げに恐ろしきは

 現在、織田作之助が恋人と暮らす神社は、五十段ほどの石階段を上った海沿いの小高い丘の上にある。周囲を結界のような防風林が取り囲むことで街の喧騒から隔離された厳かな空間が周辺住民に愛されており、早朝は老人たちが参拝に、日中は猫が日向ぼっこをし、夕方は近所の学生たちが階段で筋力トレーニングに勤しむ光景はもはや見慣れたものだ。
 石段を上りきると正面に本殿、右手に手水屋があり、左方奥には二人の住居が木々に隠れるようにしてひっそりと建っている。京都有名神社の娘である恋人――北森鴻の実家と比べたら豪邸と犬小屋ほどの雲泥万里だが、慎ましやかなその大きさが作之助はことのほか気に入っていた。
 家主である彼の書斎兼職場はその家のさらに最奥に位置しており、襖一枚隔てた縁側からはちょっとした庭と海が一望出来る。普段はそこで月見酒を楽しんだり、恋人や友人と他愛のないことを語らうのが常であった。

「どうしたんだい織田作。突然呼び出したかと思えば、藪から棒に相談があるだなんて」
 執筆中の原稿が投げ出されたままの年季の入った文机を挟んで、太宰が作之助に問いかけた。美味いかどうかは別として、いつもは茶の一杯でもご馳走してくれる友人が押し黙っていることが不思議でならないといった風だ。
「実はな、太宰――」
 しばらく口を噤んでいた作之助が、意を決したように重い口を開く。
「鴻がストーカーに遭っている」
「ついに出たのかい」
「ああ……」
 いつもより固い声音になった太宰に、作之助は神妙な面持ちで頷いた。

 二年前、彼女が神主に就任したばかりの頃は艶美な巫女さん――本来は神主であり参拝者の勘違いではあるのだが、可愛いという理由から緋袴を着用している鴻にも原因の一端はある――目当てにわらわらと男共が群がったものだが、恋人の存在が明るみになるや否や一気に減少。
 しかもその正体が新進気鋭の小説家――作品発表当初から繊細な心理描写と巧妙な情景描写が好評を得て、今では数本の連載を抱える売れっ子作家が恋敵では分が悪いと身を引くのが自然の摂理。
 とはいえそれでもなお未練がましく言い寄る無謀な男には、作之助が睨みを効かせたため直接的な被害が出るには至っていない。噂を聞きつけ足を運ぶ男性参拝者は今でもいるが、大抵は遠くから鑑賞しているだけであるし、賽銭も奮発してくれているようなので大目に見ているというのが現状であった。

 目を据わらせた太宰がずいっと前屈みになる。
「いつからなんだい」
「つい一週間ほど前だ。毎日手紙が送られてくるようになってな。……中身については実物を見てもらったほうが早いか」
 作之助は白い鳥の描かれた黄色い菓子缶から、分厚い真っ白な封筒をいくつか取り出した。
 封筒には印字された宛名のみが記されており差出人の情報が一つもないが、それだけならばまだ不審ではない。最たる問題は――封筒いっぱいに詰められた大量の写真だった。
「このこと、お鴻ちゃんは?」
「いいや。郵便物は俺の仕事関係が多いし、あいつ宛ての恋文なんかも稀にあるから、一度全て俺が検めることになっている。だからまだ勘付かれてはいない」
「そうか、それは何よりだ」
 抜け目ない友人を賞賛した太宰が一枚一枚写真を確認していく。
「例外なく全ての写真にお鴻ちゃんが写っているね。ストーカーであることは揺るぎようのない事実か。場所は……神社もあるけど外出している時のほうが多い。人通りの多い街中で、しかも遠目からの盗撮となると、犯人は臆病な人間かな……。しかも撮られた時間帯がまちまちということは、ある程度時間に余裕のある人間の仕業だねぇ」
 作之助は衰え知らずの太宰のプロファイリングに舌を巻きつつ、
「俺のほうでも近隣住民から聞き込みをして、容疑者を三人まで絞っておいた。最近、この辺をうろつき始めた輩らしい」
 途中経過を伝えて、みっちり詰まった本棚から1冊の文庫本を持ってきた。そして中に挟まっていた三枚の写真を机に滑らせる。
 左から順に――小さい両目が異様に離れた丸顔の青年、丸々と太った鼻の大きい男、痩身にぎょろっとした瞳が特徴の中年男――が並んでいる。彼らはその容貌の特徴によって、それぞれ太宰から『鯰雄(なまずお)』、『亀吉(かめきち)』、『蛙田(かえるだ)』という本人たちからすれば不名誉極まりない渾名を頂戴した。

