私の歌は永遠に響く

トト | update : 2010.5.4
歌を歌うことで自分を癒す。でもそれは自分ではなく、幼馴染が見つけてくれた癒し方。


 
 白い光の中に 山なみは萌えて
 遥かな空の果てまでも 君は飛び立つ


          ☆


 マイクの調子がおかしいと言われた。今日は歌番組「sing song song」の収録で、二時間後には始まる。
「すまないね、莉羅ちゃん。きっと直るから」
 ディレクターの言葉に、莉羅は頷いた。彼女のマイクだけが、音を上手く録ってくれないのだった。幸い、莉羅の出番は番組の終わり。エピローグに、来週発売のシングルCDの曲を歌うのだ。
「少し風にあたってきます」
 そういい残して、莉羅は帽子を被り、カーディガンを羽織って、外に出て行った。
 外の風は、冬の名残か、少々冷たい。しかし、周囲に目をやれば、春を感じさせる桜が満開であるのが分かった。近辺の公園に入り、ベンチに座る。瞳を閉じ、懐かしい曲の数々を思い出す。悲しい曲、幸せな曲、切ない曲、楽しい曲、元気な曲…。そんな中から、一つだけ引きずり出して、小さく口ずさむ。

          ☆

 飼っていた犬・ロップが急死した。というのも、散歩の途中、河に落ちてしまったのだ。莉羅が生まれたときから、ずっと一緒に育ってきた友達、そして家族だった。
 泣きの涙で、翌日登校した。当たり前ながら、赤く腫れあがった目に、クラスの誰もが唖然としていた。
「ど、どうしたの!? 莉羅!!」
 愛子が彼女に駆け寄った。「なんでもない」と、莉羅はまともに愛子を見ようとはしなかった。その後も、愛子同様に、何人かの友達が莉羅に近寄ったが、とうの莉羅はあまり相手にしない。
「目ぇ酷ぇぞ。冷やして来いよ」
 智(とも)弥(や)にも言われたが、莉羅の耳には、彼の言葉も届かなかった。授業態度もおかしかったために、担任にまで呼び出されたが、やはりこれも「なんでもない」の一点張りだった。
 下校後は、自室に籠もった。周りに誰もいないので、ここでは気を遣う必要がない。そう思うと、また涙がポロポロと零れ始めた。
「なんで……なんで……なんでぇ……」
 帰宅しても、ロップは出迎えてくれなかった。当たり前である。今は冷たくなって、毛布に包まれ、ダンボール箱に入れられているのだから。
 ふいに、携帯が鳴った。着信音だ。フラフラしながらも、徐に携帯に手を伸ばし、でてみる。
「もしもし…」
『あ、もしもし? 愛子だけど……』
「うん…」
『莉羅、どうしたの? 言ってくれないと、分かんないよ』
 プチッ。
 莉羅は携帯を切った。言いたくない。言うと、ロップがいないことが、再確認できちゃう。嫌だよ、そんなの。現実を直視したくなくて、その後の携帯の着信には、一切応答しなかった。愛子は勿論、それ以外の友達も。

 複雑な、重い心をもったまま、莉羅は公立高校の受験に成功した。そもそも、本来のレベルよりも随分下げたのだ。更に、定員割れをしていたので、入れないはずが無かった。
 残りは三週間弱。それで中学を卒業する。
 あれから、愛子を含む大半の友達は、莉羅に話しかけてこなくなった。話しかけてくることもあるが、それも必要最低限の会話で終わる。
 卒業式で歌う、「旅立ちの日に」を三学年全クラスで練習していたら、先生に叱られた。
「篠田! さっきから、歌ってないだろう?」
「…歌ってますよ」
 うんざりする。歌ってもロップは戻ってこない。
「嘘をつくな! 口が開いてないじゃないか!!」
 はぁ、とわざとらしく溜息を吐いた。
「…………すいません」
 渋々ながらも謝る。そのことに心底苛立ちつつも、先生は歌の指導に戻った。再び、「旅立ちの日に」の前奏が始まる。しかし、莉羅は、ロップの姿ばかりを、思い浮かべていた。

