中也の眉間には、自然と皺が寄る。

 彼の連れ――北森鴻は、類稀な美少女だ。
 痛みを知らない艶々の長い黒髪、赤子と見紛うばかりのシミ一つない玉肌。丸い瞳は黒曜石で、赤い唇が妙に色っぽい。その可憐さと愛らしさは筆舌に尽くし難く、彼は本気で目に入れても痛くないとまで思っていた。年齢こそ中也より二つばかし下であるが、聡明で淑やかで時々どこか大人びた表情をする。
 しかもその特出した容姿に加え、彼女は稀有な異能力を有していた。それは対象者を死なせない能力――外的損傷を未然に防ぐ、云わば対処療法ではなく原因療法――なのだが、抗争渦巻く現在の横浜において、それは誰もが隙あらば掠め取ってやろうと画策するのも無理からぬこと。

 異能目当てならば命の心配はない。
 しかし世の中には特殊な趣味嗜好性癖を持つ者も少なくなく、とりわけ人命を奪うことを厭わない連中は、常識や良心など持ち合わせていない場合も多い。
 そう考えると中也は、とても穏やかでいられない。
 もう何年も件の少女と共にいるが、たった数十分でも彼女の姿が見えないだけで、こんなにも彼の心はざわめいてしまう。

 彼には己が強者である自覚がある。
 戦いで敗北すると思ったことは覚えているうちではただの一度もなく、自分を凌駕する猛者にも終ぞお目にかかったことがない。
 そんな彼の唯一の弱点といえるのが――鴻なのだ。
 戦う上で弱点などないに越したことはない。無論、そんなことは中也も理解している。
 しかしそれでも彼には、少女を守らなければならない確固たる信念があった。それが中原中也という存在を形作る上で、最も重要だといってもいい。彼女にもしものことがあったなら、彼は極限まで己を責めるであろう。
 あいつに何かしてみろ、只じゃあおかねえ……!

 見晴らしを考慮し建物上を軽やかに移動していた中也の視界に、ふとマシュマロのような柔らかい白が移り込んだ。
 こんな薄汚れた街には不釣合いなその色は、彼女が着ていた白いワンピースだ。中也がそれを見間違えるはずがない。適度にレースとフリルがあしらわれたその服を彼女に与えたのは、他でもない彼自身なのだから。ちなみに彼が纏っている暗緑色のライダースーツは、彼女の見立てである。
 緩い下り坂の先にいる彼女は、まるで深海に輝く一粒の真珠のようだ。
 一先ずの安全を確認しほっと安堵の息をついた中也だったが、すぐに不愉快そうに鋭い双眸をさらに険しくさせた。
 黒い小柄な人影が鴻の両手を握り込んで、何やら熱心に話しかけている。
 それを確認した途端――中也は文字通り少女の所まで飛んでいき、名も知らぬ少年を蹴り飛ばした。無論、鴻には怪我一つ負わせていない。

「中也君!」
「馬鹿。勝手にいなくなるなって、いつも言ってるだろうが。どっか怪我は? 何もされてないだろうな」
「ごめんなさい、大丈夫です」
 しゅんとなって謝罪する鴻の全身を一通り検め怪我がないことを確認した後、中也はそのまま少女を抱き上げて背後の建物の陰に隠した。
「危ねえから、絶対動くなよ」
「はい」
 心配そうに柳眉を下げる鴻の頭を優しく叩いた中也は、少年――太宰治を地面に押さえつけながら”荒覇吐”のことについて問い詰める。
 しかしその間も彼の意識は少女にあった。太宰の護衛らしき男――広津が仮に彼女を人質にとったとしても、すぐ対処できるようにだ。ただし太宰を絞め上げている中也のほうが明らかに優勢のため、いかな手練れといえど迂闊に手は出せないだろう。

