夕日を宿した折り鶴が、あたしのもとに届いた。
* * *
おねえちゃんが、死んだ。
1
突然だった、というわけでもない。
生まれつきおねえちゃんは心臓が悪くて、ずっと入退院を繰り返していた。ただ、退院の状態だと、僕と盛大な喧嘩ばかりで、仮病なんじゃないかと疑うくらい元気だった。
勿論実際、仮病なんかじゃなくて、すっごく小さい頃に一回、お見舞いに行ったことがある。正直ほとんど覚えてないけど。でも当然、子供の僕なんかがいても、大人たちにしてみれば邪魔なわけで、次のときからはおじいちゃんとおばあちゃんの家に預けられるようになった。父ちゃんと母ちゃんは、おねえちゃんにばかり気を配っていた。
そして、この数年、おねえちゃんは手術を繰り返していた。でも、ひょいっと退院して帰ってくると、
『ちょっとー、あたしの鞄どこにやったのよ!』
『何、このキーホルダー。だっさ〜! ね、これ、あたしに頂戴よ。友達にあんたのセンスの悪さ公表するから!』
他にも色々言われて、決まって僕と喧嘩になったから、やっぱり、手術の話も嘘なんじゃないか、と思った。
二週間前、手術の無理と薬の副作用が重なって、おねえちゃんは昏睡状態に陥った。
あ、そろそろ死ぬのかな、と思ってたら、
おねえちゃんは本当に死んだ。
僕は、丁度今、その場所に来たところ。病室の戸を開けて、足を、踏み入れた。
病室で、父ちゃん、母ちゃん、おじいちゃん、おばあちゃん、、おねえちゃんの友達、あと、おねえちゃんの担当医とかが、うわんうわん泣いていた。
ちょっと呆然とした後、僕は一回、ベッドに近づいておねえちゃんを見た。
びっくりするくらい落ち着いた顔で、目を閉じているおねえちゃんがそこにいた。白い顔だった。掛け布団をちょっと捲って、手を握ってみた。何だか、温い。少なくとも、生きている人間の体温ではないように思った。僕は足元におろしていたスクールバッグをかついで、病室を出た。
何でかな。涙が出ない。
それどころか、おねえちゃんの顔を見て、僕はホッとしていた。
今日はおねえちゃんと顔を合わせたのに、それどころか手に触れたりもしたのに、初めて喧嘩にならなかったぞ。そんな、安心感だった。
一階にまでおりてくると、売店の傍にある自動販売機の前で止まって、百円玉一枚と十円玉二枚を入れた。カシャカシャ、という音の後、120という紅い文字が点灯したのを確認した後、僕は「あたたか〜い」と書いてある範囲のボタンを押した。ゴトン、と、下からミルクティーのパックが出てきた。おねえちゃんの好きなストレートティーじゃなくて、僕の好きなミルクティーだ。
病院の中庭に行き、ベンチに腰掛けて、僕はそれをガブガブと飲んだ。
一気にミルクティーを飲んで喉を潤してすぐ、携帯が震えた。確かめてみると、亮の名前が表示されていた。
変な空白のあと、徐にボタンを押して、耳にあてる。
「もしもし?」
「お、やっと出たか!」
「ごめん」
「いやいい。それよりさー、お前、三時間目でいきなり早退したじゃん? どうしたの?」
「まあ、色々と。今度話すよ」
――――イロイロ
何か、感情のない言葉だと、我ながらにして思った。
「ふーん…。あ、あと、そろそろ前言ってたCD、持って来てくれね? テスト終わったし、もう落ち込み終えたし!」
「ん。分かった」
それから数分、他愛も無い話をして、携帯を切った。
意味も無く長く息を吐いて、天を仰ぐ。ゆるゆると視線を下ろすと、車椅子に乗った老人や、松葉杖をつく少年や、パジャマ姿の青白い顔をした少女が見える。
健康体そのものな自分ばかりが妙に目立つように思えてきて、居辛くなった。ベンチから立ち上がる。
大股で歩いてナースステーションに戻り、潰したパックをゴミ箱に放り込んで、病院から出て、少し離れたところにある公園へと足を向けた。
時刻が間もなく五時を回るからか、そこには小さな子供の姿は見られない。ブランコに座り、小さく揺らした。キィ、キィと、錆び付いた音がする。
ブレザーのポケットをあさり、ウォークマンを取り出すと、イヤフォンを耳に入れた。その場で端子を操作し、ブックマークに沢山の楽しげな曲を追加して、それらを流れるように設定する。
再生を押すと、入れた順番どおり、その曲のメロディーが耳に入り込み始める。
馬鹿みたいな明るい曲で、僕の世界が外部から切り離される。
僕は、目を閉じた。
2
おねえちゃんが死んで五日。
忌引きだとかでずっと行けなかった学校に行った。亮は、心配した、と叫びながら僕に近づいてきて、「CD!」と次の瞬間には言っていたから、ついつい苦笑いを浮かべる。で、CDを出して渡したら、「えー、初回じゃねぇじゃん」と言われたから「通常で悪かったな」と睨んでみた。そのアーティスト、初回限定盤買うほど別に好きじゃないし…何となく買ってみただけだし。
「久しぶり」
ふいに声をかけられて、振り向く。こうすけだ。
「ん。久しぶり」
こうすけは僕のクラスメイトで、亮と僕がつるみ始めて少し経った頃に転入してきた。それからは、三人でよく一緒にいるようになった。つまりは仲良し。
「忌引きだっけ。お疲れ」
「うん。休んでた間のノート見せてよ」
「亮に頼め」
「こうすけはまた寝てた感じですか…」
こうすけは、白い歯を見せて笑う。亮が「俺も寝てた」と肩を竦めた。ちょっとー、と僕が怒る。
ここは時間が流れている。
ずっと、父ちゃんや母ちゃん、親類の人と一緒にいたから、学校でようやく、誰もが知るその不変の事実を思い出した。
朝のSHR後、担任の先生に呼ばれて、廊下に出た。
一時間目の授業は教室移動(たしか化学の実験)だから、本当はさっさと準備して、亮やこうすけと一緒に四階に行きたいんだけど、担任の呼び出しって不思議と束縛力がある。普段は呼び出しなんて、とくに何も感じないんだけど、今日は何となく嫌だった。
「プリント、山河から貰ったか?」
「貰いましたよ」
亮が僕の机の中に沢山突っ込んでくれた、あの保護者会のお知らせとか、吹奏楽部のコンサート的な開催プリントのことでしょ。
「その中にあった、保護者会のやつなんだけどな。少し予定が変わったんだ」
「そうなんですか」
「ああ。十七日から二十日。書き直しといてくれ」
「分かりました」
まぁ、あの両親の精神状態じゃ、どうせ来ないだろうけどね。
「あと、今度俺の授業で、問題集stage.5の英文法、小テストやるから」
「分かりました」
そのとき、僕は先生が、眉間に皺をよせてこっちを見ていることに気付いた。それに対し、僕も怪訝そうな顔をしてみる。
少し視線を彷徨わせて、何の意味もないだろうに、この人は自分の首にかかった、松岡智弥≠ニ書かれたネームを手でいじる。深呼吸するかのように、息を吐いた。
「……あ〜、その、さ」
「何ですか」
「大丈夫か?」
「何がですか」