 莉羅は下校時も一人だった。周囲は友達と楽しげに会話を弾ませる生徒で溢れている。
 ――寂しくないといえば、嘘になる。しかし、家に帰ったところで、ロップがいないと思うと、楽しく会話をする気はそがれる。暗い奴だ、と彼女は自嘲気味に笑った。
「おっせーの」
 声が聞こえ、ふと顔を上げた。
 ――智弥…?
「歩くの遅すぎ。お前は亀かよ?」
 いつものように、憎まれ口を叩く。ヘラッと笑っている彼は、不思議と安心する雰囲気を醸し出す。それは今だけに限らず、小学生のときから、ずっとだった。智弥は近づいてくると、とたんにつまらなさそうな顔をする。
「………何」
 結構な期間、他人と――両親も含む――会話をしていないが故に、知らず知らずのうちに棘のある声になる。
「お前さ、馬鹿?」
「はぁ? あんたにだけは言われたくないんですけど」
 智弥は偏差値が20あるかどうか怪しいような人間だ。苦手科目の英語においては、10に満ちない可能性がある。
 そういうことじゃなくて、と肩を竦めた。
「一人でうじうじうじうじ…」
「…………」
「うじうじうじうじうじうじうじうじうじうじ………」
 少しだけ、イライラしてきた。
「そーだよ。ずーっとうじうじしてるよ。悪い?」
「悪いから指摘してんだろ」
 声のトーンが下がる。智弥の機嫌が悪くなる時の特徴だ。こういうときだけ、莉羅は彼が恐かった。
「開き直ってんじゃねーよ。そこ、莉羅の悪い癖だよな。上がるのは学力ばっか。自分自身を変えようとは思わねぇ」
 だんだん口調が荒くなってきた。
 沈黙し、そして智弥の深い、深い、溜息が聞こえる。
「お前、歌うの好きな筈なのに、ぜーんぜん歌わねぇしさ…」
 余計なお世話だ、と思った。
 先ほどの口調とは異なり、今度は困った様子で言った。
「…分からねぇことはねぇよ? そりゃ…。お前、大好きだったもんな。ロップのこと」
 驚き、まじまじと智弥を見つめる。
「なんで……知ってるの…?」
 あぁ〜…、と、決まりが悪そうに頭を掻く。
「いや…その…昨日、お前ん家(ち)に行って…莉羅の母さんに聞いたんだよ」
 智弥が自分の家に来ていたなんて、知らなかった。そしてそれは、ある意味当たり前なのだ。莉羅はここ一ヶ月、自室に籠もってばかりなのだから。
 ふっと、莉羅は笑った。それは、今まで見てきたどんな顔よりも―――冷たかった。
「分からないことはない、か。そんなさぁ、ドラマみたいな台詞を聞かせるために、今日、私のことを待ってたわけ?」
 どうして、そのようにしか意味をとってくれないのだろう。以前の彼女であったなら、もっと好意的に解釈してくれただろうに。
 そこで智弥は思った。現時点で、莉羅のストレスが極限まで溜まっている状態だったなら? そのために、他人に優しくする余裕が失われているとしたら?
「智弥も、小さい頃、ロップと遊んだことあるよねぇ? お母さんから話聞いて、それでそんなヘラヘラしてられるんだ? 智弥は昨日、ロップの死を知ったのに、全然悲しくないわけだ?」
 視界が歪み、智弥の姿が霞む。やばい…、泣きそう。それでも彼女の口は、次から次へと言葉を発していった。

 途中から、言葉らしい言葉になっていたのかさえ怪しい。何を言ったのか記憶になかった。それくらい、とにかく思いつく限りの言葉を智弥にぶつけていった結果、莉羅の瞳は濡れた。最終的にその場に座り込んで、嗚咽を漏らすだけとなっていた。どういうわけか、智弥は何も言わない。まるで、自分の中に溜まるもの全てを、自分にぶつけろとでも言うかのように、ただ静かに莉羅を見つめる。
 それは、今の莉羅にとって、一番嬉しい、『優しさ』だった。