 だというのに、当の太宰はいくら痛めつけられようと、中也をおちょくることを止めない。
「君にはとっておきの呪いをかけてあげよう。僕は同じ十五歳でこれからも身長は伸びていくが、君は大して伸びない」
「腹立つ呪いかけんな!」
「しかもその低さで格好つけたって、全然、これっぽっちも、格好良くなんかないからね。本当は彼女のことが心配で心配で堪らないくせに」
「はあ?」
「なんだ、気付いてないとでも思ったの? バレバレだよ、君。なんたって僕と会話していながら、僕のことなんて全く見ていないじゃないか。君の全神経は常に彼女に向けられている。……というか、そもそもそんなに大切なら、どうして目を離したりしたんだい」
「……うるせえな、手前にゃ関係ねえだろうが」
「私が発見した時、彼女はたった一人だったよ。見つけたのが私じゃなかったら、とっくの昔に攫われてるね。まあ仮に彼女が本当に一人だったら、僕が連れ帰るつもりだったけれど!」
「殺すぞ!」
 中也は太宰の薄い腹を踏みつける。
「ふふ……。我侭だなあ、君は。危険な目には遭わせたくないくせに、自分以外が彼女の隣に立つのは嫌がるんだ。……だったらいっそのこと、鎖に繋いでどこかに閉じ込めちゃえばいいのに」
 そう口にする太宰の双眸は、まるで底無し沼のように淀み暗い色をしている。しかしはっとした次の瞬間には、先程までの人を馬鹿にしたような色合いに戻っており、
「ようし、初心な君には僕から大変有り難い助言を授けてあげようじゃないか。こういう時はね、ぎゅっと抱きしめるなりして安心させてあげるべきだよ。僕ならそうする」
「余計なお世話だ!」
 中也の脚によって強く地面に打ち付けられながらも、太宰は減らず口を叩き続ける。
「そんなんじゃいづれ、彼女に振られるよ。……あ、でも大丈夫。そうなったら僕が全責任を持って面倒を見てあげるから」
「黙れ! つうか手前、馴れ馴れしくあいつに触るんじゃねぇよ。それどころか話しかけんな、見るな、いや、同じ空気すら吸うな」
 溜まりに溜まった鬱憤を晴らすが如く、中也が太宰の顔を蹴り上げた。太宰は小石のように再び汚い地面を転がったが、意味深に微笑んでから口を開く。
「一々痛いなぁ……。でもおかげで思い出した。未成年のみで構成された互助集団”羊”。君はそこの”羊の王”中原中也。そして”羊の王”が常に傍に置く少女”羊の王の寵姫”がそこにいる彼女――北森鴻だ」
「俺は王じゃねえ」
 自身のことは明確に否定しておきながら、中也は”寵姫”について指摘をしなかった。なんということはない、少しだけ気分が良いのは事実だし、何よりそう噂されるような振舞いをしている自覚もあった。それが彼女が狙われる要因であることも、承知している。
 だが、そんなものは関係ねえ。俺が全て蹴散らせばいいだけだ……。
 中也は少しだけ、過去に思いを馳せた。


 中也と鴻の出会いは、八年前に遡る。
 あの”荒覇吐”による大爆発の後、短期間だけではあるが、中也には記憶の欠落がある。制御装置としての作動不具合でも起きたのか、今もって理由は定かでない。
 再び目を開けたとき彼の目の前にあったのは――静かに吐息を立てる鴻の姿だった。
 今より髪も短く、身長だって小さい。それでも人形めいた可愛らしさはこの頃から健在で、陽光に照らされる彼女はまるで、中也には己を救済しに地上へ舞い降りた天使のように思えた。
 だがよく観察してみると、小奇麗な水色のワンピースを着ているのに、足は泥で汚れ所々擦り傷もあり、爪も欠けている。靴どころか靴下さえ履いていなかった。しかも瘡蓋になっていないものもあることから、負傷後さほど時間は経っていないらしい。天界から降りてきたものの着地に失敗しましたと説明されたら、あっさりと信じてしまいそうだ。
 とはいえ、そんな夢物語あるはずもない。
 どうやら彼女も中也同様、訳有りらしかった。

 世も末だな……。
 上半身を持ち上げた中也だったが、そこで初めて自分の右手が少女の小さな両手に繋がれていることに気付く。
 どこか気持ち良さそうに目を細めた中也はそれを振りほどこうとはせず、所存なげに周囲に視線を投げた。
 屋根は辛うじて四隅に残っている程度。所々剥落してはいるものの壁があることだけが救いの、いずれにせよ朽ちる寸前の建物だ。季節が冬なら確実に凍え死んでしまいそうな造りである。
 その壁際に拵えられたダンボールを数枚重ねただけの即席簡易寝台に、中也は横たえられていたようだ。それからどんよりとした曇り空のような小さなカーディガンが、申し訳なさそうに腹部にかけられている。
 中也が持ち主であろう少女を見やれば頼りない薄い肩が目に入ったため、迷うことなくそれは持ち主へ返される。