僕は一体、松岡先生の何を不快に思っているんだろう。
「いや…ほら、その…家のこと…な?」
「大丈夫です」
「ばたついてるとは思うけど…」
「もう落ち着いたし、親はばたついてても親戚とか祖父母が助けてくれます」
言葉を詰まらせているみたいだった。
さっきの松岡先生の如く、僕は息を吐く。同時に、肩から力を抜いた。
左手で頭を掻き、チラリと先生を見る。
「もういいですか」
「あ、ああ…」
頷いたのを確認して、踵を返す。
生徒は全員、既に教室移動でいなくなっていて、クラスはがらんとしていた。
机の上に放置していた教科書とノート、筆箱を持ち上げようとして、亮の机に目を向ける。次に、こうすけの机。どちらの机にも何もないので、どうやら先に授業教室に行ってしまったらしい。
「ヒロ」
先生が、廊下から言う。
「大丈夫か」
溜息混じりに、「しつこいですよ」と答えた。
一時間目開始の、チャイムが鳴った。
3
手慣れた様子でバスケットボールをつきながら、亮は思案顔になる。
「ふーん。そうだったのか」
身体をバネにして、ピッと膝を伸ばすと同時に、額の前に構えたボールが手から離れていく。綺麗な弧を描いて、ゴールにストンと落ちた。
こういうの、見てて気持ちいい。こうすけも誘ったんだけど、教室の隅でゲームしてるほうがいいって。いつもそうなんだよな、アイツ。
「まぁね」
亮の一人バスケを眺めていたが、シュートし終えたボールを僕に放ってきたので、しっかりとキャッチした。さっきのマネをするようにして、膝を少し曲げて投げると、ボールは一瞬にして手元からゴールへと吹っ飛んで、派手な音を立てる。ゴールの横から、ポトリと落ちた。
「で、実際、大丈夫なの?」
「亮もそれ? 大丈夫だって」
「だって、一応、お前のただ一人の姉貴なわけじゃん? 凹んでねーの?」
「その凹むって感覚、よくわかんないんだよね」
コロコロと転がるボールを拾い上げて、亮に投げ返した。
すると、受け取るやいなや、ドリブルをしてゴールに駆けて、斜めからボールを入れた。とくに高くジャンプしてるわけでもないのに、ランニングシュートされたそれは、ゴールに吸い込まれる。
「まぁ、そーか。ヒロ、ドライだしな」
疲れたのか足を止め、汗で濡れたワイシャツの背中を指でつまんで、小さく風を送る。
腕で額に浮かぶ水滴を拭って、伸びをした。
「でもさ、家族の一人が…えーっと」
「いいよ、ダイレクトに言ってくれて」
「……。家族の一人が、死んでさ。何か思うこと、ねーの?」
足元にまで転がってきたボールを再び持ち上げて、片手だけで振りかぶって投げた。ゴールのバックボードに豪快に当たって、凄い勢いで跳ね返る。
「うーん…」
何気なく、テンテンと跳ねるボールを眺めた。
「よく、わかんないんだよね」
肩を竦める僕を、亮は無言で見つめていた。
「そもそも、家族はおねえちゃんの病気のことは知ってたし、父ちゃんと母ちゃんにおいては、僕よりもっと詳しく知ってたんだ。いつ死ぬかとか、僕よりは分かったはずなんだ」
「なのに暗いカオしてる家に帰るのが億劫で、俺のとこに来たわけ」
ニンテンドーDSをいじりながら、関心無さそうにこうすけはそう尋ねてきた。
口調がちょっと不機嫌に思えたので、
「それは、ごめん」
謝った。すると、こうすけはちょっとゲームから顔を上げ、僕を見る。溜息をついて、また顔を下に向けた。
こうすけは複雑な過去の持ち主で、血の繋がらない家族と暮らしてる。本人曰く、「オッサンに拾われた」らしい。そんなとこに家族間トラブル(?)を抱えた僕が転がり込んでくるのは、そりゃあ少なくとも快くはない。
「こうすけ」
「何だよ、亮?」
公共トイレから戻ってきた亮は(びっくりなことに、こうすけの家にはトイレがなく、外のものを使うしかない)、玄関を指差す。
「表でさとるさんが呼んでんぞ?」
「は? さとるが?」
で、いきなり表情が変わって、
「うっわやっべ!!!」
こうすけはDSを放り出して、玄関に走って行った。
次の瞬間には、さとるさんの怒声。
「辰也がいない間にゴミ出しとけってあれほど言っただろ!!」
「ご、ごめんって! わざとじゃねーって!」
怒鳴ってるさとるさんも、「オッサンに拾われた」人らしくて、こうすけより年上。たしか、高校生だった気がする。
その「オッサン」が、今言葉に出てきた辰也さん。辰也さんは、行き場をなくした子供を引き取るらしいんだけど、こうすけの雑な説明一回程度じゃ、半分くらいしか理解できない。
「あ〜、こうすけ、また怒られてる」
「おこられてるー!」
女の子の声が二つ。揃って赤いランドセルをカチャカチャいわせながら、家の中に入ってきて、僕と亮を目にとめる。
「あ、ヒロ兄ちゃん、亮兄ちゃん。来てたの?」
真っ先に声をかけてきたのが、あやちゃん。
そのあやちゃんと手を繋ぐ女の子が、りこちゃん。
この二人も「拾われた子」。でも、そうとは思えないほどいい子で元気な子達だ。時々遊んであげてたから、二人は僕らに懐いてくれている。
バタン、とドアの閉まる音がして、もう一人帰ってきた。
「なおき、おかえりなさい!」
りこちゃんがピョンと跳ねると、今入ってきた子は瞳を瞬かせる。次いで、僕らの姿を認めると、ニッコリ笑った。
この男の子は、なおきくん。こうすけの話だと、障害をもっていて言葉が喋れないらしい。それで色々うまくいかなくて、最初はこうすけが「ウザイ、キモイ」ってぼやいてた。辰也さんのおかげで無事終結したみたいで、仲良くしてるらしいけど。
「ねーねー、あそぼ! おままごとしよう! ね! しよ!」
りこちゃんが、なおきくんを引っ張って、僕らのことも誘う。
「えー、あたし、ドリルやんなきゃなのにー」
あやちゃんが不満気に言う。一方、こうすけはまださとるさんのお説教を受けてるみたいで、戻ってこない。怒鳴り声だけ延々と聞こえる。
「賑やかだなー」
亮が、りこちゃんに袖を引っ張られながら、笑いを噛み殺して呟く。
狭い空間で、こんなに、沢山。
僕もつい、笑ってしまった。本当に賑やかだ。
――――もし、この中から一人がいなくなってしまったら
ふいに、そんなことを思った。
思ってから、ヤなやつ、って自分に言った。
4
ブランコに乗って、揺れてみる。おねえちゃんが死んだときも、ここに来て音楽を聴いていた。何処でもいいから道草をくいたくて、病院の近くのこんなとこにまで来ちゃった。
耳にイヤフォンをはめて、楽しそうな曲を捜す。
――――頭がどうかしてんじゃないの。
――――そう? だって、普段喧嘩ばっかりの人がいなくなったら、ホッとするのが普通じゃないか。
――――そうかな。腐っても血の繋がった家族の一人だよ。ちょっとぐらい泣くとかあってもいいんじゃない。
――――じゃあ、悲しくないのに泣けってこと? 僕は演技派じゃないんだ!
