We never call him but he answers us.5



 ポケットから鍵を取り出すと、鍵穴にさしこんでドアを開けた。
「ただいまァー…」
 言いつつ、真っ暗な玄関の明かりを点ける。
 家の中は、遅い時間だからかシンと静まっていた。
「静かだな。まぁ、時間遅せぇし、当たり前か」
「ていうか、誰もいないから」
 夏梨の科白に、首を傾げた。
「いねーって…もう一人の方と、親父はどうしたんだよ?」
 靴を脱ぎながら答える。
「ヒゲは知り合いの医者んトコに用事があるらしくて、ここ二日戻ってきてないんだ。遊子は一兄が死んでから、ちょっと調子悪くてね。今朝、織姫ちゃんのとこに預けてきた。織姫ちゃんはカウンセラー志望だし」
 元々、遊子は夏梨と違って、かなりのお兄ちゃんっ子だった。その彼が死んだのだから、健康面に異常が出るのは必然だろう。
 二人がいない理由を口にした彼女は、心なしか淋しそうに感じられた。
「今日はもう遅いから、話は明日でいい?」
 キッチンに入って、冷蔵庫の中から一リットルのペットボトルを取り出すと、棚からコップを出してコポコポと注ぐ。
「あ? ああ、別に…。寧ろお前、学校はいいのか?」
「明日は日曜。休みだからね。部活も適当な理由つけて休めばいいし」
 ちなみに、夏梨は女子サッカー部のエース的存在である。
 彼女は、麦茶の入ったコップを恋次の前に突き出した。
 飲めば? と目が言っているので、大人しく頂くことにする。
「悪いけど、万一ヒゲとか遊子とか帰ってきたとき、大騒ぎになっても困るからさ。とりあえず空き部屋で寝てくれない?」
「おう。分かった」
 そして、麦茶を一気に飲み干した。


(はぁー…空き部屋って、ここかよ…)
 恋次の口から自然と溜息が出てしまうのも当然の話で、“空き部屋”に案内されたそこは、紛れもなく一護の部屋だった。
 たしかに、部屋の主がいなくなってしまったここは、“空き部屋”なのだろうが、それでもつい先日までここに一護がいたのだと思うと、どうしようもなく悲しい気持ちに襲われた。
 ベッドから体を起こして、部屋の中をぐるりと見回す。
 大学の教材と思われるものが机の上に並んでおり、ブックエンドで無理矢理固定してある。一護の趣味か何かだったのか、ギターが棚の横に立てかけてあるのは四年前と変わらない。ベッドの掛け布団はどういうわけか相変わらずの滅却師仕様のクロス模様。昔、ルキアが住まいとしていたらしい押入れ。
 もう一度机に目をやってみると、茶色の写真立てがあることに気付いた。入っている写真は、チャドの家で見たものと同じ、卒業式の写真だ。持ち上げて、よく眺める。
「こういうときでさえ、仏頂面かよ…」
 彼らしいといえば、彼らしい。
 その仏頂面でも、この写真の中では、そこまで嫌がっているような感じはしない。
 この約三年後。一護がこの世からいなくなるなんて、誰が予想しただろう。
「………“ナリア・ユペ・モントーラ”…」
 彼が名乗っていたものを呟き、舌を打つ。
 写真立てをやや乱暴に、机に置いた。
「バカが。テメェは“黒崎一護”以外、誰でもねーだろ…」
 奥歯を食いしばる。
 苦しいわけでも、淋しいわけでも、怒っているわけでも、ましてや悲しいわけでもない。

 ――――テメェらこそ、何者だ!?

 ただ、心の底から、悔しかった。


 朝になって、恋次はベッドから体を起こした。一度大欠伸をかくと、寝ぼけ眼で時計を見た。…つもりだったが、その時計が置いてある方向に夏梨が立っていたので、結果的に彼女を見ることになる。
 きっちり十秒固まった後、彼は漸く口を開いた。
「…夏梨?」
「正解。名前覚えたね、オッサン」
 その呼び方を耳にして、恋次が眉間に皺を寄せる。
 夏梨は悪戯っぽく笑った。
「冗談だよ。おはよう、恋次」
 どうやら時刻はもう午前十時を回っているらしく、なかなか起きてこない彼を起こしに来たのだと言う。まあ、昨晩クロサキ医院に来た時間は午後十一時半を過ぎていたし、その後考え事をしていたので、寝坊してしまう事態も当然ではあった。
 夏梨は「さっさと下りてきてね」と言い置いて、部屋からいなくなった。
 とりあえず机の上に置いた髪紐で、長い髪を高い位置に結って、いつも通り手ぬぐいを頭に巻いた。
 一階におりて、リビングに入ると、テーブルの上にカップ麺が一つ置いてあるのが目に入った。
「これ…何だ?」
 既に湯が注がれており、若干のびてしまっているそれを見て尋ねる。
「何だよ、カップ麺も知らないの? …ま、とりあえず食べてよ。遊子もいないし、あたしはそんな凝ったもんなんか作れねーからな」
 その直後、カップ麺の美味しさに、恋次が大喜びしたとか何とか。


