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 織田作之助は長い殺し屋稼業を経て、現在はヨコハマの裏社会に君臨するポートマフィアなんぞに身をやつしている。とはいえ己の信条から決して人を殺さないマフィアとして組織内でも奇異の目に晒されている彼は、最下級に位置する構成員であった。殺人を禁じているくせに裏社会で生きているなんて甚だ滑稽な話ではあるものの、一度足を踏み入れた者がそう簡単に這い出せるほどこの闇は浅くないのだ。
 こうして長きに渡り寄る辺ない生活を送ってきた彼であったがここ数年、知己と呼んでも差し支えない存在を二人ばかし得た。
 組織の最年少幹部と組織随一の情報員である。
 一介の構成員からすれば雲の上のような存在であり、本来ならば会話することさえ憚られる人物なのだが――三者それぞれ何か感じることがあったのか、心地よい距離感を保ちつつその関係は緩やかに続いていた。

 少し時間を過ぎたか……。
 古い腕時計に目を落とし、作之助は歩みを速めた。
 友人の一人――太宰治がどうしても紹介したい相手がいるというので、彼はヨコハマの街を一望する組織本部にまで赴いている。集合場所は会計施設なのだが――さて、彼には友人の目的など皆目見当もつかない。本部内なのだから組織関係者なのは明確、しかしわざわざ会計施設を落ち合う現場に指定してくるあたり、友人の片割れ――坂口安吾に縁ある者なのか。
 ……まぁ、行ってみれば分かるか。
 ぐだぐだと推論を立てていても仕方がない。
 作之助は約束の時間から幾ばくか遅れて目的地に到着した。とはいえそれくらいで不平を並べる友人たちではないので、急ぐこともなく流れてくる声の方向へ進む。
 さすが天下のポートマフィアというだけあって、書類が保管されているだけの部屋にも上質な絨毯が敷かれている。毛足の長いそれに若干足を取られつつ多少開けた空間に出ると、そこで彼は粛として佇む小柄な女性の姿を認めて息を呑んだ。

 長い睫毛に縁取られた黒く丸い瞳が快活さを、筋の通った鼻が明瞭さを、ぷっくりとした赤い小ぶりな唇が、少女に艶美さを添えている。肌は雪のように白く、黒く長い髪には艶があり少しの動作でもきらきらとなびく。胸元に繊細な刺繍の施されたブラウスから覗く首も、膝丈のプリーツスカートから伸びる脚も簡単に折れてしまいそうなほど細く、男の庇護欲をそそる。まだ少女の域を出ない外観ながら、既にその美貌は他の追随を許さんばかりに光り輝いていた。
 女性に熱を上げたことのない作之助が柄にもなく時間を忘れて見入ってしまうほど、眼前にいる少女はただただ只管に美しい。彼女のほうもそんな作之助の熱い視線にあてられたかのか、彼から目を逸らすことはなかった。

「やぁ、織田作。待ってたよ」
「お疲れ様です。織田作さん」
 代わる代わる友人たちから挨拶をされて作之助は我に返り、
「遅くなって悪い。それで、お前が会わせたい人物っていうのは……」
「そう、彼女だよ。『北森鴻』ちゃん。私は敬愛を込めてお鴻ちゃんと呼んでいる」
 太宰の台詞に合わせるように美少女が会釈をしてきたので彼も自己紹介をして返すが、そこではたとあることに思い至り、
「……おいおい、ポートマフィアのお姫様じゃないか」
「そうだよ。私とは仲良しこよしなんだ」
 ねーと太宰が笑いかけると、少女からも朗らかな笑顔が返ってくる。
「いいのか、俺なんかに引き合わせて」
「構成員に会わせちゃいけないなんて掟はないもの」
 組織内での地位が低いからといって己を卑下する友人の態度が気に入らず、太宰は口を尖らせる。
「だからって、まさか無理に連れてきたわけじゃないだろうな……」
「ちょっと、私がお鴻ちゃんにそんな無体を働くはずがないだろう。ちゃあんと了承は得ているよ」
「いや、それならいいが……」
「どうだい、まさに奇跡のような超絶的美少女だろう」
 太宰はさも自分のことのように胸を張り、少女を見せびらかした。
 それに同意するでも否定するでもなく、作之助はじっと少女を正視する。