 しかし作之助はそれを咎めず、淡々と一人ずつに解説を加えていく。
「まず一人目の鯰雄。彼は大学生だ。とはいえ既に就職先も決まり、後は卒業を待つだけのようだが」
「ふぅむ、時間は有り余っているわけだね」
「それから二人目の亀吉だが、歳は二十代半ば、職業は無職。両親が教育関係の仕事をしているため世間体を気にして、一月ほど前からこの近辺のアパートで一人暮らしをさせているらしい。要は追い出されたわけだな」
「こっちは時間は無限ってわけね」
「それから最後の蛙田。彼は営業職の会社員だが、成績が悪くほぼ窓際族らしい。会社もあまり期待しておらず、外回りと称してはぶらぶらしているそうだ」
「こっちも時間なんて作り放題、と……」
 うーんと太宰は唸った。
 条件的には全員大差なく、これだけでは決め手に欠ける。
「それにしてもこの短期間でよく調べたねぇ」
「近所の主婦に聞き込みをしたら、翌日には一聞いたことが百になって返ってきたんだ」
「女性は噂話が大好物だから」
 肩を竦める作之助に、太宰は苦笑した。
 とはいえご婦人たちだって誰彼構わず吹聴したりはしないだろう。作之助がある程度信用に足る人物だと判断したから、率先して情報収集をした上で惜し気もなくそれを与えてくれたのだ。日頃の行いの賜物である。

「しかし、このせいで連載小説が一本、締め切りに間に合わなくなってしまった。今月号は休載だ」
「もう一端に編集者泣かせだねぇ」
「五月蝿い。仕方ないだろう、今はそれどころじゃないのだから」
「ああ、違いない。お鴻ちゃんの安全より優先すべきことはないからね」
 仕事に支障が出ているというのに、二人は全く気にしてない。
「俺もここ数日、可能な限り見張ってはいたんだが、露骨過ぎればさすがに鴻にもばれるから限界があってな。しかも犯人は用心深いらしく、鴻以外に人がいるとまるで姿を現さない。そこでお前を頼った次第だ」
「もう、もっと早くに呼んでくれても良かったのだよ」
「呼んだらお前、すぐに飛んでくるだろう。これ以上、探偵社の社員に迷惑をかけるわけにいくか」
「あはは、何のことやら」
 作之助が釘を刺すも、太宰は顔を背けてそ知らぬ振りを貫く。
 業務時間内にも関わらず度々職務放棄する太宰の行方を追って、作之助にはよく彼の同僚や後輩から電話がかかってくる。申し訳なさそうに何度も頭を下げているのが電話越しでも伝わってきて不憫でならないのだ。
「あれ、誰か来たんじゃない?」
 玄関先で微かな物音がしたのをいいことに、太宰があからさまに話題を変えてきた。
「……この時間だと郵便屋だな」
 こいつの勤務態度については日を改めて話し合う必要があるなと作之助は勝手に決めて、溜息を溢してから玄関へと向かった。

 戻ってきた彼の手には大小様々な郵便物が握られており、その中には見覚えのある白い封筒が混じっている。
 作之助は無言で中身をひっくり返した。
「これは昨日、鴻と買出しに行った時の写真だな……」
 決して広くはない文机に写真を手早く広げていくと、最後の一枚に二人の目は釘付けになった。
「これは随分悪質だねぇ」
 太宰が摘み上げた写真には、顔を刃物で滅多刺しにされ体を黒く塗りつぶされた作之助がいる。
「こういう輩は何をしでかすか分かったもんじゃないよ。お鴻ちゃんに被害が出る前に、一刻も早く対処すべきだね」
「ああ」
 作之助は強く同意を示し、全部で十五枚にも及ぶ盗撮写真を睨むように隅々まで注視していく。すると同じように目を通していた太宰が突如、街中で撮られたであろう一枚の写真を手に取って、
「ちょっとこれ借りてくよ」
「おい、太宰」
「大丈夫、大丈夫。私に任せて」
 呼び止める作之助に後ろ手で別れを告げた太宰は駆け足で家を出ていった。