舌打ちして、イヤフォンを耳から外した。ウォークマンの小さな画面に「POWER OFF」と文字が浮かんだのを確認して、ポケットに突っ込む。砂で汚れるのもお構いなしに、その辺に放り出していたスクールバッグを、前のめりになって手をのばし、地面に歪んだ線の痕を残しながら引き寄せた。
膝の上にのせて、ファスナーを開く。こうすけから借りた漫画を取り出すと、一緒になって何かが出てきて、地面にパサリと落ちた。
夕日に照らし出された黄緑が眩しい。さっき、こうすけの家で、りこちゃん、あやちゃん、なおきくんと折った、鶴だった。
取り上げて、とりあえず眺めてみる。性格が出たか、自分のこの折り鶴の顔や羽や尻尾は、どことなく不恰好だった。
「今日出した宿題は、ちゃんと終わったんだな?」
突然かけられた声に、思わず身体を震わせ、僕は顔を上げた。逆光で顔が見えづらいけど、判別するのに支障はない。
担任の、松岡智弥先生。
「あ、いえ、全く」
そういうと、先生は呆れたように肩を竦めて、それから僕の隣りのブランコに乗った。さすがに教員が近くにいると気まずくて、僕は漫画を鞄の中に渋々戻した。
「おー、懐かしいなぁ。俺もお前くらいの頃にここで、一人で考え事したんだぞ」
「そうですか」
ていうか、あんた、なんでこんなとこにいるんだ。
ジッと見ていると、先生は口角をクッと吊り上げる。
「リラとも、ここで喋ったんだぞ」
僕は半眼で見返した。
「またそうやって嘘言う。だから“デマつおか”なんてあだ名がつくんですよ」
先生の嘘は実にワンパターンで、決まってリラが出てくる。
リラっていうのは、今世間で売れてる女性歌手。「旅立ちの日に」をリメイクした歌とか、カバーとか、そういう系統からオリジナルまで幅広くCDを出してるんだけど、いつも売上ランキングベスト3入り。僕の友達にも、熱烈なファンがいたりする。かく言う僕も、実はリラのファンだ。優しそうな声に、心にジンとくる感じの歌詞の曲が多くて、凄く好き。
先生が言う嘘で最も恒例なのは、「俺、リラとは幼なじみで、結構仲良かったんだぞ」だ。
「え、俺、そんなあだ名つけられてんの?」
腕組みをして、唸る。
「デマなんかじゃねぇのになぁ…」
キィ、キィと、ブランコを揺らすたびに、耳障りな音がする。
先生は、まるで子供みたいに派手にブランコを揺らした後、足を地面につけて、ザリザリと音をさせながらとまる。
僕を横目で見て、溜息を吐き、足を組んだ。
「で、宿題も終わってないのに、何やってたの?」
「こうすけの家に亮と行ってました」
折り鶴の、折った細い部分をピンと伸ばすと、どっちが前で後ろなのかが分からなくなった。
「あー、仲いいもんな、お前等。賑やかだったろ? こうすけは大家族だもんな」
「血ぃつながってないのに、家族なんですかね、アレ」
ずっと手で弄んでいた折り鶴を、どんどん開いていく。
「家族だろ。一緒に暮らして支えあって、共に生きてる。血の繋がりなんて、二の次じゃねーのかな」
意外と折り紙の鶴の構造って複雑で、折ってきた一つ一つの段階を忘れたまま開こうとすると…嗚呼、ほら。破けた。
「例えば、両親が離婚する。で、親が再婚する。で、その相手の連れ子が、弟か妹か、兄か姉かになる。ここでの血のつながりはねぇけど、家族にはなるだろ?」
やっと折り紙の初期状態に戻せた。
皺だらけで、所々破けてる。なんか、折り紙が死んだみたいだ。
「じゃあ、僕と姉は家族じゃないですね。ただ、血がつながってるだけだ」
僕は、ほとんど無意識に、指先で折り紙の皺をのばす。それを、先生が訝しそうに見ていた。
「姉が死んでも、全然悲しくなかったんです、僕」
僕はやっと、折り紙から視線を外して、先生を見た。
先生の眉間には、深い皺が刻まれている。
「寧ろ、ホッとしてました。喧嘩ばっかりだったもんで」
すると、先生はいきなり、長く長く息を吐いた。ガシガシと頭を掻く。
「リラと同じ顔してるよ、もう…」
掻いた手を下ろすことなく、そのまま頭を抱えた。
「はい?」
「だーかーら! リラと同じカオしてんだよ! あいつの飼い犬が死んだときと! めんどくせぇなもう!!」
理解がいかない。訳がわからない。ってか、またリラですか…。
「本っ当もうヤダ! ムカツクんだよ、そのカオ! L.A.(ロサンゼルス)にいたときも忘れたことないな!」
生徒に向けての言葉とは思えないな。
ちょっと、ウザイ。
「そのカオってどういうことですか」
興味もないのに訊いてみた。
不機嫌そうな様子で、先生は僕を見る。気分を害してるのは僕ですよ?
「楽しいことを見出せなくなってる、かわいそうで哀れな顔」
何を知ったようなことを!