 稀有な異能を有していながら首領の許可なくしての行使を禁止され、本部上層階に囚われている深窓の美姫。下級構成員などは顔も知らず、幹部でさえ異能の仔細を知る者は限られているという。敵対組織からは幽囚の姫君などと揶揄されながらもその身を狙われ、本部であるビルヂングからは外出することすらままならぬらしい。

「お鴻さんと久々にお会い出来て私としては渡りに船ですが、どうしてわざわざここを集会場所に選ぶんですかね」
 仕事中である安吾が神経質そうな字を書きながら苦言を呈した。しかもため息まで付けるおまけぶりであったが、太宰には全く響いていないようで、
「ええー、だって他に丁度良い場所が無かったんだもの」
「ラウンジとかリーディングルームとか、ここにはお喋りに適した空間がごまんとあるでしょうに。それこそ彼女の自室でも問題ないのでは」
「女性の部屋にづかづか入るほど私、無神経じゃない」
「僕の仕事場に土足で上がり込むのは無神経にならないんですか」
「私と安吾の仲じゃない」
「どんな仲ですか!」
 気持ち悪い、と万年筆を休めることなく安吾がつっこむ。書類が滲んで書き直し、なんて惨劇が起こらないことだけを祈ろう。

 作之助は真面目な友人の胃に穴が開くことを危惧して、話題を摩り替えてやる。
「いきなりポートマフィアの重要人物との橋渡しをするなんて、一体どういう風の吹き回しだ」
「毎日毎日同じ面子とばかり会話していても飽きると思ってね、私なりの親切心さ。どうにもお鴻ちゃんは行動範囲が狭くていけないよ。自室以外では首領の執務室か、屋上庭園くらいだもの」
 はてそんな所はあっただろうかと作之助が方眉を引き上げると、太宰はそれを見越したように、
「お鴻ちゃんのために首領が拵えたんだよ。エリス嬢も草花は好きみたいだし、花と戯れる美少女たちを拝みたいっていうのが本音なんじゃないかな」
「それじゃあ、そこでも良かったんじゃないのか」
 作之助の疑問は尤もである。しかし太宰は首をふるふると横に振って、
「私も候補には入れていたのだけれど、日中は日差しが強くてね。お鴻ちゃんの玉のような肌が紫外線で真っ赤になるのは見たくないじゃない。かといってロビーやラウンジみたいな場所じゃ、お鴻ちゃんが衆目に晒されてしまう。だから致し方なく、ここを選んだのさ。でなきゃこんな苔でも生えそうな所、誰が好き好んで長居なんてするんだい」
「悪かったですね」
 すかさず安吾が毒づいた。業務の邪魔をされた挙句に陰湿なんて暴言を吐かれたら誰だって怒る。

 立腹する安吾を慮ったのかお姫様までもが仲裁に入り、
「書籍は常に新しいものが用意されていますし、お飲み物も部屋に常備されているもので満足しています。エリスちゃんと遊ぶのも、紅葉さんや中也さんとお話しするのも楽しいですから、特に不満はないのです。勿論、太宰さんや安吾さんとこうしてお喋りするのも好きですよ」
「どうしてそう、君は良い子なんだい! でも中也なんかと会話するのはお薦めしないよ。今度、部屋に来たら追い返してやるといい」
 揃って双黒と賞賛される相棒をさらりと貶した太宰が横から鴻に抱きついたが、心なしか気色ばんだ作之助により即座に引き剥がされた。
「何をするんだい、織田作!」
「無闇矢鱈と婦女子に抱きつくんじゃない」
「いいじゃない、お鴻ちゃんは嫌がってないもの」
「気を遣っているんだろう」
「ええー?」
 本音を問おうと太宰が再び美少女に迫るや否や、どこからともなく規則的な電子音が鳴り響いた。作之助はぴくりと反応したものの私物とは音が違うし、安吾も少女も動きを見せないことから誰のものであるかは一目瞭然。

