お嬢様とその護衛による華麗なるお使い

 その日――外は雲ひとつない麗らかな日差しの中、武装探偵社は惨憺たる有様であった。
 書類は床に散乱し、ガラスは割れ、あちらこちらが泥に汚れた光景はまるで台風の後と見紛うばかり。何より社員が一様に憔悴しきり来訪者――北森鴻があったことにすら、声をかけられるまで気が付かないほどだった。

「あら、皆さん、どうかなさったんですか」
「ああ、北森か……」
 ほうほうの体で国木田独歩が顔を上げた。
「どうもこうもない。近年稀に見る逆恨みに遭ったのだ……」
 彼は先程まで繰り広げられていた惨劇を思い出すように社内を見渡してから、大きなため息を吐き、
「実は探偵社に犬の大群が押し寄せてきてな。異能の仕業だということはすぐに判明したのだが罪のない小動物に乱暴をするわけにもゆかず、結局能力者を鎮圧するまで被害を最小限に抑えようと奮闘した結果がこれだ……」
「では、犯人はもう捕まえたのですね」
「ああ、そこは抜かりない。そいつは以前、我が社で捕縛した組織と商売関係にあった男だったらしいのだが、大口の取引相手がなくなったことで事業が上がったりだと難癖を付けてきたのだ。しかもよりにもよって、異能で操った犬を仕向けてくるとは……」
「それは大変だったでしょうね」
「分かってくれるか……」
 国木田は深く皺の寄った眉間を揉み解しながら、鴻の優しさを噛み締めた。

「……あら、でも太宰さんの異能なら、わんちゃんたちにも対抗出来たのではありませんか?」
 鴻の恩人たる太宰治には『人間失格』という異能無効化能力があるため、至極当然な疑問を投げかけたのだけれど、国木田はその名を聞いた途端に苦虫を噛み潰したような顔になった。
「あのポンコツは大の犬嫌いでな。犬の気配を察知するや否やどこぞへ消える木偶の坊だ。あいつの異能があれば、こんな悲惨な状態にはならなかったというのに……」
「まぁ、わんちゃんがお嫌いなのですか」
 動物好きの鴻は残念そうに柳眉を下げた。するとどこからともなく太宰が飛んできて、
「違うよ、お鴻ちゃん。嫌いなのではなく苦手なだけさ。昔、色々とあってね……」
「トラウマ、というやつですか」
「そうそう」
 思いを寄せる女性の高感度を下げてはならんと、必死に弁明を始めた。しかしすぐに鬼のような形相をした国木田によって地面へ沈められる。
「貴様、そんな所におったのか! この無能、粗大塵、役立たずめ!」
「酷いや国木田君、何もそこまで言わなくたって……。私だって好きで隠れていたわけじゃないのだよ……。ああ、お鴻ちゃん、こんな可哀想な私を慰めておくれ……」
 罵詈雑言の嵐に見舞われた太宰は鴻の豊満な胸に抱きつき泣き言を吐くが、顔に締りがないので余計に国木田は腹が立つ。しかも純真無垢なお嬢様からは危機感というものがまるで感じられず、それがより一層彼の心をかき回した。