僕は小さく頭を振った。
「訊いた僕が馬鹿でした」
うんざりして、皺だらけの折り紙を見下ろした。
…ムカツク。
ビリッと音を立てて、破いた。粉々に破いて、それを空中に放り投げる。一つ一つが好き勝手に宙を舞った。
「あ、コラ! ゴミを捨てるんじゃない!」
先生は、慌ててブランコから離れ、散り散りに舞った折り紙の残骸をかき集める。全部の紙屑を右手の中におさめて、僕を振り返らずに言った。
「少なくとも、いつものお前のカオではないぞ」
昼休みの体育館。
亮が僕の顔を、無言で見ていたことを思い出す。
放課後のアパート『くずれ屋』。
こうすけが僕の顔を見て、溜息をついたことを思い出す。
地面に足をつけて、力一杯蹴飛ばした。
ブランコが、大きく揺れた。
5
先生とわかれ、僕は帰路についた。
松岡智弥は、良い先生なんだ。生徒からの信頼だって厚い。リラの話を除けば、だけど。性格も男子はとくに親しみやすい感じで、時々生徒かと錯覚するような感じで、じゃれる。
『楽しいことを見出せなくなってる、かわいそうで哀れな顔』
僕は顔を顰め、えい、と足元の石ころを蹴り飛ばした。それは、ポーンと飛ぶわけでもなく、数回地面の上を跳ねて、情けなく転がり、その辺の石に紛れた。
悪かったな、かわいそうで、哀れな顔してて。
ふいに、声が聞こえてきた。川原の方に目を向ける。僕より年上…多分、高校生くらい。そんな男女が、そこでキャッチボールをしていた。
「千紘! いくぞー!」
声が響く。男が、女―――千紘さん?―――に向かって、ボールを投げた。すると、ボールは千紘さんの頭上をあっさり通過していった。
「あー! お兄ちゃん、高すぎ!」
「わー、スマン!」
どうやら、兄妹らしい。二人とも同じ学校みたいな制服着てるし、年は一つ二つ程度の違いだろうけど。もっとぶっちゃけると、全然似てないけど。カップルっぽいけど。でも、そこにいる兄妹は、すごく楽しそうにキャッチボールをしていた。
(あれくらい仲良しだったら、僕ももうちょいマシな反応ができたんだろうな…)
僕は少し斜面をおりて、スクールバッグを傍らに置いて、膝を抱えて座った。もう一番星が輝いているけど、家に帰りたくなかったし、もう少し、この兄妹のキャッチボールを眺めていたくなった。でも、ガン見するときっと驚かれるから、カモフラージュ的な役割として、僕はこうすけから借りた漫画をまた、鞄の中から引きずり出す。真っ白のフラッシュをつけただけの、超手抜きな表紙。一ヶ月くらい前まで某少年漫画雑誌で連載してたけど、絶不調になって割とすぐに打ち切りになった。タイトルは金字で書いてあるとおり、『聖獣』。すごく厨二病臭いなぁ。
キャッチボールをする兄妹を視界の端にとらえつつ、『聖獣』を開いた。唯一カラーである一ページ目には、青々とした草原と、そこに座る白いライオン、綺麗な女の人が描かれていた。へぇ、絵だけは一応綺麗なんだな…。打ち切りってことは、内容が残念パターンか。そう思いながら、次のページを捲る。
――――また漫画読んでるの? 中学生なんだから、ちゃんと勉強しなよ。あたしが入院しても退院しても、いつも状況同じなんだもん。馬鹿じゃないの?
舌打ちした。
「うっさいなぁ…」
そう、言った。別に今、誰からも言葉をかけられていないのに。
どれくらいの時間、そうしていただろう。
もう、兄妹はとうの昔に帰っていた。でも僕は、どうしてか動く気になれなくて、まわりが真っ暗になっても、ずっとずっとそこで蹲っていた。漫画なんて、もう読んでない。途中で飽きた。
今の時間帰ったら、怒られるだろうか。少なくとも七時は回ってるはずだ。でも、やっぱりまだ、おねえちゃんのことで凹んでるかな、僕の家は。
「…うっさいなぁ」
一人、呟く。別に誰も、うるさくなんかしてない。ただ、何となく耳に何かが残っていて、そう言いたくなったんだ。
「…帰ろ」
鞄を持ち上げた。歩き始めた僕の足は、学校へ行く時や『くずれ屋』へ行く時、公園へ行く時と比にならないほど、誰かに掴まれているかのように、進みにくかった。
6
案の定、帰宅しても父ちゃんと母ちゃんは何も言わなかった。ていうか、そもそもいなかった。おねえちゃんが死んだときに、お世話になった親類の人たちのところに行ってるみたい。
テーブルの上には、ラップで包まれた冷えた夕飯の支度。メモが添えてあって「あっためて」とぶっきらぼうに書いてあった。あっためてって言うなら、時間ぐらい書いとけよ。
ご飯を支度しといてくれたことに関して、感謝するどころか僕は毒づいた。いいんだ。だって、両親が悪いんだから。子供をほうっておくと、こんな嫌な性格になるんだよ。
自分の部屋に行って、スクールバッグを置いた。ポケットからウォークマンと携帯を取り出して机の上に置き、ネクタイを緩める。棚の一番下に突っ込んであるジャージを取り出した。
ヴー、ヴー、ヴー。
「?」
振り向くと、机の上で携帯が光っていた。誰だろ。父ちゃんとか母ちゃんかな。
ネクタイを外して、ワイシャツのボタンを片手で外しながら携帯の画面を覗き込んだ。
――――山河 亮
なんだ。亮か。なんか気が抜けた。
ワイシャツとズボンを脱ぎ捨てて、ジャージを着ると、携帯に手を伸ばした。メール一件。
『CD聞いた。やべーじゃん、これ超かっこいいんだけど。ウォークマンに入れたいけど今日は時間ねーから、返すの明後日でいい?』
律儀な奴。こんなこといちいちメールしなくてもいいのに。しかもまだ文章続いてる。
『そういやさ、リラ、また新曲出すらしい! 今度は「いつまでも変わらない幼なじみ」がテーマなんだって。先生、また恒例の嘘連発がスタートすんじゃね?』
すごい文面。先生が見たら苦笑いしかできないだろうな。それより、新曲かぁ。貯金足りるかな。友達に借金してでも欲しい…うわぁ、なんかここに来てやっといいことありそう! そう思ってると、まだ下に続いていることに気付いた。一番下に、追伸、と書かれている。首をかしげたまま、スクロールした。
『元気、でそう?』
僕の中で、その文は短いのに、驚くほどしらけた。
…どういう意味?
下に進めようとボタンを押すけど、もうこの先はないみたいだった。何、元気でそう?、って。これじゃまるで、僕の元気がなかったみたいじゃないか。
返信に困って、僕はとりあえず携帯を部屋に放置して出た。廊下を挟んで向かい側が、おねえちゃんの部屋。
…今なら、入っても怒られないかも。
ふいに思った。別におねえちゃんの部屋を勝手に物色したいわけじゃないけど、父ちゃんと母ちゃんが、まだおねえちゃんが死んだことを認めたくないみたいで、この部屋の出入りは禁止状態だった。誰も、おねえちゃんが死んでから入っていない。
ドアを開けて、覗き込んでみた。そして、驚く。ポスターとか貼ってあるのを想像してたんだけど、何も貼ってない。机に綺麗に教科書とかが並べられてるだけだ。棚も、参考書こそちょっと入ってるけどスカスカで、やけにすっきりしてて、部屋自体に生活感がない。部屋に足を踏み入れて、ゴミ箱に近づいてみた。その中には、驚くほど沢山の、薬の袋が入っていた。ゾッとした。今更、思った。
おねえちゃん、病気だったんだ。
もう一度部屋の中で視線を巡らせてみて、目にとまったものがある。引き出しの端から出ているのは、星の形をしたキーホルダー。記憶が正しければ、僕のなのに、おねえちゃんが「僕のセンスの悪さを公表する」って理由で僕から横取りしたものだった。
引き出しを開けてみると、予想外のものが僕の目に飛び込んできた。
「なんだこれ」
思わず、声を出す。そこには、白い便箋。で、そこにデカデカと、『ハズレ。バーカ。』と書いてあった。
見間違うはずがない。文字の形なんて知ったことないけど、こんな憎たらしい言葉、おねえちゃん以外に書けるはずがない。
「……は?」
便箋をとって裏を見ると、「ヒント」と書かれている。たった一文。
『ヒロと仲良くしてたとき』
「……はいぃ?」
仲良くしてたとき? そんな瞬間ありましたっけ!?