 しばらくして、ようやく顔を上げると、智弥がオレンジ色に染まっていた。どうやら随分時間が経ってしまったようで、太陽が大きく西に傾いている。
 智弥は莉羅の顔を覗き込むのをやめ、立ち上がった。そして、ゆっくりのペースで歩き始めた。慌てて莉羅も立ち上がり、後を追う。
「…………動揺はした」
 ぽつ、ぽつと、思い出すように言葉を紡ぐ。
「もう、ロップと遊べねぇのか、って思った。寂しいな、って思った」
 鴉が、智弥の代弁をするようにして、悲しく啼きながら電線を離れる。
「ちょっとだけ…お前に比べりゃ、マジ、ちょっとだけ…泣いた」
 莉羅の胸が痛んだ。智弥は呆れるほどポジティブ思考で、泣いた姿を見たことは、一度だってなかった。
 智弥は天を仰ぎ、横目で莉羅を見た。
「泣いて嘆いて考えて。すっきりしたか?」
「…………」
 ―――していない。
 だから今も、ロップの死を引きずっている。
「俺は馬鹿だから、今の莉羅の気持ち、ま〜ったく分からん!」
 大袈裟に手を広げる。そのついでに、「あーあ」と声を出す。伸びにしては声が大きく、わざとらしかった。
 それを、ポカン、とした様子で見つめる莉羅。彼女を見て、智弥は眉間に皺を寄せた。
「ほら。何やってんだ?」
「何が?」
「やれよ。俺に続いて」
 そして、先程よりも大声で、「あーあ」とまた声を出す。仕方なく、莉羅も小さい声で「あーあ」と言う。そこで彼は、眉間の皺を深める。
「小さい! もっとでかく!」
「あーあ」
「でかく!」
「あーあ!」
「でかくっつってんだろうが!!」
「あ――あ!!」
「で・か・く!! もっとできんだろ!!!」
「あ――――――あッ!!!」
 道行く人々が振り返る。そこで、一瞬にして莉羅は赤くなった。どうして智弥の命令に従っているのだろう。おかげで、まるで自分が「変な人」かのようになってしまっている。ムッとなって、赤面したまま彼を睨んだ。
「どう?」
「どう、じゃない。サイテー」
 今度は怒鳴り声が大きく出そうになり、ギリギリのところで声量を抑える。
「俺は気分を訊いてんだよ」
「最悪」
「何故だ」
 本当に、分からない、といった様子で尋ねてきた。こ、こいつ…!吐き捨てるように言った。
「あんたが私を変な人にしたからでしょ!!!」
 そこで智弥が、口許に笑みを浮かべた。自分の思惑通りになったときの顔だ。時々浮かべているから、分かる。そしてその顔は、いつも嬉しそう。ムカつくな、その得意気な感じ。
「へぇ? 俺はてっきり、ロップが死んだからだと思ってたけど?」
 やっと理解できた。彼は莉羅に、「ロップが死んだ」以外で、「気分が最悪である理由」を言わせたかったのだ。
 悔しいが、正直な気持ちを述べたところ、智弥の希望通りの回答となってしまった。
 はた、と気付く。一瞬だったが、悲しみを忘れられた…?
「簡単じゃん」
 ヘヘ、と笑う。智弥はよく笑う人間だ。
「お前、今、多少笑ってんもん。暗い顔してねーとは言えねーけど。そうやってさ、やり方なんてなんでもいいから、どっかで発散しろよ。わざわざ、人通りの多いところで、『あーあ』って叫べとは言わねーし。ターザンじゃねーんだから」
 しばしの沈黙があり、「じゃ」と手を挙げてみせると、踵を返して走って行った。莉羅は後を追わなかった。

