代わりなんていない、って。
そんなの分かりきっているはずだった。
代わりがいればいいのに。
そんなの、ずっとずっと思っていた。
あなたの代わりはいないけれど、私の代わりはいくらでもいるだろう。そんな考えが一瞬でも頭をよぎったら、そこでもう、終わり。この関係に終止符を打って、私は忽然と姿を消した。


借りていた家を解約して、仕事も辞めた。職場の人達は突然退職願を提出した私に少し驚いたようであったけど、理由は特に聞かなかった。恐らく聞くもんじゃないと、そう思ったのだろう。私は潔く、なんの迷いも見せずに職を捨てた。
恋人と別れるだけなのに、家も職も手放す必要は本来無いのかもしれない。でも私たちの別れは、あまりにも急であり、一方的であり、理不尽であった。
そう。終止符なんか、打っていないんだ。ただ私が、あの人と一緒にいるのが辛くなって逃げ出しただけ。嫌いなわけじゃない。むしろ、好き過ぎた。好き過ぎて、私は自分という人間の生き方の一部に彼をしかけていた。彼は、桂小太郎は、私の生き様の一部になり得た。でも。でも私はあの人の生き様にはなれない。人生の一部になるには、私は存在が小さ過ぎる。彼の世界はとても広くて、その世界には数えきれない大事なものや忘れられないものがあって、その中では私なんて海岸に無数に広がる砂の一粒みたいなものだった。
だから私の代わりはいくらでもいる。私である必要は、ない。そう、思っていた。


契約してから一ヶ月ほどの、自宅の鍵を開ける。やっとこの家にも慣れてきた、そんな時期だった。お風呂に入って、布団に寝転んで、目覚ましをかけて、しばらく携帯をいじる。それが日々の日課であり、今日もそれは変わらない。でも、いきなり着信を知らせ始めるバイブ音で、その日々は少しだけ変化した。

ディスプレイに映し出された名前は、元職場の先輩だった。
私がいきなり辞めた前職は歯科医院の受付で、実は桂小太郎と出会ったのはその職場であり仕事中であり、そして一目惚れであった。銀さんの付き添いとして現れたその人を見た時、心臓がぐっと熱くなった、気がしたんだ。あぁ、恋、したんだろうなぁ、なんて思った。その時は。今思うとなんて軽率に恋をしたんだろうと思う。相手が誰だか、知らなかった。まさかその人が指名手配犯で、攘夷党の党首で、国を変えようと躍進する革命家だなんて思わなかったんだ。知っていたら軽率に、恋なんてしなかったんじゃないか。気持ちを伝えようなんて、思わなかったんじゃないか。両思いになりたいなんて、厚かましいこと考えなかったんじゃないか。
そう考えて、首を横に振った。私はきっと、どんなあの人でも恋をした。そしてきっと最終的には逃げていた。結果は同じ。手に入れて、でも満足出来ずに自分で手離すのだ。

「はい、もしもし」

今更どうしたのだろうと怪訝に思いつつ、通話ボタンを押した。
久しぶりに聞いた先輩の声は以前となんら変わらない。

「もしもし名前ちゃん?久しぶり。いきなりごめんね、寝てた?」

「いえ、起きてました。お久しぶりです。急にどうしたんですか?私仕事やり残してました?」

「ううん、違うの。実は…」

先輩は少し言いづらそうに語尾を濁す。

「実は?」

「実は、最近うちの医院に怪しい人達が来てて。」

「あや、しい?それ、どういうことですか?」

「恐らく格好からして浪士じゃないかとは思うんだけど、毎日違う人が変わるがわる来るのよね。ほら、うちって完全予約制でしょ?だから当日いきなり来られても治療は受けられないからちゃんと断ってるんだけど、それでも毎回同じようなシチュエーションで現れるのよ。」

「その人達、グルってことですか?」

「恐らく。で、より怖いのが、」

先輩は一息置いてから、怖がらせたらごめんねと言い、私の名を口にした。

「名前ちゃんのこと、聞いてくるのよ。しかも全員が。」

「え?」

「もちろん何も教えてないわよ?辞めたことも言ってないし、今名前ちゃんが何してるかもどこに住んでるかも当たり前だけど言ってない。だからあの人達が何か名前ちゃんのこと嗅ぎつけることはないと思うけど、一応知らせておこうと思って。」

「…ありがとうございます。」

気味悪いわよね。何か、心当たりはあるの?そう心配そうに訪ねた先輩に、いいえ、何も、と答え、もう一度礼を言ってから電話を切った。
一つ、息を大きく吐いてから持っていた携帯電話を布団の上に放り投げる。
これ以上心配掛けまいと先輩にはああ言ったけど、心当たりは、ある。恐らく連日訪ねてくる浪士たちは小太郎の部下達で、いきなり姿を消した私を探させているのだろう。でも、一体どうして?なぜ私を探すの?