僕は曖昧な記憶を辿るけど、何せ大喧嘩の連続連続。あいにく、おねえちゃんとまともに喋った思い出がなかった。
暫くそこで考え込んでたんだけど、僕は途中で、首を振った。
あほらし。なんで、死んでまでおねえちゃんの悪ふざけに付き合わなきゃいけないんだ。興味本位で部屋に入った僕が馬鹿だった。
便箋を引き出しの中に戻して、キーホルダーだけは返してもらって、おねえちゃんの部屋をあとにした。
その後、すぐに夕飯を食べて、お風呂入って、ネットサーフィンして、寝た。メールは覚えていたけど、やっぱりどう返せばいいのか分からなくて、僕は返信することを諦めた。
7
昨日の夜、遅くまでネットサーフィンしてたのが効いた。眠くて眠くて仕方が無い。授業を受けていても頭に何も入ってこなくて、大半は寝ているような状態だった。
「テスト終わったからってはっちゃけすぎなんじゃ?」
亮に呆れ顔で言われた。何故か、僕がメールを返信しなかったことに関しては、何も触れてこなかった。
そうそう、眠そうな奴といえばもう一人。普段から授業はよく寝る奴なんだけど、休み時間も寝続けているのは、こうすけ。
「ボス戦が……思いのほか……強くて……」
またゲームか、と亮が突っ込むのを夢うつつで聞きながら、僕もボーッとする。はやく帰りのHR、始まんないかなぁ…。今日はとっとと帰って寝ちゃおう。どうせ両親、またいないだろうし…。そのとき、視界に何かが舞い込んできて、つい身体を震わせて反応してしまった。
「お、スマン。驚いたか?」
「…なんですか」
先生を見上げると、何かを目の前でユラユラ揺らし始めた。黄緑色の謎の物体…。
「…え、嘘」
僕はがばりと起き上がった。目を擦る。
そこには、黄緑色の折り鶴がいた。全身セロハンテープでコーティングされていて、なんか普通の折り鶴よりだいぶいかついことになってるけど、これってつまり。
「…繋ぎ合わせて、折り直したんですか?」
「苦労した。徹夜だよ」
先生は苦笑してみせた。その目の下には、うっすらと隈が見える。この人何に時間かけてるんだ…。
「何だってこんなめんどくさいことを…」
僕の声には、最早呆れといったものが滲んでいた。
「だって」
肩を竦めた。
「これを見てるときのお前、なんか穏やかだったから」
………穏やか? 僕が? 折り鶴なんかで?
たしかに昨日、ブランコにのりながら眺めてはいたけど、そんな穏やかな顔をしていたつもりなんてないよ。
「そういえば」
横から声が飛んでくる。
「ヒロ、鶴折ってるとき、すげえ楽しそうだったよな?」
「え? そうなの?」
亮にまで、そんなことを言われるとは思わなかった。ましてや無意識なもんだから、自覚できない。
「ああ、あのとき、そんなことしてたんだ」
こうすけが大欠伸をかきながら僕を見る。
「ずっと何ともいえないカオしてたけど、さとるから解放されて見にいったら、たしかに楽しそうだった」
……いや、みんな。揃って何言ってるの?
別に僕、趣味が折り紙とかじゃないし、得意ってわけでもないよ。
机の上に置かれた、セロハンテープだらけの折り鶴をつまみあげて眺めた。羽の裏に、文字が書いてある。
『忘れ物』
明らかに先生の字だ。
「ああ、そこ、何となく書きたくなってな。俺が頑張った証!」
「うわー、むかつくな」
「山河、傷つくからやめてな?」
…あれ?
何か、頭を過ぎるものがあった。なんだろう? 文字がなんか違う気がするんだけど、ここに文字書く人、前にもどこかに…。
『****』
簡単な四文字を、折り鶴の羽に、必死に書いたような。ってことは、ここに文字書く人って、僕? …おかしいな。他にも誰かいたような気がするんだけど。
僕と…僕と……、
「………そーだ。そーだ…!」
目を見開いて頷き始めた僕に、亮もこうすけも先生も、呆気にとられているみたいだった。
帰って寝るっていう予定、変更しよ。
8
僕は家に帰りつくと、わき目もふらずに、鞄を持ったままおねえちゃんの部屋へと駆け込んだ。鞄を適当におろして、おねえちゃんの机の引き出しへ一直線。あけると、やっぱりまた、『ハズレ。バーカ。』の文字が目に入る。はいはい、馬鹿ですみませんでした。便箋の裏を見ると、やっぱり『ヒロと仲良くしてたとき』。…これって、きっと、アレだよね?