 莉羅の机の周りには、愛子を初めとした友達が六人ほど集まっていた。愛子は苦笑しながら、莉羅の筆箱を勝手に漁る。女子の間では、このようなことは日常茶飯事である。
「もうさ、心配させないでよ〜莉羅〜」
「ごめん、愛子! 二割方回復したから、もう大丈夫」
「って、二割じゃ大丈夫じゃないでしょ」
 隣りでリップクリームを塗っていた友達に、すかさずつっこまれた。
 昨日の夕方までは、僅か一割も回復していなかったのである。一日弱で二割も回復したのは、実際のところ奇跡的だった。
「それで、なんで長いこと、あんな凹んでたわけ?」
 話しながら読めるものなのかと疑問を抱くが、その友達は、手に持つ本のページを捲りながら、尋ねた。そして、放たれた疑問は、なかなか大きい針となって、莉羅の心に突き刺さる。
「えっと…」口ごもる彼女を見て、友達は本を閉じる。
「言えないなら、いいから」
「うん。ごめん」
「よーす、莉羅!」
 女子が集まるところへ割り込んできたのは、智弥だった。小学生のときと変わらず、こういうときは突然、背後から莉羅に抱きついてくる。異性とのこれは、今では嫌とは感じる。が、彼は単に昔と同じように接したいだけなので、邪見にもできない。正確に言うと、いい加減慣れてしまった。
「まーた沈んでんぞ!!」
 智弥にいわれて気付く。きっと、友達の疑問に自然と表情が暗くなっていたのだろう。自分としては、自分の心の中でだけで傷ついているつもりだったが。
「やるか? 『あーあ』」
「誰がやるか!!」
 莉羅はわざとらしく嫌な顔をした。対して、智弥は相変わらずの笑顔だ。
 そこへ、智弥の友達の呼ぶ声が耳に入ってくる。
「じゃ、俺行くわ。いーか? 沈みかけたら『あーあ』な!」
 言うだけ言って、男子の輪へと戻っていく。莉羅の元へ行ったことを冷やかされているのか(抱きつくことはいつもなので、彼の友達もそれを冷やかすのは飽きたようだ)、智弥は何度もかぶりを振っていた。
 怪訝そうな瞳を莉羅に向け、愛子は首をかしげる。
「何? 『あーあ』って」
「なんでもない。ただの合言葉的なもの」
 例えが悪すぎたと、認めざるを得ない。
「えぇ!? 合言葉!? 松岡と!?」
「うっそ!! 莉羅、松岡とそんな関係になってたの!? ただの幼なじみじゃなかったの!?」
「違う違う違う!!! 誤解しないで!!? 今のは例えであって…」
 必死に前言を撤回しようとするが、女子というものは、どうしてか「恋バナ」というものに敏感に反応を示す。あぁもう、面倒臭い!!! 違うんだってば!!!
「おーい、そろそろ体育館に移動しろー。卒業式の練習始まるぞー」
 担任が教室に来て、そのように指示した。おかげで、変な方向に進展しかかった「恋バナ」は中止。助かった、有難う先生。莉羅はようやく、卒業式に気持ちを向けた。

 卒業式が一週間と迫り、莉羅の心の傷も、かなりの大部分が癒えてきた頃のこと。
 五・六時限目の卒業式練習が終わり、教室に戻ろうとしたとき、莉羅は担任に呼び出された。怒られるのだろうかと思ったが、それは大変な勘違いであった。
「綺麗だったぞ、声」
「………声?」
「あぁ。今日の『旅立ちの日に』の声、よく響いていた。今までの分を全て取り返すようだったな!」
「はあ…。ありがとうございます……」
 とりあえず、頭を下げておく。三年全体合唱の曲で、自分の声がそんなに際立っていたとは思えないのだが。そもそも、自分はこれを言われる為に呼び出されていたのか。
「本題だが…」
 ああ、本題がまだだったのか。一人、納得する。
「……自分で言えと、私は言ったんだが…」
「―――?」

 教室の戸を乱暴に開けると、大変大きい音が響く。クラス内全員が、一斉にこちらを向いた。
「あ、莉羅。おかえり〜」
 のんびりとした口調で、愛子が近寄る。そんな彼女に目もくれず、大急ぎで莉羅は教室中を見渡す。帰りの準備をする生徒達――。その中に、智弥はいなかった。トイレだろうか、と甘い考えにすがる自分がいたが、彼のスクールバッグは、忽然と消えていた。
「ねぇ、智弥は!?」
「へ? 松岡なら帰ったよ?」
「なんで!? まだ帰りのSHR(ショートホームルーム)、終わってな…」
「なんか用事あるから、六時限目終わった後、即帰ったって。男子の話じゃ、卒練の終盤に、既に体育館から出て行ったらしいし。なんで? なんか問題あったの?」
「大有りだよっ!!」
「何が?」
「…いや……掃除当番サボったの、ズルイなーと思って…」
「ええ、それだけぇ? 本当は、愛の告白とかしたかったんじゃないのー?」 
 からかってくる愛子を軽く流し、莉羅は口を固く結んだ。鈍器か何かで頭をガンと叩かれたような、この感じ。ロップが死んだときとよく似ている。そのまま呆然と教室の後ろで突っ立っていたら、やっと担任が教室にやってきた。ゆるゆると、SHRが始まる。いつもあっさり終わるSHRは、きっと今日もあっさり終わろうとしているのだろう。が、しかし、莉羅にとって今日のSHRは、異常なほど長く感じていた。
SHRが終わってすぐ、莉羅は教室を飛び出した。掃除当番はサボった。掃除なんてしてられない。走って、いつも智弥が帰る道を行く。当然ながら、彼の姿はどこにもない。迷うことはなかった。担任が言っていたのは本当なのか、それを確かめなければ。彼女は智弥の家へと向かい、躊躇わずインターホンを鳴らした。
「智弥?」
 声をかけてみる。しかしインターホンからの応えはない。どうやら誰も家にいないらしい。何故だ。一時間以上、彼の家の前で待ってみたが、誰も帰ってこない。彼女は諦めて、自宅へと足を進めた。明日、学校で智弥に直接訊いてみよう。