「私で良ければお手伝いしましょうか?」
「……いや、大変有難い申し出だが、散らかった書類の中に機密情報があるとも限らん。気持ちだけ受け取っておこう」
 鴻は大の大人の頭を撫でつつ進言したが、国木田によって丁重に断られてしまった。しかしいくら堅物とはいえ、女性の配慮を無下にするのは気が引けたのか、
「明日も来客の予定があるので、色々と早急に買い換えねばならん物がある。良ければその買出しを頼んでもいいだろうか」
「はい、喜んで」
「では、今リストを……」
 国木田は急を要する備品を書き出そうとしたのだが、妙にキリッとした太宰に腕を掴まれた。
「その買出し、私を同行させてはくれまいか」
「はぁ? 何を言っとるんだ貴様は」
「国木田君はこんな細腕の美女に重い荷物を持たせるつもりなのかい」
「う、それは……」
「それに私はね、これは先刻の汚名を返上する好機だと思っている」
 太宰は力説するが、それなら片付けを率先して行えと国木田は怒鳴りつけてやりたい。
 この男は単に力仕事をしたくないというだけなのだから。ただ――どうせここに残ったところで働かないのは目に見えている。
 怠惰で自殺嗜好でどうしようもない男の言いなりになるのは癪だが、荷物持ち兼護衛くらいさせないことには割に合わないか、と彼は渋々許可を出すことにした。
「すまないが今は手持ちがないので、決済はカードで頼む。それから領収書は必ず貰ってくれ」
「はい、分かりました」
 しっかり注意事項を述べた国木田は買出しリストと財布を鴻へ託し、太宰へは鋭い視線をやって、
「寄り道をするなよ、唐変木!」
 きっちり釘を刺しておいた。


「さあ、どこから行こうか、お鴻ちゃん」
 ちゃっかり鴻の手を握った太宰は社用であることなどすっかり忘れ、浮かれながらヨコハマの街を散策している。やんごとない出自の彼女はエスコートされることは馴れっこなので、これといって太宰の行動を咎めることもなく、
「ええと、国木田さんのメモによると必要な物は――ペン、メモ帳、はさみ、ハンドタオル、ティーセットと、明日の来客用のお茶菓子です」
「おや、やはりいつもより多いねぇ。これを買うとなると――」
「いいえ、太宰さん。いつもお世話になっているお礼ですもの。今日は私が頑張りますから、太宰さんはゆっくりしていてください」
 いつになくやる気に満ち満ちた表情の鴻が、携帯端末を使って周囲の検索を始めた。その横顔を太宰は愛おしそうに、飽きることなく眺め続ける。
 自分があちこち案内するのもそれはそれで楽しいだろうけれど、すぐに用事が終わってしまうのは酷く勿体無い。せっかくあの理想主義な同僚を言い包めてもぎ取ったチャンス、可能な限り二人きりの時間を楽しみたいのである。
 だから太宰は全てを彼女に委ねることにしたのだが――後にその判断を大いに悔いることとなる。



「着きました、ここです」
「ここかい……?」
 鴻に先導されるがまま太宰が到着したのは普段探偵社が贔屓にしている百貨店、ではなく看板に英字の筆記体が踊る小奇麗な店だった。英語の意味から商品を推し量ることは出来ない。
「太宰さんはこちらでお待ちくださいね」
 状況が読み込めず首を捻る太宰を外に待たせ、鴻は十分ほどで退店した。
「お待たせしました」
「ううん、大丈夫だけど……」
 疑問はあるものの女性に荷物を持たせるのは太宰の信念に背くので、
「さあ、荷物は私に」
「いいえ、重くありませんから」
「今日の私の任務は荷物持ちだよ。お鴻ちゃんの優しさはとてつもなく尊いものだが、仕事を取られてしまうと私が後で国木田君に叱られてしまう」
「まぁ、そうですね。気付かずにごめんなさい」
 厚意を無駄にしないよう言葉巧みに荷物を引き受けた太宰は、そっと袋の中に手を忍ばせた。
 触れたタオルは毛足が長くふっかふか、その上どことなく艶もある。給水率も抜群に良さそうだ。それなのに手を拭くのを躊躇ってしまう。
「お鴻ちゃん、このタオルは……」
「ああ、それですか。全国展開はしていないお店なのですけれど、老舗でとても質が良いのですよ。ヨコハマに支店があったのは幸いでした」
「そっかぁ、こういうのを使っているから、そんなにお肌が綺麗なんだね……。あ、お鴻ちゃん、あんなところに燕の親子が――」
 口八丁手八丁で鴻の視線を逸らせた太宰はその隙に財布の中の領収書を確認し、
 こ、これは……。
 一瞬言葉を失った。しかしすぐに頭を振って、
 いやいや、これはまだ許容範囲内でしょ。ちょっとしたお歳暮を買ったと思えば……。
 強引に己を納得させる。