「私の代わりなんて、いくらでもいるでしょう。」

そう自分に言い聞かせて、その晩は眠りに就いた。
あの人が、部下を使ってまで私を探している。見方次第では少し怖い状況でもあるけれど、私にとってそれは不思議なことでしかなく、そして、ほんの少しだけ、切ない出来事であった。

彼の、小太郎の元を去ってから、何度も夢を見た。小太郎がすぐ隣に居る夢。手を伸ばせば届く距離に居て、そして必ずその手を握り返してくれる。夢の中ではすぐ隣に居る小太郎の匂いをすぐに思い出せるのに、夢から覚めると全て忘れていた。思い出せないんだ。小太郎の手の大きさとか温かさとか、匂いとか。
正直、辛いなんてもんじゃない。だってまだ、好きなんだ。どうしようもないくらい。だから、代わりになる人を探そうと思った。でも、居るはずなかった。代わりなんて、いないんだよ。わかってた。わかってたけど、私は離れたんだ。怖がりだった、ばっかりに。


先輩の一報から、また一ヶ月ほどが経った。先輩から電話がかかって来ることはあれ以来なかったし、私の近辺で変わったことが起きるわけでもなかった。ただ、一日一日が過ぎていく。このまま、そうこのまま、何年も過ぎて、小太郎のことなんて忘れ去って、今はまだ知らない誰かと結婚とかして、子供も出来て歳を取っていく。それもいいかもなんて自分に言い聞かせることが出来るようになった、そんな時だった。
私の目の前に、小太郎は現れた。それは、本当に突然の出来事だった。

「なんで…ここにいるの…」

先輩から電話を貰った、あの日と同じくらいの時刻であったと思う。布団の上でごろごろ寝転がっていた、そんな時、家のチャイムがなった。こんな時間に一体誰だろう。宅配便にしては遅すぎる。こんな時間に訪ねてくる友人はいない。私は恐る恐る玄関の覗き穴を覗いた。
するとそこにはあるはずのない、男の姿が見えた。深く編笠を被っているけどすぐにわかる。だってその姿は、私がこの二ヶ月間、ずっと恋焦がれていた姿だったから。
でも、当然のことながらすぐにドアを開けられるはずがない。私はこの人から逃げるために職を捨て、家を捨ててこの地に越してきたんだ。ここで容易くドアを開けてしまったらきっと全てが無になる。また、振り出しに戻る。
私は居留守を使おうと、踵を返した。その直後、背後から聞こえてくる切な気な声。私は歩みを止め、耳を澄ます。

「名前、居るのだろう。」

「…。」

「急に訪ねてきてすまない。戸を開けてはくれないだろうか。」

私の記憶する、いつでも威勢のいいその声とはかけ離れた力無い声が聞こえてくる。全身から力が抜ける感覚に陥った。こんなに弱った声を出す彼を、私は知らない。弱った彼を見るのは、正直怖かった。だって私は彼が強くて、みんなから頼りにされてて、羨望の眼差しを向けられているから、離れたんだ。皆に求められ、そして沢山のものを求める。そんな彼だと思ったから。私なんかいなくたって彼の世界は変わらないし、彼の生き様は変わらないし、強さもその信念も脅かされることがないと思ったから、彼の世界から消えたのに。
なのに、そんな弱々しい声色を聞かされて、決心が揺らがないはずがない。でもこのまま折れてしまっては、私の選んだ道は一体なんだったんだ。何の為に職を、家を、彼を捨てて、生きると決めたんだ。

「…開けられない。」

「なぜだ。」

「会いたくないの。」

「どうして。」

「どうしても。」

どうしても、会いたくない。そんなの、嘘に決まってる。そういえば、私がしてきたことは全部本当じゃなかった。小太郎の前からいきなり消えたのも、小太郎にとって私の代わりがいくらでもいると思ったのも、小太郎のことを忘れられると思ったのも、全部、本音じゃなかった。本当は私、小太郎に、

「俺は、名前に会いたい。」

決心が揺らいでいたその時に、そんな言葉を聞いて、それでもこの人を突っぱねる事が出来るほど、私は自分に厳しい人間じゃない。
会いたいなんて、そんな言葉、夢の中でしか聞いたことがなかった。もっと早く、言って欲しかった。何度も言って欲しかったし、何度だって求められたかった。だけど小太郎は、それをしなかったでしょう。会いたいも、好きも、言わない。特別扱いも、された覚えはない。だったら私でなくてもいいって、誰だって思うはずでしょう。代わりがいくらでもいると思っていた。私の代わりになる人が、小太郎の周りにはたくさん居るって。でも、私にはいない。だから、きっと一人になる。それでもいいと、そう思っていたのに。