 次の日、智弥は学校に来なかった。本人の希望で、欠席理由は担任から明らかにされない。男子も心配していたけど、午前の授業が終わった辺りには、特に気にしていない様子であった。
 莉羅は、担任からと彼女のいる班の人達に怒られた。昨日掃除をサボったからだった。ただ、担任だけ、同情するような瞳を向けてきていたので、それで余計に莉羅は傷ついた。明日はきっと、智弥に全てを尋ねよう。そう決意する。
 そしてその決意は、裏切られた。智弥は学校に来なくなった。担任は全員に明らかにしなかったが、莉羅は無理矢理問いただした。結果、彼は学校をやめた――退学したことが判明した。あとわずか数日で卒業だというのにも関わらず、だ。それを聞く限りでも、担任の言ったことは真実だと突きつけられる。彼の机がガランとするようになって、莉羅の中学校生活終盤は、味気ないものとなっていった。

 卒業式まで三日になった。退学した智弥は学校に来ない。今日も来なかったし、どうせ明日も明後日も、卒業式当日も来ない。
 交差点に差し掛かり、「じゃあ、またね」と、愛子が言った。こないだからまた再び一緒に下校するようになったものの、莉羅の心はまだ、智弥のことで穏やかではなかった。ロップの死に続いて、このようなことが起きるなんて、今でも信じられない。名残惜しそうに愛子はまた、「またね」と繰り返した。考えてみれば、今日であと多くても三回しか、こうして下校はできないのだ。適当に、「うん、また」と返す。そこで、信号が点滅を始め、赤に変わる予兆を見せていた。愛子は慌てて渡り、丁度渡り終えたところで赤に変わる。こちらを振り返り、大きく手を振っていたので、小さく振り返した。大型トラックが交差点を走り、暫しの間、愛子の姿が見えなくなる。トラックがいなくなった頃には、既に人混みに紛れており、彼女は何処にも見られなかった。
 莉羅は足元に目線を落とし、家に向かって歩いた。少しだけ足が痛い。慣れない革靴を履いているせいだ。もしかしたら靴擦れしているかもしれない。
 早足で、公園の前を歩く。いつも子供が遊んでいるが、今日はいる感じがしない。帰る時間、ちょっと遅くなっちゃったかな。
 キィ、キィ、キィ…。
 錆びてしまい、滑りの悪そうなブランコの音が、耳に届く。あれ、小学生がいる? 顔を上げ、徐に公園内へと瞳を寄せた。
「!!!」
 あまりのことに、目を見開く。幻覚を見ているのではと自分を疑ったほどだ。ブランコに乗って、うなだれた様子でいるのは、莉羅の幼なじみ―――智弥だった。
 自分の足は、自然と公園の方へと向けられ、歩を進める。近くまで来ると、彼の表情がはっきりしてきた。笑顔が、ない。
「……莉羅? 何やってんだ、こんなところで」
「別に? 智弥こそ、何やってんの。学校にも来ないで」
 声を抑えたつもりが、震えの原因となる。大失敗。
「……退学したんだよ」
「知ってる。先生に無理矢理聞いた」
 驚いたような表情を見せた。莉羅に、そのことまで伝わっているというのは予想外だったのだろう。
「ねぇ、なんで? 何も、こんな急に退学することなんて」
「…聞いただろ、先生から。それのせいでゴタゴタしてんだ」
「……やっぱり、本当? 嘘じゃない?」
 嘘であって欲しい、嘘であると、悪戯だったと言ってくれ、という意味を込めて、尋ねてみた。しかし、そう都合よく行く筈もなく、
「担任通じて、こんだけ学校休んで、嘘なわけねーだろ」
 と言われた。
「でも……信じろって、言われても…。いきなり、退学とか、意味分かんないし…」
「っるせぇな…俺だって、初めは信じなかったさ。まさか卒業間近になって、L.A(ロサンゼルス)に行くことになるなんてな」
「…どうしてクラスの皆に言わないの? 皆、多少は心配してるよ?」
 視線を上げずに、
「もう卒業するからな。言わなくてもあと三日でみーんなバラバラだ。そんな奴らにいちいち言うもんでもねーだろ。大体、卒業直前であまり気持ちとか動揺させたくねーし」
 どうも、腑に落ちない。こなくなったと思えば、あっという間にあの学校の生徒でなくなったというのが、ある意味では許せなかった。
「退学なんて、早すぎるよ。卒業式くらい、出れないの?」
 キィ、と音を立て、ブランコを小さく揺らす。
「現実的に考えて、まず無理だろうな」
 容赦ない答えが返ってくる。現実は甘くない、と口にするドラマやゲームは多々見てきたが、今まさにその言葉が相応しいのではないかと思う。
「…いつから、退学、きまってたの」
「『あーあ』をやった前日から」
 つまり、担任から智弥について告げられた日の一昨日だ。
「ふぅん…。なんで直で言わないの。こんな大事なこと」
 智弥らしくない、と思った。あんな陽気で阿呆全開の彼が、わざわざ先生を通じて莉羅に伝えた事も含め――今の智弥の表情に、笑顔ないことまで、全て、だ。
 ふっ、と、智弥は悲しげに顔を歪めた。だが、それも一瞬のことで、拗ねたような様子で顔を背けた。
「信じないから、言わねー」
 こんなときまで、何を言っているんだ、この幼馴染は!?
「信じるよ!! こなときに嘘つくような人間じゃないでしょ!?」
「さぁ? どうだか」
 彼は遠くを見つめる。じっと見つめ続ける莉羅の視線に気付き、
「言うと泣くかもって思っただけだよ」
 言葉を零した。今の時点で、彼の瞳は小さく揺れていた。莉羅は何か言おうと口を開くが、結局一言も思いつかず、再び口を閉じるに至る。
 智弥はブランコから降りて、欠伸をした。多分わざとだ。涙
が瞳にたまるのを、見られたくなかったに違いない。
「あのさぁ! 莉羅、見つかった?」
 見つかった? 見つけようとしていた? ……何を?
「お前、まさか発散方法、『あーあ』のままじゃねーだろ?」
 たしかに、あの発散方法がなかなか良かったとはいえ、例え周りに誰もいなくとも、『あーあ』などと叫んでいれば、それは紛れもない「変な人」である。