 次に二人が向かったのは、こじんまりとしていながらもどこか歴史を感じさせる和風な店だった。扉が曇りガラスのため中を窺い知ることは出来ない。
 そこでも鴻は意気揚々と、一人だけで買い物を済ませてくる。
「何とか買えました」
「そうかい……?」
「さあ、どんどん行きましょう」
 そう意気込んで軽快に進む美女に悟られぬよう太宰が受け取った品を認めると、それは文具店で販売しているようなボールペンやサインペンなどではなく、漆塗りの万年筆だった。明らかに一級品である。匠の技を感じた。
 あれ、頼まれたのはただのペンだったと思うんだけど……。
 太宰はひきつる口角を何とか抑え、
「お鴻ちゃん、ちなみにこの万年筆は……?」
「ええ、両親が好んで使っていた物なのです。伝統工芸品で、とても書きやすいんですよ。ただ残念なことに、既に職人さんが制作を中止されていて、今店頭に並んでいる物が最後らしいのです。消えてしまう前に購入出来たのは運が良かったですね」
「うん、本物を使うっていうのは大切なことだものね……」
 胸を張って力説する美女に、太宰は崩れそうになる笑みを必死に保ちながら、
 まぁ、こういうのはコレクターもいるし、年数が経てば価値も上がるかも……。
 領収書に記入された値段からそっと視線を逸らした。

 二店目からさほど移動することなく着いたのは、前面がガラス張りで洗練された佇まいの店舗であった。決してふらりと足を踏み入れられるような雰囲気ではない。
 こ、これはちょっとやばいんじゃ……。
 しかし太宰が及び腰になっている間に鴻は迷いなく入店し、出てきた時には満足そうに純白の紙袋を携えていた。
「発表されたばかりの新作があって、目移りしてしまいました」
「ちなみにどんな物を買ってきたのかな……?」
「はい、こちらです」
 太宰が恐る恐る受け取った袋中には同色の箱が納められており、蓋を開けば堂々と鎮座する白磁のティーセットが目に飛び込んできた。しかも裏返した底にあるロゴは誰もが知る一流海外ブランドで、なりふり構わず目を通した領収書には先程と二桁も違う金額が記されている。
 これにはさしもの太宰も瞠目してしまい、
「あのぅ、お鴻ちゃん……。このティーセットってあの有名な仏蘭西ブランドだよね……?」
「ええ、そうですよ。私の実家では洋室でお客様を御もてなしする際は、いつもそちらのブランドをお出しするのです」
「そ、そうなんだ……」
 終始太宰が曖昧な態度を取るので、柳眉を下げた鴻は頬に手を当てながら、
「まぁ私、何か間違ってしまいましたか? もしかして探偵社ではもっとハイブランドをお使いになっているのでしょうか? でしたらすぐに買い直しにいかなくては……」
「ううん、問題ないよ。お鴻ちゃんは美人な上に気が利くねぇ」
 太宰は上目遣いの麗しい好い人に何も言えず、
 可愛いから許す……!
 目尻から流れるしょっぱい液体に気付かぬ振りをして、ぎゅうっと抱きしめた。


 それ以降も買出しは続行されたが太宰は一度として財布の中身を検めず、帰って真っ先に国木田へ頭を下げた。
「先に謝っておくよ、国木田君」
「はぁ?」
「私にはとてもじゃないが止められなかったんだ」
「おい、何の話をしている」
「でもね、君が私の立場だったら一発退場していたはずだ。最後まで見届けたのだから、私は本当によくやったと思う。だから、私は何も悪くない!」
 太宰は購入品とお財布を投げるように国木田へ返し、戻ってきたばかりの探偵社を飛び出してしまった。
 しばし呆気に取られる国木田だったが仕事中だったことを思い出し、
「いつもまともじゃあないが、今日はまた一段といかれているな……。頭でも打ったか……?」
 いぶかしみつつ領収書に視線を落とした途端――目の前が真っ暗になって、そのまま仰向けに倒れた。

