■ DIE?0
長身の男から数メートルの間隔で、ちょこちょことついて歩く子供がいる。その更に後ろには、異様な雰囲気の二人組が歩いており、何も無いこの世界において彼等は極端に目立った。
「ネ…ネル……?」
躊躇いがちに発せられた声だが、もう数え切れないほどの呼びかけである。
彼女は振り向かない。小さな足を、懸命に前に進めている。
しかし、前を行く男の足が止まると、ネルもピタリと止めた。
「……………」
彼はネルを尻目に、舌打ちをしてから再び歩を刻み始めた。
無論、少女の足も動き出す。
「一体いつまで、こうやってついて行くんでヤンスか?」
ドンドチャッカの問いに、ネルは答えない。
「なぁ、帰らないか? 楽しくないだろう?」
随分長いことこうしてきていて、初めて口にしてみた。二人としては、相手は子供といえども正真正銘のネリエル・トゥ・オーデルシュヴァンクの、かつて従属官(フラシオン)として仕えていた身だ。あまりネルの言動や行為を批判したくはなかった。
しかし、今、ついていっている相手は、限りなく恐ろしい彼である。寧ろ従属官として二人が不安になるのも、無理のない話だった。
ここでネルが頷いてくれれば、ホッと息をつけただろうに、彼女はペッシェの言葉に対し、首を横に振った。
「ネルは………十刃(エスパーダ)っス」
ギクリ、とペッシェとドンドチャッカが顔を強張らせる。一度、ネリエルの霊圧を感じたときから、ひょっとするとネルが元に戻ったかと思っていた。ただ、ネルを見つけた段界で、彼女は既に子供の状態だったので、どの程度まで記憶や能力を取り戻しているかは皆目見当がつかなかったのだ。ゆえに、突如としてこのような科白を吐かれては、動揺するしかなかった。
そして、彼女はわずかだが、記憶を取り戻していた。自らが、かつて十刃であったこと。ペッシェ・ガディーシェとドンドチャッカ・ビルスタンが、自分の従属官であったこと。ノイトラ・ジルガが常に自分につっかかり、それを軽くいなして説教じみたことを口にしていたこと。
ただし、思い出したのは本当にごく僅かだ。
そうした事実があった・という、その程度のことしかわからない。自分はノイトラに何を言ったのか、自分の番号は一体いくつだったのか。そもそも、自分の名がネル・トゥでないなら、本当の名は何だったのか、一切思い出すことはできていない。
時々、自分で思う。
目の前でノイトラが死んだとき、自分は無意識にも彼の名を呟いていた。それが悲しみを含んでいたのか、それとも嘲りか、はたまた別の感情か。記憶が戻っていて、意識もはっきりしている状態で、ノイトラが死んだのを見た時、自分は一体何を思うのだろう、と。
「だから俺についてきてんのか?」
鬱陶しそうな瞳で振り向いた。
「う…………ぅ……」
ネルは小さく震えた。彼の霊圧は、未だ大きく、重い。
「俺が十刃だから、一緒にいれば何かもっと思い出せるかもしれねぇ。そういうことだろ?」
「そそ…そんなんじゃ、ないっスよ………だ、だ、だって……あなたは、ネ、ネルを…助けてくれたっス…も、もし…ネルが、で、で、できる、ことが、あったら……したくて…」
何とも苦しい言い訳だ。
グリムジョー・ジャガージャックは、ネルを見据えたまま、口を開いた。
「じゃあ、とっとと消えろ。目障りなんだよ」
ネルに背を向け、歩き始めた。
しかし、グリムジョーの背を追って、ネルは再び歩き出す。ペッシェとドンドチャッカにしてみれば、これほど肝を冷やすことはない。相手はあのグリムジョーだ。いつ殺されてもおかしくはない。
グリムジョーは後悔していた。
死神達が虚圏を去って間もない頃、ネルが最下級大虚(ギリアン)に襲われているのを目にしたのだ。傷が癒えたので(彼は、ぎりぎりまで虚圏に残っていた井上織姫の舜盾六花によって大方治してもらっていたが、存分に動けるまで回復するのを待っていた)、その場を去ろうとした矢先のことだった。