 ―――お前、歌うの好きな筈なのに。
 ―――綺麗だったぞ、声

 …………歌。
 心の中で、何度も呟いてみる。
 歌、歌。歌を――……。
 果たしてこれは、自分に合う発散方法なのか。
「――歌」
 ぽつり、と呟く。実際に口で言ってみると、少しずつ、それこそが自分の発散方法なのだと思えてくる。
「歌を歌ってみる。辛かったりしたら、『あーあ』の代わりで。歌える曲は少ないけど…」
 くくっと智弥が笑った。堪えたけど堪え切れなかった時に出るような、変な笑い声だ。
「お前らしーよ。やっぱお前って昔っから『莉羅』だよな」
 智弥はひとしきり笑うと、息を吐く。そして莉羅に向き直った。
「んじゃ、俺、帰るわ」
「え、もう?」
「引越しの準備が終わってねーから」
「あのさ、……」
「…何?」
「………明日くらい、学校来ない?」
「来ない」
 即答されて、些か戸惑った。
「で、でも、明後日には…」
「ああ。明後日の今頃は、飛行機の中」
「じゃあ、どうして来ないのさ? 最後くらいさ…」
「俺だって行きてーよ」
 野良猫が公園を横切っていく。最近は野良が増えた。きっとどこかで仔猫が生まれて、多数捨てた家庭があるのだろう。
「でも、都合がわりーんだよ。色々と」
 莉羅に背を向け、歩き出すのかと思えば、
「歌ってくれね?」
 と、なんとも不思議な注文をしてきた。
「俺さ、今、すっげー辛いんだよね」
 あまり自分に向けて発せられているように感じない声だ。
「『あーあ』をやるにしても元気たらねーしー? 歌おうにも俺、下手だしー??」
 そんなこと言われても、と、莉羅はうろたえた。先ほどから自分はうろたえてばかりだ。歌えといわれても、突然のことなのでどうしたらいいのか分からない。大体、歌うことは大好きだが、上手いかどうかは話は別だ。自分の毒では死なないフグと同じように、自分が音痴だったとしても、自分にはほとんど理解できていないだろう。
「悪い!」
 智弥が叫ぶように言った。
「冗談だよ! じゃーな」
 冗談であるはずがなかった。先ほどの声、口調とは裏腹に、歌ってくれと懇願しているように感じた。彼はただ、莉羅が困っているのを見兼ねて、気を遣ってくれただけなのだ。
 足を進め始めたのを見て、あわてて彼の服裾を指先で掴んだ。
「い……」
 情けないが、全ての歌詞がしっかり分かるのは、これしかない。既に聞き飽きつつある、そんなものを口ずさもうか迷ったが、今こうして服裾にとりついても足を止めない彼を見る限り、そんな余裕はなさそうだ。
「今 別れの時 飛び立とう 未来信じて♪」
「……!」
 驚いたように足を止める。こちらも、もはや歌を止めることはできない。
「弾む 若い 力信じて♪ この広い この広い大空に♪」
 彼は瞳を閉じ、時々音が外れる歌を、背に聞いていた。