僕は机の一番下の引き出しを引っ張った。現れたのは大きなファイル。その中には、色とりどりの折り紙が入っていた。躊躇わずファイルを開けて、折り紙を取り出す。
あれほど、おねえちゃんの死に関して無関心だったのに、今はおかしいくらい夢中になっていた。確信していた。
おねえちゃんは僕に、何かを遺した。
何を根拠に、って言われると分からないけど、少なくともそういうことでないと、おねえちゃんが「うざくてたまらない弟の僕」から、わざわざキーホルダーを横取りしていく理由が見つからない。
引き出しからぶら下がってるのをみて、僕がすぐに気付く。いわば目印。きっとそのため。おねえちゃんのことだから、きっと死んだ後、僕が勝手に部屋に入ることは想定していたのだろう。僕が好奇心の塊っていうのはさすがに知ってたし。
重なっている折り紙の中から、何かが落ちた。一枚のハガキだった。
『アタリ。遅い』
何故いちいちカチンとくる言葉を並べるんだ…。
そこはまぁグッとこらえて、僕はハガキをまたひっくり返した。後ろに、折り鶴が両面テープか何かでくっつけてある。ずっと他の大量の折り紙の圧力を受けていたせいで、折り鶴はぺちゃんこだった。潰れた羽をめくってみた。
『詳細は中』
………。どうしてもおねえちゃんは、僕に苦労させたいらしい。
こんなぺちゃんこで片方の羽はハガキに固定されて、それでこの折り鶴を最初の折り紙状態に戻せと。そういうことね。ほぼ百パーセント破れるけど、仕方ないと僕は意を決して指に力をこめる。
ビリッ。
…ああ、うん。まぁね。こうなるよね。うん。仕方ない。
結局、ほとんどビリビリ破きながら、だけど散り散りにはならないように心掛けて、無理矢理折り鶴を開いた。折り紙のその裏には、長い文がびっしり。言うまでもなく、手紙だと気付いた。そして、
『To.ヒロ』
…僕宛である、ということも。
まわりに折り紙が散乱して、しかもおねえちゃんの部屋で、なんて、きっと父ちゃんと母ちゃんが見たら僕を嘆くに違いない。いつ帰ってくるかわからないけど。でも、今帰ってきてしまったら、それはそれでいいやと思った。何より、このおねえちゃんの部屋で、僕はこの文章を読みたいと思えた。
『これを読んでるってことは、あんた、勝手にあたしの部屋に入ったんだよね』
…いや、はい。まぁ、そうですけど。普通ここはあたしはもうそこにいないんですね≠ニか、そっち系じゃないの。そういう感動があるとこじゃないの。ドラマと現実の違いにガッカリしながら、僕は文章を読み進める。
『でもまぁ、今回はいいです。許したげる。生きてたら絶対許してないけど、今回だけね。特別。ヒロがみつけてくれたなら問題ないし。ヒロでない誰かがこれを読んでしまってるなら、是非元通りにしといてください。しないと呪います』
性悪女。
もう苦笑するしかないな。
『では、弟のヒロ。訊きます。あたしは、あんたにとってどういう存在でしたか』
最低の姉でした。文句なしの。
『少なくとも、プラス面はゼロだったと思います』
はい、その通りです。
『そこで、あたしにとってヒロがどんな存在だったかっていうと、やっぱり、最低の弟でした。すぐに反論するし』
それはあんたが僕を挑発するようなこと言うからだろ。
『だけど』
そのあとの文面は、少し文字が滲んでいた。なんか、水滴を受けたあとのような文字だ。
『あたしはあんたが大好きでした』
……、
頭、大丈夫か。この人。いや、この人っていうか、おねえちゃん。
『父さんと母さんは、あたしが心臓を患っているってことで、いつもついてくれました。病院の人も優しかったです。友達も沢山心配してくれました』
そうだろうね。それは僕もよく思ったよ。だから僕はいつも端にいるだけだったんだ。みんな、おねえちゃんしか見ていなかったから。
『それはもう恵まれてたんだろうね。でも結構、最悪だったよ』
なにそれ。色んな人に心配されて、囲まれて、その癖満足しなかったと? どこまで贅沢なんだ。
『ヒロ。知ってる? あたしが病気だってことを全く眼中にいれないで、普通に接してくれたの、あんただけだったんだよ』
………。
狐に、つままれる。それって、こういうときに使う諺かな…?
『こう言っちゃなんだけど、あんたと喧嘩してるときが一番、ああ、あたしって生きてるなあって。すごくよく思ってた』
…ちょっと、まって。
まってよ。そんなの、ずるい。おねえちゃん、一回もそんなこと言わなかったじゃないか。
『あんたとの喧嘩は、あたしの生きてる証明だったってくらい思ってる。…ちょっとクサい台詞だね(笑)』
何で? ねえ。何でこんなこと書いたの。おねえちゃん?
僕はおねえちゃんを憎んでた。嫌いだった。だっていつも喧嘩ばかりだったから。なのに、何で?
『ヒロはいつも、マジギレだったよね。それに関しては、本当にごめん。でも、あたしにできることなんてないから、ファイルの入っていた引き出しの、いっちばん底のところにある、オルゴールの中に、アレを入れておきました。あたしの大事なもの。よかったら、どーぞ。貰った後は好きにしてください。それじゃ、折り紙のスペースなくなってきたんで、これで。長文乱文失礼いたしましたー。 From.あんたの大嫌いな姉』
Fromのあとも名前を書かないところが、やっぱりひねくれてるな、と思った。
「アレって、何だよ…」
アレって言われても分からない。これくらい明記しろよ。あたしの大事なもの、ってヒントを添えるくらいならさ。
僕は引き出しに改めて向かうと、ファイルのあった場所のさらに下のところに手を突っ込んだ。両手サイズくらいの箱があった。取り出して、目の前に置くと同時に開けた。
〜♪ 〜♪ 〜♪
曲が流れ始めた。そりゃそうだ。オルゴールだもんな。
(…『空も飛べるはず』、か)
胸を締め付けられる思いだった。
そして、その手前のスペースには、ボロボロの、薄汚れた白い…じゃなくて、罫線の入った折り鶴が入っていた。ルーズリーフの用紙で折った鶴みたい。一緒に入っているメッセージカードには、さっきの手紙と同じ字体で、
『ごめん。ありがとう』
広すぎるカードの中央で、呆れるほど小さく書いてあった。
なんで、こんなきったない折り鶴を、わざわざこんなに大事そうに入れてるんだろ。僕は、折り鶴を取り出した。と同時に、頭の中に光が差した。そうだ。僕、これをさがしてたんだ。
表情が強張る。唾を飲み込む。恐る恐る、ヨレヨレになった右の羽裏を、捲った。
『なかよし!』
不恰好な文字が、そこに佇んでいた。これは、僕の文字。ただ、まだこの頃は、「なかよし」という言葉の漢字すら知らないし、平仮名の覚えたて。ていうか多分、「なかよし」しか読めない程度。そんな時期に書いたもの。
「…馬鹿じゃん」
ねえ。おねえちゃん? ずっと、しまってたの。
ドクリ、と心臓が脈打った。体中が熱くなる。精神だけがタイムスリップしたみたいに、昔の光景がありありと目の前に展開される。
『おねえちゃん、あそぼ!』
無邪気に言うのは、小さな僕。ここ、病室…?