 一護が事故死した現場へ、二人は歩を進めていた。
 この道を歩いていると、夏梨は嫌でもあの日のことを思い出す。遊子とはしゃいで、一緒に歩いていた。後ろを歩く兄に声をかけた。彼は微笑し、何かしら答えてくれた。高校生にもなって、とクラスメイトには笑われるかもしれないが、医学部の勉強で忙しい兄と共に、遊びに行こうと道を歩くのは楽しかったし、幸せだった。急患が入ったせいで来られなくなった父親がいれば、家族全員での久々の外出だった。
『ね、一兄! どこに行く?』
『え? あー…近くの水族館は定休日だし……お前等の行きたいとこでいいよ』
『えぇ、またお兄ちゃんそれ!? たまにはお兄ちゃんの行きたいとこに行こうよ!』
 本当は、何処にも行かなくてよかった。ただのんびりと、一緒に話したかった。兄と娯楽の時間も欲しかった。それだけだったのだ。別に、どこか遠くへ遊びに行こうとか、考えていなかった。徒歩なのだから、それは元々無理だったけれど。
「あのね…」
 恋次に対し、少しずつ言葉を紡いでいく。
「一兄があたしたちを庇ったときは…正直言って、気が動転してた」
 半規管が正常だったのだろう。
 夏梨の視界が真っ黒に染まり、ぐるりぐるりと自身が回転しているのを感じた。途中で、一瞬全身が浮いたような気もしたけれど、誰かに体を押さえつけられている感覚があった。
 一回、ぼやけていたけど空を見た。多分。
 悲鳴が聞こえた。何処から? 分からなかった。
 ブレーキ音が耳を突き抜ける。そして、ドッ、と体に衝撃。それで意識が若干覚醒した。
 体中ズキズキしてて、頭の中がゆらゆらしてて、まともに起き上がるのにも時間がかかった。
 状況把握のために視線を巡らせる。自分でも驚くほど、このときまでは冷静だった。
 遠くに、スライド式の携帯が転がっていた。あれはたしか、兄のものだ。…兄?
 慌てて、つい先ほどまで自分の頭に手を置いていた一護を見た。夏梨が起き上がるにあたり、無造作に頭の上からどかされた彼の手は、力なく地面の上に垂れていた。
『一兄…?』
 声をかける。まだ分かっていなかったから。
『起きろよ…一兄…ほら、遊子も…』
 少し二人を揺り動かすと、一護の左手が頭に置かれて気絶していた遊子が、ゆるゆると目を開ける。
 夏梨は息を吐き、また一護を揺らした。
 その傍らで、遊子が呻きながら起き上がり、徐に兄を見る。
『お兄ちゃん…?』
 遊子が呟く。一護は反応を示さない。
 やがて、目を見開く。
『お…兄ちゃん…? ねぇ、お兄ちゃん…!』
 夏梨と一緒になって、体を揺り動かした。
 一護は目を覚まさない。
『ったく…一兄、いい加減、起き』
『夏梨ちゃん…』
 顔を上げる。遊子が、泣いていた。
『ど、どうした? 遊子…あ、ケガ痛いのか! まってて、すぐに一兄を起こして…』
 遊子が肩を振るわせる。そして、叫んだ。
『お兄ちゃんが、死んじゃったぁぁあ…!!!』
 うわあぁぁ…と泣く遊子を、呆然と見つめる。
 彼女の言葉が、ダイレクトに耳に入ってきた。
『一兄が………死んだ…?』
 起きないのは、死んでいるから?
 一兄は―――あたしたちを、庇って…?
『嘘だろ…一兄は…だって一兄が死ぬわけが…!!』
『うええええぇんっ! お兄ちゃぁ〜〜〜〜んっ!!!!』
 嘘だよ……嘘だよ、こんなの…!
『一兄っ…! 起きて…! 起きて! 起きてよ! 一兄――――――ッ!!!』