 長い卒業証書授与を終えた。ずっと自分の席に座り続けるのは、相当苦痛なものである。当たり前だが、「松岡智弥」という名は、卒業証書授与の際、呼ばれなかった。
「卒業生全体合唱『旅立ちの日に』。卒業生、起立」
 司会の言葉に従い、莉羅を含む卒業生は立ち上がった。既に涙を流す友達も見られたが、彼女はまだ、涙を流すわけにはいかない。これから、歌を歌うのだから。
 『旅立ちの日に』の前奏が始まる。いつも思うけれど、綺麗な曲だ。
「白い光の中に 山なみは萌えて♪」
 卒業生達の嗚咽が大きくなる。莉羅は堪えた。堪える代わりに、声がかれるほど大声で歌った。綺麗に歌えてはいないだろう。しかし今はそれでいい。悔いなく全力で歌えれば、それで―――。

 そして歌い終えた後、莉羅はとうとう号泣した。今までの楽しかった中学校生活に、別れを告げた実感。脳裏に蘇る、元気なロップの姿。智弥と過ごした、長い日々―――。

          ☆

 今、彼女はスポットライトの光を浴びている。手に握るマイク。心底、ぎりぎり直ってよかったと、ホッとする。
 前奏が始まった。この曲は馴染み深い曲だ。大好きな曲だ。とても綺麗な曲だ。ファンレターのリクエストに応えて、これを歌おうと決めていた。自分なりにアレンジを加えたが、本来の歌の姿はしっかり残っている。自分としても、この曲は大成功の作品だった。だからこの曲も、勿論本来の曲の姿も大好きだ。息を吸い込み、心をこめて声を出した。
 歌は光となって、全てに降りかかる。全てがキラキラしている。

 今でも歌うと思い出す。あの中学の日々を。かけがえのない友達と、かけがえのない幼馴染がいたことを。
 …智弥。今、何処にいますか? いつもそんなことを考えた。考えながら、歌っていた。まだL.A.にいるのですか? そう思っていた。でも、今は違う。会いたい、と思う。

 曲が終盤に近づいてきた。盛り上がってくるメロディ。それを裏切るようにして、全ての音がシンと静まる。莉羅の声だけが、響く。神秘的な印象を作り出す。そしてやがて、また盛り上がるメロディが返ってくる。
 あのファンレターがなかったら、きっとこれをこうして歌うことはなかっただろう。








『こんにちは。俺はリラさんの大ファンです。昔っから超ファンです。これからも頑張ってください。俺的に、旅立ちの日に≠、リラさんなりにアレンジして、歌ってみて欲しいッス。       匿名希望』








fin.



これは高校の文芸部に入って、最初に書いた作品でした。そして最初に部誌に載ったものです。冒頭にある歌詞は、多くの方がご存知の「旅立ちの日に」です。中学の卒業式で生徒全員で歌ったときに、ぼんやりと頭に浮かんでいた小説でした。が、当時のあとがきを見ても同じ様に書いてあるのですが、ベタ展開のオンパレードです。今読んでも吃驚する。

ただ、初めて文芸部部員という立場で書いた作品としては、当時の自分なりに頑張れたものでは?と思っています。
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