彼自身、どうしてあのときネルを助けてしまったのかは分からない。考えるより先に身体が動いていた、といえば妥当なところか。
少なくとも、脳裏にあのオレンジ頭の死神が浮かんでいたことは否めない。
『こっちのセリフだ。動けねぇ奴になんで斬りかかってんだよ…!』
ノイトラに斬られかけたとき、あの死神は、自身もボロボロだったくせに迷わず自分を助けた。妙に、目に焼きついた。
あの死神に影響されたのだ。
もっと強くなりたい。でも、どう強くなればいいのか分からない。初めてこんな簡単なことで悩んだ。簡単に見えて、難しい問題だった。その一つの答えが、あの男。奴の、心だった。だが、彼は人間で、自分は虚。その間には、埋めることのできない穴がある。
初めてだったが、自分の弱さに呆れるばかりだった。
黒崎一護の姿がちらついて、どうしてもネルを殺せない自分がいるのは、冗談でも何でもなかったからだ。
また、足を止めた。後ろの気配も、止まる。
小さな霊圧の揺れ方で、またペッシェとドンドチャッカが狼狽しているのが分かった。
今の自分に、ネルを殺すことはできない。だが、鬱陶しいのも事実。
彼は絶対に殺さない。自分のことも殺さなかったくらいだ。ならば、彼だったらどうやって、この状態を打開する? 黒崎一護。あの死神は、多分、受け入れようと努力するだろう。相手がどのような者でも。認めた者なら、皆。
ならば、
「疲れた」
無造作に、言葉を投げてみる。
後ろの霊圧がすごい勢いで跳ね上がったので、相当驚いたのだろう。無理も無い。こちらから話しかけたことなど、こうして虚圏を当てもなく彷徨い始めてから、未だ嘗て一度もなかったのだから。
さぁ、自分がこう言った。彼等はどうする? 首だけを後ろに向けて、様子を窺った。
ネルがドンドチャッカの口から、戦闘用霊蟲のバワバワを出させているのを見た時は、さすがに吐き気がした。
「グ、グ、グリムジョー……様……」
震える拳を、握りなおす。
「……ば、バワバワに………」
重く、溜息を吐き出す。やはり人間と虚の感性は、違うのだろうか。
なんとかして追い抜きたい。そのためにも少しでも近づこうと思うのが、間違いなのだろうか。
「………乗らねぇぞ」
シュン、とネルは俯いてしまい、バワバワも低く鳴いた。
なんとか心を開いてみようか、と思ったのは本当だ。それでもし、強くなれるなら。ただ、グリムジョーは嫌だった。
あの、ドンドチャッカの口から出てきた生き物に乗るというのが、何となく。
* * *
尸魂界の時間は、いつもと同じように流れていた。
藍染との戦いから四年。当然ながら、瀞霊廷は完全に落ち着きを取り戻しており、以前どおりの日常である。
この四年の間に、色々なことが変化していた。
空席であった三番隊、五番隊、九番隊の隊長位には、それぞれ阿散井恋次、瑠璃谷夜光、檜佐木修兵がついていた。副隊長は、三番隊と五番隊は状態維持で吉良イヅルと雛森桃で、九番隊には朽木ルキアが入った。ちなみに、六番隊の副隊長は、それ相応の力を持つ死神が現れていないため、空席である。
瑠璃谷夜光は、二年前に新たに入ってきた死神だ。彼女は天才肌というよりも努力家で、ずっと七番隊の下級隊士であったが、藍染が反逆した際に裏でかなり奔走したため、六番隊六席に就任。そこから五番隊隊長の座にまで這い上がってきたのだ。
九番隊隊舎の一室で、ルキアは文机に向かい、書簡紙に筆を走らせていた。浮竹十四郎に書いているのだ。彼女は恋次達同様、虚圏での戦いが評価され、九番隊の副隊長位につくことになった。初めは義兄の六番隊隊長・朽木白哉が反対したが、さすがにあの戦いの後での意見は認められず、また一般隊士の階級を背負っていたルキアが昇進となるのは当然のことだった。