「……く、国木田さん?!」
 太宰と入れ替わるように帰社した中嶋敦と谷崎潤一郎は、その場面を目の当たりにしてすぐさま駆け寄った。しかし地面で真っ白になったままの上司は、ぴくりとも動かない。
 犬軍団による探偵社襲撃の真犯人を軍警に引き渡してきたばかりだというのに、まさかまだ解決していなかったのかと敦に戦慄が走る。
「ど、どうしたんですか国木田さん。まさかさっきの異能力者の他にも刺客が?!」
「いや、違うよ敦君。たぶん、原因はこれだ……」
 谷崎が指し示した先には、倒れてもなお国木田が手放さなかった複数の紙片がある。それを2人は固唾を呑みながら覗き込み、雷に打たれたような衝撃に襲われた。
 いくつかある領収書には見たこともないような金額が並んでいる。目を擦ってみても現実は変わらない。
 一年分の給料でも足りない、と青ざめた敦の頭の中を暗黒の未来がぐるぐると駆け巡っていく。

『経営難で賃金未払い』
『予算不足で活動休止』
『経営破綻の末に廃業』

 もう、探偵社はお仕舞いだ……。
 絶望する敦だったが、神はまだ彼を見捨ててはいなかった。
「希望を捨てるのはまだ早いよ」
 項垂れる敦の肩を叩いた谷崎がまるで聖火台に火を灯すランナーのように白い紙――レシートを天に掲げた。

 それから谷崎と敦が各店舗に頭を下げて回り、普段使用の手ごろな品を代わりに購入、何とか探偵社廃業の危機は免れたのだった。



「礼を言うぞ、敦に谷崎。今度、昼でもおごる……」
「いえいえ、こちらこそ事務所の片づけを任せてしまってすみません……」
 草臥れた国木田にそれ以上かける言葉が見つからず、二人は乾いた笑みを溢して自席へ戻った。
「……あれ、太宰さんはどこに行ったんですか?」
「お嬢様を送りに行ったよ」
「ああー……」
「まったく、あの馬鹿は死んでも治らないねェ」
 問題児の上司不在を不思議に思い敦が問うてみれば、珍しく疲れの色が見える与謝野晶子女医から答えが返ってきた。
 また逃げたんだな、あの人……。
 敦は呆れてものもいえない。
 どうせ今頃、高価過ぎる買出しを注意するどころか褒め称えているに違いない。女性に滅法弱いのはいつものことだが、こと北森鴻のこととなるとあの男は制御装置の外れた自動車のような暴走をやらかす。

 大分時間が経過すると国木田もようやく正気を取り戻してきたようで、
「与謝野先生、難癖を付けるようで申し訳ないが、よく一緒に買い物に行っていて彼女の金銭感覚に疑問を持たなかったのですか……」
「確かに高めのブティックにも物怖じせず入ってはいたけどねェ……。アンタ、わざわざ他人の値札なんて確認するかい? それにそんなこと言い出したら、カード払いを指示したアンタにだって責任の一端があることになるよ」
「…………」
 与謝野に一蹴され、国木田はぐうの音も出ない。だが女医にも多少の罪悪感はあるようで、次からはもう少し気を回してみるよとため息交じりに詫びた。
 そうして社内がどんよりと暗くなっていると、空気を読んだ事務員が小休止にしましょうと濃厚なコーヒーとお茶請けを配ってくれた。ちなみにこの菓子はお嬢様が気を利かせて購入してきたものであるが、現在その事実は事務員の機転によって伏せられている。

 何口か飲んだところで国木田が重い口を開いた。
「北森は悪い奴じゃない。むしろ普段は気立ての良い娘だ。……ただ、俺たちとは育ってきた環境が違い過ぎる。これからも仮に何か用事を頼むことがあったとしても、よくその内容を吟味するように!」
「了解」
 全員が声を揃えた。

 本日、武装探偵社が学んだ教訓――
『北森鴻に買い物を任せてはいけない』。


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