 夏梨は俯きつつも、足はとめなかった。
 彼女の後ろを歩く恋次は、何と言ってやればいいのか分からない。
 家族を失う苦しさは知っている。
 流魂街時代、共に生きてきた家族といえる仲間は、ルキアを除いて皆死んでいった。
 一日、一日と。息を吹かれた蝋燭の火のように。
「でも、そこである違和感があったんだ」
 振り向かずに夏梨は言葉を続ける。
「一兄は、あたしと遊子を庇って死んだ。あたしらを護るようにして死んでたんだから、それは言うまでもないけど…トラックにつっこまれる間際、一兄が叫んでたのを昨日、ふと思い出したんだ」

 ――――遊子っ! 夏梨っ!!

 叫ばれて振り向いた。
 少し後ろを歩いていた一護が、緊迫した様子で走ってくる。

 ――――やめろおおぉぉおっ!!!!

 そして、すぐそこまで迫っていたトラックが見えた。
 何だか意味が分からなくて、夏梨は遊子と一緒になって呆けた。
 次の瞬間、一護が自分達に覆いかぶさって―――、
 目を開け、顔だけをこちらに向ける。
「“やめろ”って、ちょっと変だと思わない?」
 恋次が眉間に皺を刻む。
「“危ねぇ”とか“逃げろ”とかなら、まだ分かる。だけど、もしあたしと遊子に向けて“やめろ”って言ったなら、その意味って…?」
 ハッとする。
「それは、お前等じゃねぇ相手への言葉だった…!?」
 コクリ、と夏梨は頷いた。
「あの日、土曜だったから、たしかに平日よりは人が道を歩いてたんだ。一兄が“やめろ”って言う相手がいた可能性は、あると思う」
「だが、だとしたら一体誰に…」
 流れ的に、一護がもし本当に「やめろ」と叫んだのなら、それは「遊子と夏梨を轢き殺すな」という意味合いのもののはずだ。ならば、対象はトラックの運転手か。
「トラックの運転手に向けていたとしても、運転手はトラックを降りて逃亡。まだ足取りはつかめてないって、警察は言ってた」
 視線を前に戻し、歩き続ける。
「でも、一兄がもし、あたしたちを轢こうとしたトラックにそう言ったなら、一兄はその運転手を知ってたってことだよね?」
 たしかに、そのとおりである。
 全く知らない運転手が、自分の妹を殺そうとしていると察するのは少々無茶だ。
「…あ」
「? どうした?」
 夏梨の目を追ってみると、事故が起きたすぐ近くの電信柱のところに、一人の男がしゃがみこんで両手を合わせている。電信柱の下には複数の花束が供えてあった。
 男がこちらに気付き、立ち上がる。
「夏梨ちゃん…?」
「洋介さん…」
 見たところ、夏梨よりは年上だ。雀斑だらけの童顔で、なんだか年齢がよく分からない。
「誰だ?」
「山吹洋介。一兄の大学の友達だよ」
 夏梨が説明すると、洋介は近づいてきながら首をかしげた。
「一人で何言ってるんだい?」
「いや、別に。…それより、一兄のために来てくれたんだろ? ありがとな」
 洋介は肩を竦める。
「正直言って、まだ実感ないよ? 一護が死んだの。医学部のくせに、時折授業サボってたし。今でも、“まぁ時間が経てば来るでしょ”とか、“あいつのためにノートはちゃんととっとかなきゃな”って思っちゃうんだ」
 夏梨は苦笑し、腰に手をやった。
「仕方ないよ。洋介さんは一兄と仲良しだったし」
 洋介の目の下には、隈が見られた。あまり寝ていないようだ。
「僕の方がまだマシだよ。そっちは大丈夫?」
「あたしはね。グジグジしてても、仕方ないし。…ただ…」
 表情が少し沈んだので、洋介は淋しそうに眉を下げる。
「…遊子ちゃん?」
「…うん。今、知り合いのカウンセラーのとこに預けてる。もう少し、時間、必要みたいだから」
「そっか…。でも、早く闘争中のトラックの運転手、捕まるといいね。…と言っても、望みは低いか」
 残念そうに肩を落とし呟く彼に、怪訝な目を向ける。
 二人の会話を黙ってみていた恋次が、眉根を寄せる。
 夏梨が思わず尋ねた。
「どういうことだよ?」
「え、知らないの? 警察が運転手の足取りをつかめない理由」
 その痕跡が悉く消されてしまっているからだと思っていたが。
 洋介は、供えられている花束を尻目に言った。
「あの日、一護が死んだとき、多少人が集まってきてたのは知ってるね?」
 一応、首を縦に振った。
 実を言うと、よく分からなかった。あのときは無我夢中で一護に声をかけていたし、また混乱もしていた。状況把握のときも、人々と言う背景に目はいっていなかった。ただ、周りに人がいる、と思ったのは、事故にあって彼に庇われた時、ブレーキ音に混じって悲鳴が聞こえた覚えがあるからだ。
「警察は、そのいたと思われる人たちを重点的に聞き込みしてるらしいんだけどね。トラックの運転手を目にしている人は、未だに誰もいないんだ」
 頭の中が揺れた気がした。
 目にした人がいない? だが、一護たちを轢いて、トラックに誰乗っていなかったなら、車から降りて逃げたはずだ。それを見ている人がいないはずがない。
「あっ、僕、バスの時間だ。そろそろ行くね。元気、出しなよ?」
 時間がないはずなのに、心配そうに覗き込んでくる洋介に、夏梨は微笑む。
「大丈夫だって。ありがと、洋介さん」
 一人頷くと、洋介は花束の前にまで改めてくると、ポツリと呟く。
「また、来るからな。一護」
 彼は腕時計に視線を落とすと、顔を強張らせる、そして、大急ぎでその場を後にした。
 洋介を見送って、夏梨は声を落とす。
「…ねぇ、恋次」
「ああ…どうやら、既にかなり、めんどくせぇことになってるらしいな…」
 一護が夏梨と遊子を助ける時に叫んだ、“やめろ”という言葉。
 誰にも目撃されていない、轢き逃げのトラックの運転手。
「一兄は…死んだんじゃなかった…」
 ギリ、と奥歯を食いしばる。
 恋次も苦虫を噛み潰したような顔をした。
「一兄は……殺されたんだ…!」
 怒りで拳が震える。否、怒りを通り超え、悔しくて切なくて、涙が出そうになる。
 夏梨の頭に、恋次の手が置かれた。
「泣くんじゃねぇぞ、夏梨…泣いたらオメーは、自分自身に負けたことになっちまう」
 言って手を離し、その掌を見つめる。拳を作って、恋次は押し殺した声で、
「一護を殺りやがった野郎を許せねぇなら…ぜってぇ泣くんじゃねぇぞ…!!」
 夏梨は無言で、小さく頷いた。
 天を仰いで、恋次は目を細めた。
 まだ、昼でもない。空は青い。少し雲が多いので、近々雨が降るのかもしれない。