無論、席官ですらなかった彼女が副隊長になってからの忙しさは、尋常ではなかった。故に、十三番隊へ行く暇がなく、こうして書簡を送ることにしているのだ。
これを書き終えたら、ルキアはすぐに仕事に行かねばならなかった。忙しくも、これが今の日常だ。
やはり、ずっと、尸魂界の時間は、揺るぐことなく流れている。
バタバタと廊下から足音がしたので、ふと顔を上げる。筆を止めると同時に、襖が開けられた。檜佐木である。
「おお、いたか、朽木」
「檜佐木隊長…? どうされたのですか?」
ぽかんとしている彼女に、檜佐木は困った顔つきで頭を掻いた。
ルキアは、この時間帯だと彼が出版担当の一般隊士と共に、瀞霊廷通信のための原稿をチェックしているはずであることを知っている。
「いや、なんか、緊急隊首会らしくて、すぐに行かねぇといけなくてな」
「緊急隊首会……? …随分、久しぶりですね」
「そうだよな。ま、お前も頑張ってるし、そんな目立った異常事態はねぇし、きっと大したことじゃねぇさ。俺がいねぇ間、隊のこと任せていいか」
「分かりました」
言うと、檜佐木は瞬歩でその場を去った。
緊急隊首会など実に久方振りだった。藍染との戦い以降、緊急隊首会が行なわれたのは、因幡影浪佐の霊骸による事件が起きたときの一度、二度程度だ。ここのところ、そのような事件は起きていなかった。それだけに尸魂界の警備も厳重になったということなのだろう、現に隊長、副隊長、席官の仕事は四年前と比べてべらぼうに増えた。だから彼女は、現世へ派遣されることも全くなくなった。行くならば、もっと下級の隊士だ。
(……そういえば…)
ふと、死神代行・黒崎一護のことを思い出す。人間であるにも関わらず死神の力をもち、また虚の力ももっていた彼に、ルキアも尸魂界も、数え切れないほど幾度も救われた。そんな彼に、随分長いこと会っていない。否、一護は藍染と戦う際に用いた最後の月牙天衝“無月”により、死神の力はおろか、霊力を全て失っている。会うことは、出来ない。
あやつ、元気でやっておるのだろうな………。
溜息を吐き、再び筆を手にとって、書簡紙に最後の一文を書き添えると、丁寧に折り畳む。書簡を懐に入れると、小走りで部屋を出た。
廊下を歩いていると、少し遠くから、何やら懐かしい霊圧を感じることに気付いた。丁度自分の行く先の方だ。
角から姿を現したのは、四楓院夜一だった。
「夜一殿…!?」
心底驚いた様子で、ルキアが瞳を瞬かせる。
四年間、彼女が尸魂界に来たことはほとんど無く、相変わらず現世に身を落ち着けていたのだ。隠密機動に戻ってきてくれと二番隊隊長・砕蜂が初めの一年ほどはしばしば現世に出向いたが、結局最後まで頷かなかったと聞いていた。
長かった髪はバッサリと切られ、短くなっている。肩につくかつかないかの瀬戸際だ。
「お久しぶりです」
ルキアが頭を下げると、ウム、と頷く。
「お主も元気そうじゃな。それに九番隊の副隊長とは、昇進したのう」
「い、いえ」
躊躇いながら首を横に振る。
夜一の表情が、変化していないのだ。ずっと、妙に険しい顔つきで、ルキアのことを見つめている。
「あの………私に、用が…?」
「ああ」
ルキアは、髪を手で少しはらった。彼女の髪は夜一と正反対で、今は腰あたりにまで伸びている。
暫しの沈黙があり、夜一は疲れたように息を長く吐き出した。
「……その様子では、まだ、知らぬのじゃな」
自分が、まだ、知らない…?
「何を…ですか?」
一度、ギュッと固く目を瞑ってい〜、意を決したように口を開く。
「一護が、死んだ」
難しい単語は、使われていない。知っている単語しか使われていない。
だが、ルキアにはその言葉の意味を、すぐに理解することができなかった。
「………え…?」
―――――一護が、死んだ?
正常に流れていた時間が、
狂い始める。
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