鍵を開け、チェーンを解いて戸を引く。その瞬間、玄関にすばやく侵入した小太郎に、気付けば抱きすくめられていた。一瞬の出来事で、抵抗も出来なかった。必死に身を捻るけどそれ以上の力で抱え込まれて、小太郎はびくともしない。やめてよ、と言って胸を掌で押し返したって状況は変わらなかった。

「離してよ…!」

「なぜ、逃げた」

そう言った声の低さに肩がびくりと弾む。そしてその目を見て背筋が凍った。
小太郎は珍しく、怒っている。それも恐らく激怒だ。

「別に、いいでしょ…」

「よくないだろう。」

「小太郎から離れたかったの!別に私がいなくなったって、小太郎は困らないでしょ!」

「…それはどういう意味だ」

「小太郎にとって私みたいな存在はいくらでもいるでしょ…私じゃなくたって、別に。代わりなんていくらでもいるん、だから。」

「なにを言って、」

「でも!いないの!私には!私には小太郎の代わりなんて、いないの…。だからそれが辛いの。私ばっかり、どうして」

どうして小太郎が好きで、小太郎しかいなくて、一人だけ辛くて。夢の中でしか、満たされなくて。
私がそう言って睨みつけるように小太郎を見上げると、先ほどまでの激昂していた目とは全く違う、動揺した、安定感の無い眼差しが私に向けられていた。
いつもの真っ直ぐな揺らぎない瞳とはかけ離れたその視線に、息が詰まる。

「すまない。」

気づいたら涙がどんどん出てきて顔をぐしゃぐしゃにしていた私を小太郎は、慈しむように柔らかく抱きしめた。先ほどとの力の差に、体が震える。優しく抱きしめて背中をさする。その行為に、涙はさらに溢れ出た。

「辛い思いを、させていたんだな。」

嗚咽を噛み殺して、小太郎の着物の袖を握る。皺になるかもしれないけど、そんなのどうだっていい。私は、時間を掛けて紡ぎ出される小太郎の言葉を待ち侘びていた。

「名前にとって俺の代わりがいないように、俺にとっても名前の代わりなどいない。いるはずが、ないだろう。」

私はその言葉に息をのむ。

お前がいなくなって、その時にはもう遅かった。俺の元から黙っていなくなるとは、なんて薄情な輩だと正直最初は思った。裏切られたのかもと、多少は勘繰った。しかしお前がそんな事するはずがない。だからといって名前が居なくなったことをまぁいいか、で済ませられるはずがない。部下まで巻き込んで、名前の捜索をさせた。自分でも犯罪まがいのことをしている自覚はあったさ。でもそうしてでも、名前に会いたかった。このまま終わるになるなんて、考えたくもなかったのだ。
そしてやっと見つけ出した。本当はここに来る事に戸惑いはあったんだ。もしかすると警察に突き出されるかもしれないし、大嫌いだと面と向かって言われたら、恐らくショックで立ち直れない。名前を見た瞬間、最初に感じたのは愛おしさだった。でも次に湧いて出たのは怒りだった。急にいなくなったお前が多少なりとも憎かったのさ。でも、名前の本音を聞いてはっとした。俺がこれほどまでに、辛い思いをさせていたのかと。逃げ出したくなるほどの苦痛を与えていたのかと。

「本当に、すまなかった。もう二度と、そんな思いはさせない。」

小太郎が、そう言って私に戸惑いがちに口付けた時、思い出した。そう、この人の体温を。匂いを。夢の中でしか思い出せなかったそれらを、また取り戻すことが出来た、気がする。それこそ、夢の中のような感覚。不透明で、不鮮明で、掴みどころがないものだけど、それでも忘れてしまっていたあの時間より、今のこの夢の中の方が比べ物ならないほど、良い。

「小太郎。」

「なんだ。」

「すき。ずっと、すき。嫌いになんて、なったことない。」

「そうだろうと思った。」

逃げ出してごめんなさい。そう謝ると、額を軽く突かれた。
あぁ、この感じ。そうだ、この人は言葉にせずとも、こうやって表情で示してくれるんだ。どんな時だって自信に満ち溢れた言葉を大勢の前で発するこの人が、唯一小声で吃りながら私の前で発し、見せる表情。

「小太郎は?」

「なんの話だ」

「私が、必要?」

「…当然だろう。でなければ二ヶ月も掛けて探したりせぬ。」

「そっか。そうだよね。」

探してくれてありがとう。もう、逃げないから。小太郎からも、自分からも。
そう言って、小太郎の胸で深呼吸をした。

あぁ、頼んだぞ。
そう返した小太郎は、少し微笑み、私の髪を撫でてもう一度口付ける。

ほら胸がまた、熱くなるんだよ。そう、二人で。








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