 ――――雨は、嫌いなんだ。

 一護がそう言ったのは、いつだっただろう。
 今、雨だけは降ってほしくない、と、何となく思うのだった。


 石田が、病院の中でカルテを持って歩いていた。本当は医学の勉強をやるつもりだったが、身に入らなかった。そこで、父がいないのを確認し、彼の部屋からこれを持ち出したのだ。他でもない、黒崎一護のカルテを。
 彼が救急車で搬送された先は、この病院だった。最も、できたことは、一護の死亡確認のみであったが。
 カルテに、何かしら情報があるのではと、石田は考えている。無論、可能性は低い。
「…ん?」
 ふと、わずかな霊圧を感じて、足を止める。何処からだろうと周囲を見た。
(205…空き病室…?)
 そっと近づき、戸をわずかに開ける。
 205号室内に見えたのは、父・竜弦と、患者用ベッドの上に腰をおろす、一護の父・一心の姿だった。ちなみに、何があったのかは分からないが、一心は死神化した状態だ。
(どうして黒崎の父親が…?)
「断る。お前は、ここを何だと思っているんだ?」
「そこをどうにかできねーかって話で…ああっ、くそ! 話のわかんねぇ奴だな!」
 辛うじて聞こえたのは、二人が中途半端に大声になったそれだけだり、他の会話は上手く聞き取れない。
(…気にすることはないか…黒崎の家も病院だし、患者を預かってくれとか、そういう用件だろう…)
 実際石田は、何回か黒崎家から電話がかかり、設備の整っているこちらに患者を移させてほしい、という申し出に対して、竜弦が嫌そうな顔で承諾しているのを何回か目にしている。一護においては「じゃあそっち連れてくからな!」と一方的に言って電話を切るので、何度喧嘩したことか。まだ正式な医者でもないくせに…と言ってやりたくなるが、それはこちらも同じだった。
 開けたときと同様に、二人にバレないようにそっと戸を閉める。
 石田は、カルテを持ち直して再び歩き始めた。




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