『遊ぼって…何もないじゃん』
変わらない、やっぱり素っ気無いおねえちゃん。だけど、何だか優しそうで。
『あそぼーよー!』
僕が、喚く。すると、おねえちゃんは困ったようにちょっと笑って、傍らの小さなテーブルに置いてあったルーズリーフの用紙を一枚取り出した。
『じゃ、これで遊ぼうか』
『それで、どうやってあそぶの?』
『こうする』
おねえちゃんは、ルーズリーフの用紙を丁寧に折ると、正方形になるように切り取った。僕は、それをジッと見つめてた。
『はい、折り紙の出来上がり』
『わー! すっごーい! おねえちゃん、どーぶつ!』
『動物ぅ…? …じゃ、』
おねえちゃんはルーズリーフの用紙で、折り紙を始めた。折り方を忘れたとか全くないみたいで、すぐにそれは鶴の姿に変わった。
『ヒロ。知ってる? 鶴って、ただの鳥じゃないんだよ』
『んー?』
おねえちゃんは、僕の小さな掌に、折り鶴をのせた。
『鶴はね、守り神なの。死んでしまった魂を、大きな羽で包んで慰めてくれて、また生れてくるときになったら、「また、長生きしようね」って。そうやって、この世界まで運んでくれるんだよ』
『へー! つるって、すごいんだねえ!』
よく分かりもしないのに、僕はおねえちゃんの話に大きく頷いた。そして、おねえちゃんの作ってくれた折り鶴を見てて、また尋ねた。
『おねえちゃん、このせん、なんなの?』
僕が訊いたのは、多分、罫線のこと。
『元々これ、折り紙じゃないから。文字書く時のためのものだよ』
『じゃあ、ここに、かこうよ!』
『え? 文字を? でも、あんた書けないじゃん』
僕は、すっごくにんまり笑ったんだと思う。
得意気に、「なかよし」って、いびつな文字で書いた。
『平仮名…覚えたの?』
『へへー!』
まだ、これしか書けなかった。でも、きっとこの文字だけは書けたのは、この言葉しか書けなかったのは、僕の精一杯の、おねえちゃんへの応援。いずれ、この感情は薄れてしまうのだけど。
『…仲良し、ね。じゃあ、あたしは…』
おねえちゃんが、なんて書いていたのかは、全く覚えていない。
当時は、僕は「なかよし」の四文字しか、読めないし書けない。だから、おねえちゃんの書いたものが、きっと分からなかったんだ。なのに、どうして僕、左の羽裏を見るのが、こんなに怖いんだろう。
僕は、左の羽裏を、捲った。
丸文字で書かれた、短い言葉。やっぱりおねえちゃんの字体もすごく幼かったけど、僕ほどじゃなかった。
『ずっと、いっしょ。』
視界が歪んだ。鼻水が垂れた。目から水が出てきた。息が苦しくなった。
切ない祈り。だって、このとき、おねえちゃんは既に心臓の悪さをよく分かってるはずだから。長生きできないって、わかってたはずだから。
なんだよ。畜生。なんでこんなこと書いたんだよ…。
「ずっと一緒って、あんた、死んでるよ」
呟かないではいられなかった。嗚咽が漏れた。涙が止まらない。
そうだよ。おねえちゃんは、死んだんだ。
亮に「元気、でそう?」とメールを貰った理由も、こうすけにあんなふうに溜息をつかれた理由も、先生に「かわいそうなカオ」と言われた理由も、全部同じ。僕より先に、彼等が気付いていただけだった。
僕はずっと、きっと、泣くのを我慢していたんだ。
おねえちゃんがいない。それがどういうことなのか、僕はわかっていなかったんだ。ほら、その証拠に、死んだって気付いたら、涙が止まらなくなってるよ。
答えなくちゃ。
そう思った。死んでも僕に、こんな大事なものをくれたんだ。ずっと僕は一方的に、嫌っていたのに、おねえちゃんは僕をずっと、弟だと思っていてくれたんだ。
じゃあ、僕と姉は家族じゃないですね。
ただ、血がつながってるだけだ
姉が死んでも、全然悲しくなかったんです、僕
僕は、馬鹿だ。どうしようもないクソ野朗だ。
僕は涙を拭きながら、おねえちゃんのファイルに入ってる、折り紙をランダムに取り出した。裏にして、机の上において、シャープペンシルを走らせた。
9
僕が来たのは川原。昨日、兄妹がキャッチボールをしていたところだ。
川原に無言で突っ立って、息を吐き出した。
どうしたらいいかな、と考えていた。
僕が持っているのは、一つのオレンジ色の折り鶴。
死んだ人に手紙を送る場合、どうしたらいいんだろ。
ポストに入れようとはさすがに思わなかったけど、かといって死んだ人宛の手紙なんて届けてくれる人いないよね…。最初は仏壇に供えようかと思ったんだけど、折り鶴の色をミスしたっていうか、なんか黒にオレンジって際立ちすぎて怖かったからやめた。亮やこうすけにメールしてみようかと思ったけど、さすがに二人にも「どうした」って本気で心配されそうだし、そもそもあの二人が死んだ人宛の手紙の届け方を知っているとは思えなかった。
(なにやってんだ、僕)
勢いだけで動いてどーすんの…。
普段ドライの僕は、正直現時点の自分の動きに、僕自身戸惑っている。
夕日を受けた川は、紅茶みたいな色一色で、時折思い出したように煌いた。
「あ、先客」
突然声が聞こえ、振り向いた。いつものパターンなら先生の登場だけど、今回は女性の声だったから驚いた。
帽子を被ってサングラスをかけた、女の人だった。零れる髪はキャラメルみたいな色をしていて、サラサラしている。
「珍しいね。中学生ってこういうところ来るんだ」
「はあ…」
初対面なのによくしゃべる人だ。
その人は、口許にかすかに笑みを浮かべて、ズボンが汚れることも構わずそこに座った。手を後ろについて、天を仰ぐ。
「死んだ人でも悼みに来た?」
問われて、ドキリとした。
「なんでですか」
「いや、あたしがそうだからさ。何となく」
はは、と笑う。…あれ、この人の笑い方、どこかで見たことあるような気がする…。
「白い光の中に 山なみは萌えて=c♪」
女の人がそう小声で歌い始めたのを聞いて、僕はハッとし、彼女を凝視した。
その視線に気付いたか、その人はちょっとサングラスを下げて、悪戯っぽく目尻を緩めた。
「お、その反応は、あたしのファンかな?」
「……リラさん、ですか?」
声が上擦る。
「正解。君の中学の先輩・リラさんだよ」
びっくりした。大ファンの歌手にこんなところで会うなんて、普通思わない。世界が違う人だとずっと思ってた。
リラはクスクス笑うと、サングラスを外して、また天を仰いだ。
「遥かな空の果てまでも 君は飛び立つ=c♪」
僕の方を見て、リラは悲しそうな顔で言った。
「あたしね、本当に時間があるときだけ、ここでこうやって歌うんだ。ロップのために」
「ろっぷ…?」
「そ。あたしの、家族。飼ってた犬ね。あんまり周りに漏らしてないから知ってる人少ないけど、あの子がこの川に落ちて死んだとき、大荒れでね」
…なんで僕、知ってる気がするんだ? 雑誌? でも雑誌なんて滅多に読まないし…リラ情報って言っても何かに書いてあったとか覚えないし…。
『だーかーら! リラと同じカオしてんだよ! あいつの飼い犬が死んだときと! めんどくせぇなもう!!』
……ん? あれ?