 そんな彼の奇行の意味は、同日就寝前にもたらされた一報にて判明する。
 執筆に一区切り付け、既に恋人が休んでいる寝室へ向かおうとした作之助の携帯電話が着信を告げた。画面に表示された名前を見て受信を許可した途端、彼が呼び掛けるよりも前に相手が話し出す。
「犯人の目星がついたよ」
「本当か」
「私がこういうことで冗談を言うと思うかい」
 作之助が無言の否定をすると、電話越しの太宰は明瞭とした口調で、
「そこで犯人を捕らえるための策を練ったのだけれど。どうだい織田作。早速、明日にでも実行してみる気はないかな」
「聞かせてもらおうか」
 作之助は周囲に恋人がいないことを確認してから、友人の作戦に耳を傾けた。



 翌日、恋人と昼食後の一服を楽しんでいる最中に作之助がやおら口を開く。
「鴻、買い物に付き合ってくれないか」
「ええ、良いですけれど。でも一昨日、行ったばかりですよね?」
「……いや、そうなんだが。少し原稿が滞ってしまってな。息抜きがしたい」
「まぁ、そうなのですか。では、僭越ながら私がお供しましょう」
 多少困惑しながらも恋人とのデートが嬉しくないはずがなく、鴻は快く了承した。
 辛くも外に連れ出すことに成功した作之助は指を絡める所謂恋人繋ぎというやつで、デパートやら菓子店やらあちこち連れ歩く。その道中、小休止で入った喫茶店にて、看板商品のチーズケーキに舌鼓を打つ鴻に彼はとある提案をした。
「今日は少し遠回りをして帰らないか」
「まぁ、寄り道ですか?」
「ああ、寄り道だ」
 それから他愛ない会話を交わしながら二人が行き着いた先は恋人の聖地として若者に話題のスポットで、海沿いに設置されたハートを模した黄金の釣鐘の周囲にはそこかしこに男女の姿が見受けられる。鐘を鳴らして愛を誓うと永遠になるとかいう噂だが、小っ恥ずかしいので作之助は黙っておくことにする。
 生憎ベンチの空きがなく、二人は柵に寄り掛かった。
「綺麗ですね」
「ああ」
 地平線に沈んでいく夕陽に負けないくらい瞳をきらきらさせる恋人の横顔を見やり、作之助は目をすがめる。昔なら何とも思わなかった光景も、こうして彼女が隣にいる今なら尊いもののように思える。
 堪らず彼女の赤い唇に口付けると、背後から鈍い音が飛んできた。作之助は目線だけを音源の方向へ投げたが、ロマンチックな雰囲気に流された鴻は気付いていない。彼女の夢を壊さぬように作之助は小さい手を引きながら、いつもよりゆっくりとした足取りで自宅へ帰った。

 その日の夜。
 鴻を早めに寝かしつけて縁側から下弦の月を眺めていた作之助のところに、ふらりと太宰がやって来た。
 約束していたわけではないが確信はあったため、作之助は予め用意していた座布団に彼が腰掛けるのを待ってから口火を切った。
「よくあれだけで犯人が分かったな」
「あの写真に時計台が写っていてね、その時間の三人の行動を調べたのさ。鯰雄は大学の級友たちと遊園地。蛙田は仕事中にも関わらず映画鑑賞中。アリバイがなかったのが亀吉だけだったんだよ。きっと織田作の存在を認識した途端頭に血が上って、こんな初歩的なミスを犯したんだね。ちなみに他の二人もお鴻ちゃん目当てに神社へ通ってはいたみたいだけど、恋人がいることは認知していたからやましい気持ちはなかったらしい。対して亀吉は最近ここいらに越してきたばかりで近所の情報には疎かったから、恋人がいるなんて夢にも思わなかったんだろう」
 太宰が言うと造作もないことのように聞こえるが、それは彼が持ちうる能力を最大限に行使出来るだけの才覚があるからに他ならない。
「買い物中の君たちを見つめる亀吉君の顔と言ったらもう、筆舌に尽くし難かったよ。さすがに公衆の面前で襲い掛かろうなんて勇気はなかったみたいだけど、後ろで観察していた私にも彼の焦燥と鬱憤が伝わってきたもの」
「作戦通りにいって何よりだ」
「ふふん、私だって武装探偵社の一員なのだよ。犯罪者の一人や二人、お縄に掛けるなんて朝飯前さ」
 太宰は誇らしげに語る。
 しかし綿密な戦略を練ったわけでも巧妙な駆け引きがあったわけでもない。単に付き纏い中の犯人の行動を逐一記録媒体に保存、頃合を見計らって身柄を確保しただけのことである。