「……太宰君、鳴っていますよ、電話」
「出たくない私の気持ちも汲んでくれたまえよ」
「仕事なさい!」
 安吾にぴしゃりと諌められた太宰は億劫そうにいつまでもけたたましく喚く電話に出て、うんともすんとも言わず聞くに徹した後、電源を切りがっくりと肩を落とした。
「どうした」
 尋ねる作之助に太宰は、どうやら部下がへまをしたらしく私の尻拭いが必要らしいと説く。
「残念だが行かなくては」
 すっと仕事の顔に戻った太宰はくるりと背を向けたが、不意に何かを思い出したかのように立ち止まり、
「織田作、悪いけどお鴻ちゃんを部屋まで送ってくれないか」
「おい、勝手なことを――」
「何か言われたら私の名前を出してもいいからさ」
 言うだけ言って後ろ手に別れを告げた太宰は、そのまま退室してしまった。その年若い友人の奔放さに、作之助はがしがしと頭をかく。
 とはいえ仕事中の安吾に押し付けるわけにもいかず、しかも本部内とはいえ不埒な輩がいないとも限らないので従うことにした彼は、真面目な友人に労いの言葉をかけてから扉を潜った。そしてすぐ傍にエレベーターがあったはずだと進行方向を変えた途端、後ろから鴻に裾を引っ張られて立ち止まる。
「……あの、もし宜しければ、階段を使いませんか」
「俺は構わないが……君は大丈夫なのか」
「はい。二十階も三十階もあるわけではありませんから」
 聞けば目的地はここから十ほど上階らしい。
 歩けない階数でもないか……。
 作之助は少女のいじらしいお願いを聞き入れてやることにした。

 さりとて出会ったばかりの男女間にそうそう会話があるはずもなく、作之助は背後の小さな気配を窺いながら一段ずつ時間をかけるようにゆっくりと上っていく。廊下はお姫様の背後に控えていたのだけれど、階段でスカートの女性の下を位置取るのは問題だろうとさりげなく先を進むくらいの気遣いは彼にだってある。
 しばらくは沈黙が続き、二人分の靴音だけが辺りに反響していた。闇組織の中枢にしてはいささか静寂が過ぎる空間ではあったが両者の間に気まずさはなく、むしろ作之助に至っては心地良ささえ感じている。するとこの邂逅が最後になることだけはどうしても回避したくなってきて、あれこれと会話の糸口を探してようやく沈黙を破った。

「俺で良ければ話し相手になってもいい」
 唐突過ぎたからか背後で少女が動きを止めたため、作之助は取り繕うように、
「俺のような組織の何でも屋は雑用ばかりで、太宰や安吾より時間もある。こんなくたびれた男、君は嫌かもしれないが……」
「いいえ、嬉しいです」
 好意的な返答に彼が意を決して振り返ってみれば、頬を桃色に染めながらこちらを見上げる鴻の姿がある。
「けれど私、知らない人が沢山いるところは苦手で……。それに私の部屋にはいつ誰が来るかも分かりません」
「……いや、それなら場所は俺が見繕っておこう」
「まぁ、でしたら連絡先をお伝えしておきますね」
「ああ、助かる」
 とは言ったものの互いにメモなど持ち合わせておらず、作之助は己の携帯電話を彼女へ渡し登録してくれるよう頼んだ。両手でしっかりそれを受け取った鴻は細い指で一生懸命画面を触っており、よほど嬉しかったのかと彼は勘違いしてしまいそうになる。
「ご連絡、待ってますね」
「ああ……」
 戻ってきた電話を仕舞った外套の胸ポケットが妙にぽかぽかしている。
 というか俺は、年端もいかない少女に何をやっているんだ……。
 結局それきり作之助は鑑みた己の行動に酷く羞恥を覚えてしまい、別れるまでただの一度も言葉を発することができなかった。


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