「ロップ、死んじゃったけど、あたしが歌うとよく、目を細めて聴いてくれてね。だから…ここに来て、時々聞かせてあげるんだ」
リラ、ごめん。今僕の中で、ある人物の凄いことが解明された気がしてて、ちょっと動揺してます…。
「それで、君は? どうしてここにいるの?」
訊かれて、我に返る。
「おねえちゃんに、手紙を…」
「へえ。お姉さんか。ここに来るんだね?」
なんで僕、誤解招くような言い方するんだろ。
黙って、首を横に振った。来るわけ無いよ。死んじゃったんだもん。
リラは暫く僕を見つめていたけど、なるほど、と頷いた。
「あいつなら、かわいそうな顔してるって、言うんだろうな」
一人、呟いていた。それに対し、僕はちょっと鼻を鳴らしてから、
「はい。言われました」
そう答えた。そうすると、また、リラはクスクス笑った。
「ってことは、智弥は本当に先生になってるわけだ? 面白っ」
智弥、だって。すごく親しげに、かつ自然体にこの人は、先生の名前を口にした。
先生、デマつおか≠ネんてあだ名つけてごめん。生徒代表で謝るよ。ひっそりと、心の中で。
「手紙、いいんじゃない。お姉さん、きっと喜ぶよ」
土を払いながら、リラは立ち上がった。
「でも」
シー、とリラは唇の前に人差し指を立てた。
「だいじょーぶ。考えなくていーの。その気になればできないことなんて、ほとんどないんだよ」
はにかむように微笑んだ。
「って、あたしは君たちの先生に教えてもらったよ」
リラはサングラスをかけなおして、踵を返す。
「智弥によろしく」
ひらりと手を振ると、小走りでそこからいなくなってしまった。夢みたいな状況にいたんだな、と僕はそのときに思った。
それでも、やっぱり思った以上に気持ちが昂らないのは、言うまでもなくおねえちゃんのことがあるから。
掌の上にある、オレンジ色の折り鶴を見下ろした。
これは、ここにあるべきものじゃない。あっちに行った、おねえちゃんの手にないと、意味がないものなんだ。
『その気になればできないことなんて、ほとんどないんだよ』
本当に? 死んだ人に、手紙を届けることも?
でも、どうしたらいいんだよ。その気になるって。絶対に届けるぞーって? だとしたら、それって僕も死ぬくらいしか、道がないんじゃないの。
「わ、馬鹿!」
「やだ! りこが持つんだもん!」
「りこには重いよ! あたしが持つの!」
「二人ともそれ無理だって! 俺とこうすけで持つ!」
「は? 俺!? なおきにもたせりゃいいだろ!?」
「………」
「なおきくん、俺巻き込まれただけだから。無言で指差さないで。てかここに大人いるんだから先生に頼めば」
「俺通行人だから。たまたま鉢合わせただけだからな?」
豪く騒がしくて、僕は顔を上げた。川原の一番近くの道路を、大家族が歩いている…って、辰也さんも今回いるっていうか、なんで亮と先生までいるんだ? 色々買ってきたみたいで、みんな両手一杯のスーパーの袋。そういえば今日特売日だったっけ。どうやらその荷物を誰が持つかっていうのでもめてるみたいで、全然足が進んでないのに家族内(プラス亮と先生)だけでゴチャゴチャしてる。
「あああ〜〜!」
絶望に直面したみたいな声が響く。遠目でも、スーパーの袋が破けて、中のものをぶちまけてしまったのが見えた。
「…アホだ、あいつら」
手伝うしかないと思って、僕は歩き出そうとして、考える。きっと手伝ったりしてると、この折り鶴、潰れるよなぁ…。ポケットいれたらつぶれるし、注意深く手にのせてても、あのスーパーのものを回収したりしてるうちに握りつぶしそうで怖い。かと言って彼等の誰かに預けたら、それはそれでわざと潰しそうだからまた怖い。
(…おいてこ。ちょっとだし)
風も強くないし、どこかに飛んでっちゃうって心配も不要だ。僕は、折り鶴をそこに置いて、亮たちの方へと駆け出した。その途中、一瞬振り返ってみたけど、折り鶴のオレンジは笑っちゃうほど目立っていたから、ちゃんとあるっていうのは遠くからでも確認できると思って、内心ホッとした。
「あれ、ヒロじゃん」
「何でこんなとこいんだ?」
転がっていく玉葱を拾いながら、亮とこうすけが不思議そうな顔をした。
「ちょっとね。っていうか野菜系多くない? 派手にぶちまけたなぁ…」
林檎を抱えながら、辰也さんが近づいてくる。
「やあ、ヒロくん。久しぶり」
「ご無沙汰してます」
「いやぁ、ごめんね、いきなり拾ってもらっちゃって」
ニコー、と笑う辰也さんに、さとるさんが凄くげんなりしたカオで言った。
「…辰也。足元」
「え? …ああっ! もやしが!」
やっぱりこの人、なんか抜けてる。
一通り全部かき集めて、破けた袋はどうしようもないから、半分くらいはみんなが両手でその物自体を持つような状況になった。
「はあ、やーっと終わった。もー、辰也ったらー!」
「ぶっちゃけ、今回はあやにも非はあったぞ…」
辰也が苦笑した。
僕は、最後に先生に目を向けた。
「さっき、先生の幼なじみに会いました」
「え?」
「いい人でした。いいことも色々、教えてもらいました」
首をかしげていたが、合点がいったように先生は笑い、頷いた。
あれだけ荷物があるとどうしようもないからって、結局亮も先生も手伝って、彼等は『くずれ屋』へと帰っていった。僕はというと、やっぱり自分の本当の目的が果たせない限りは帰れないからね。色々理由をつけて、あの大家族から逃れて―――……
「…あれ?」
呆けたと同時に、焦る。川原の方に目をやってみたら、オレンジという色が視界に入ってこなかったから。
(やば、なくなってる!)
一体いつの間に!
風が吹いた? 気付かなかったけど、もしかしてそれで川に落ちちゃったとか? 嫌な予感を抱きながら、僕は折り鶴を置いていたところに大急ぎで戻って、また、びっくりした。
「……何これ」
僕には身に覚えのないものが、代わりにそこにあった。折り鶴だ。折り鶴といっても、オレンジ色の折り紙で折られた鶴じゃなくて…。
つ、と。涙が、頬を伝った。
「おねえちゃん……」
僕は、こんなに綺麗に、鶴、折れないよ。
つい、苦笑いをした。
オレンジ色の折り鶴はどこにもなくって、そこにあったのは、不器用な僕が作った変な形の折り鶴なんかじゃなくって、薬の袋で折られた鶴。あの人、なんでもかんでも折り紙にしちゃうんだな。入院の間に、癖でもついたのかな。
オレンジ色の折り鶴は、もう、ここにはない。
『おねえちゃんへ――――』
それは、折り鶴が起こした、最後の奇跡。
fin.
文芸部最後の提出作品です。
そして、最後だから、という理由で、今まで自分が書いてきたキャラクター全部出そうぜみたいなよく分からないノリになり、こんな作品になりました。例えば、「『君』の番」で出て来る寄せ集め家族も出てますし、「死んだ『兄貴』と元気な『俺』」で登場する血の繋がら兄妹も登場してます。他に、亮は「山河亮」で、「貴族娘の脱走物語」の山河家の子孫にあたります。松岡先生とリラは、最初の文芸部提出作品「私の歌は永遠に響く」で登場した幼馴染同士。また、「おねえちゃん」が通っていた学校は、実は色々なキャラクターが通っていた学校と同じだったりします。血の繋がらない兄妹と同じ学校です。
こんな感じであれこれ繋げてぶちこんで無理矢理オムニバス形式にした結果、なかなかにややこしい状態となりました。
そして唯一、大学の先輩とかにも読んで貰った作品がこれです。高校時代でも先生方に概ね好評で、自分の中でも今のところ一番うまく書けた作品だと自画自賛しております。もっと高見を目指したいところ…!