「それにしたって織田作も隅に置けないよねぇ。あんな露骨な恋愛スポットに行くなんて。いつの間にロマンチストになったんだい」
「最近俺の担当になった若いお喋りな編集者が喚いていたのが、何となく頭に残っていただけだ。別にこのために調べたわけじゃ……」
「はいはい、そういうことにしておいてあげるよ」
 誤魔化すような感じになってしまったのは否めないが、作之助は嘘は吐いていない。しかし太宰は本気に捉えておらず、露骨な笑顔を向けてくる。
「何はともあれ、捕縛した亀吉君は市警へ突き出しておいた。十分な証拠も添えておいたから、白を切られることもないはずだ」
「そうか。何から何まですまない」
「私と君の仲じゃないか。それに何より、お鴻ちゃんのためだもの」
 一仕事終えぐっと伸びをした太宰の労をねぎらい、作之助は友人と二人、月見酒と洒落込んだ。


 これにて事件は一件落着――かと思いきや、そうは問屋が卸さない。
 亀吉の両親は警察機関上層部と親交があったらしく、こともあろうに息子の罪をもみ消したのである。作之助の元には慰謝料と共に二度と被害者に近付かない旨の誓約書も届いたが、結局息子本人からの謝罪はなく、加害者は逃げるように県外へ引越したらしい。
 罪を償わないどころかこれからも親の脛をかじって悠々自適な生活を送るだなんて、さしもの作之助も腹に据えかね、その怒りをぶつけるように止まっていた執筆を再開したのだった。



 時は流れて翌月。
 一月遅れで雑誌に掲載された連載小説を読了した太宰が、血相を変えて筆者の仕事場を訪問していた。
「いいかい織田作、驚かないで聞いて欲しい」
「ああ」
 丁度筆が乗っていたところだったので作之助は出直して貰おうかとも思ったが、いつになく神妙な面持ちの友人を見たらそんな気も失せてしまった。
 太宰は前のめりになって早口にまくし立てる。
「お鴻ちゃんへのストーカー行為で先月捕らえた亀吉君が、どうやらひき逃げに遭って大怪我したらしい。しかも後遺症が残って、二度と自分の足では歩けない体だそうだ。犯人は未だ逃走中。防犯カメラもなければ目撃者もいないため、犯人の目星すら付いていない状況だ」
「それは気の毒なことだな」
「それだけじゃないよ。息子の罪を闇に葬り去った両親も、数日前に談合で逮捕されたんだ。しかも捜査を開始したら過去の悪事がうじゃうじゃ発覚して、全財産没収は免れないらしい」
「へえ、そうなのか」
 素直に驚嘆した作之助だが、驚くのはそこじゃないと息巻く太宰はさらに語気を強め、
「今月号で出た瞬間に殺されてしまったこの登場人物、亀吉君にそっくり過ぎやしないかい?!」
 数日前に発売されたばかりの作之助の作品が載った月刊小説誌を目の前に掲げた。

「ああ、分かるか」
「いやいやいや、どうしてそんなに冷静なのさ。まさか君、書いた小説の内容を現実化出来る能力でも習得したのかい?!」
「おいおい、言い掛かりはよせ。俺の異能はお前だって知っているだろう。今回のことは須らく偶然の産物だ。……まぁ、罪人が野放しになっているのが解せず、鬱憤を晴らすように亀吉の人物像を小説に落とし込んだことは事実だが」
「ああ、やっぱりイメージはあの亀吉君なのだね。そっくりだものね、容姿なんか特に」
「そうだろう、俺も今回は上手く書けたと自負している」
 僅かに口角を上げた作之助だが、瞬時に元に戻り、
「だが俺は何も手を出しちゃいない。例え相手が犯罪者だからといって私刑を下すのは間違いだし、二度と鴻の前に現れないのであればそれでいいと納得した。そもそも俺は裏社会から足を洗った身だぞ。あいつのためにも危険なことはしないと誓っている」
「いやぁ、うん、そうだよね……」
 憮然とした態度の作之助に、太宰は許しを乞うように愛想笑いを返した。
 冷静になって考えてみれば、恋人と小説とカレーのことしか頭にないようなこの男が危ない橋を渡るはずがないのである。
「だからあの男のことはもう、どうでもいいんだ。わざわざ報告に来てもらったのに悪かったな」
 作之助はけろりと言い放ち、もう話すことはないとばかりに書きかけの原稿に意識を戻してしまった。

 抱いていた懸念が杞憂に終わったことは幸いだが、やはりこの男を怒らせてはいけないと太宰は改めて深く胸に刻んだのだった。


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