 それから時間を潰すように彼が自由な方の手で名も知らぬ少女の頭を撫でていると、ようやくお姫様が深い眠りから覚醒する。
 少女は幾度か瞬きを繰り返した後、起き上がった中也を数秒見つめ、
「……あら、どこか痛いところはありませんか?」
「ああ」
「それは良かったです」
「おう……」
 何とも締りのない会話である。締りのないついでに簡潔に自己紹介も済ませた二人は、意味もなくしばし見つめ合う。中也は星の煌く銀河のような鴻の瞳を、鴻は炎のように揺らめく中也の瞳を、まるで宝箱を覗き込む幼子のように飽きもせず眺めていた。

「あー、なんだ……」
 ところが中也は不意に羞恥を覚え、取り繕うように言葉を探す。
「悪いがどういう状況でこうなったのか、俺はさっぱり覚えてねえ。悪いはちょっと、説明してくれないか」
「まあ、そうなのですか。……けれど説明するといっても、道端に倒れていた中也君を介抱しただけですし。あのう、ちょっと重くて引き摺ってしまって、ごめんなさい」
「別に謝る必要はねえよ。むしろ助かった、ありがとな」
 いつの間にか解けていた手を再度少女に伸ばした中也は、彼女の柔らかい黒髪を撫でる。
 少女が嘘をついているようには見えないが、真実かどうかも判断できない。しかし少なくとも少女に足以外の怪我はなかったので、力が暴走して傷つけたという線はないはずだ。そもそも自分を害した相手を助けるなんて物好きもいないだろう。

「なんで俺を助けた? もしかしたらすげえ悪人かもしれねえし、意識が戻ったらお前のこと襲うかもしれねえんだぞ」
「えっ、中也君は襲うつもりだったんですか……?」
「はあ?! 馬鹿言え! 俺がそんなことするはずねえだろうが!」
「じゃあ大丈夫ですよ。私も中也君はそんなことをする人じゃないと思っていましたから」
「ああ、そうかよ……」
 根拠も悪意もない鴻の自信の持ちように、中也は脱力した。
 危機感がないのか、それともお気楽なのか。例え相手が少年だろうと、見ず知らずの人間をわざわざ介抱するなんて、とんだお人よしである。
 そんな日の当たる場所でしか生きていけなさそうな少女が、一体どうしてこんな場所にたった一人でいるのか――。
 そんなことを考えたら中也は息が詰まりそうになって、気分を吹き飛ばすように少女の髪をかき混ぜる。

 おそらく中也の境遇は、世間一般が想像する幸福とはかけ離れているはずだ。しかしその全てが目の前の少女と巡り合うための伏線だったと思えば、中原中也という不確かな生物にも存在意義があるように思えてくる。
 だからだろうか、中也が彼女を守らなければと思ったのは。
 いや――誓ったのだ。
 無垢で穢れを知らないこの美しすぎる少女が、白いままでいられるように。
 使命感ほど勇ましくはなく、かといって独占欲のように重くはない。未だ中也はその感情に名前はつけられないけれど、それでも彼女と共にいたいと、切に願った。

 それから彼の行動は早かった。
 簡易寝台から勢いよく立ち上がって右手を差し出し、
「お互い行く当てがない同士。行くか、一緒に」
 目を丸くする鴻に、中也は続ける。
「まあ、お前が嫌だってんなら――」
「いえ、行きたいです。中也君と一緒に」

 それから中也が鴻の手を取って以降、二人は常に寄り添って生きてきた。それこそ互いのことで知らぬことなどないほどに、全ての感情を共有し分け合ってきた。
 そして中也は彼女に危険が及ばぬよう、不自由をしないよう、寂しくないよう、彼なりに愛しんできたつもりだ。そして彼女からも、同じだけの愛情と安らぎを与えられてきた。

 だから何者にも何事にも二人を分かつことなどできない。例えそれが悪魔のような頭脳を持った少年だろうと、二人が身を置く場所を変えようとも。
 彼にとって優先すべきは、昔から変わらずこの美しい少女ただ一人なのだから。


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