桂さんから告白の返事を貰ったその日、私は何事もなかったかのように自宅へと帰らされてしまった。帰らない、なんて大胆な事を言ってはみたものの、桂さんにとってはそんなの子供の戯言でしかなかったらしく、丁寧に自宅近くまでの送迎付きだった。
私も少しむくれてはみたが、よくよく考えるとこのまま二人で朝まで、なんてそんな、破廉恥な状況あってたまるものかと気付き、振り向く事もせず自宅の玄関に急ぎ足で駆け込んだのである。
眠りに就く直前、急に震えだした携帯電話を力の入らぬ手で掴むと、そこにはメール一件受信の知らせが表示されていた。送り主は桂さん。今まで電話番号しか交換していなかった私達が互いのアドレスを知ったのはつい先程のことだった。そしてこんな時も、やはり先に行動をしてくれるのは桂さんの方だった。
今日はありがとう
明日は以前と同じ時間の電車に乗るように
おやすみ
まるで微睡みの中のようなこの関係。たったそれだけの簡潔な文章であったが、私の心臓を握り潰すに等しいその衝撃は、私をそのまま深い眠りへと攫っていった。
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「おはよう。ところで今ここに名前が居るという事は、俺の昨夜送ったメールは無事既読だったという事だな。」
「あ、えっと、その…返事する前に寝ました、ごめんなさい…」
久しぶりに電車内で見た桂さんは開口一番にそう言い、明らかに不機嫌だった。そりゃそうだ。別れ際恋人が自分に見向きもせず逃げるように家の中へと消え去った上に、付き合い始めたその日に送った初メールに返事が無かったのだ。怒らない方がおかしい。そもそもこういった場合告白をした側、即ち私からメールを送るべきだったのではないか。桂さんはありがとうと書いていたけれど、それを真っ先に言うべきは私の方だったし、まず礼儀として無視はよくなかった。勝手に恥ずかしくなって逃げ去ったのもよくなかった。人として。あぁ、カムバック昨夜。
「とりあえずこちらへ来い。」
「…はい。」
桂さんに言われるがままに赴いた定位置。桂さんが用意してくれている定位置は以前と変わらずとても居心地の悪い場所だった。いや、違う。以前より数段悪い。
こんなに近くに居るのに私に視線を寄越そうとしない桂さんに、私は後悔と居た堪れなさと自己嫌悪で身が押し潰されそうだった。窓ガラス越しに見る桂さんは恋い焦がれた人であり、そしてやっとの思いで気持ちが通じあった恋人だというのに、数週間前より遠い存在になったような気がした。
昨日、桂さんの気持ちを聞いた時には予想しなかった現在の私達の距離に、あの瞬間に戻りたいとすら思ったが、そんな私の心の内を容易く読み取ったらしい桂さんは、小さく溜息を吐いた。
その溜息に、更に私は恐怖で縮こまる。耳を塞ごうかと思ったその時、聞こえてきた桂さんの声は、予想していた棘のあるものではなかった。
「夢かと思った。」
「え?」
そう呟いた桂さんを反射的に見上げた。やっと視線を合わせてくれた桂さんの瞳は、声色同様柔らかい色をしている。
「手応えが無くて、な。去り際も呆気なければメールの返信も無い。俺一人が都合の良い夢でも見ているのかと思った。」
「そんな!」
「少し寂しかったんだ。恐ろしくもあったがな。一度手にしたと思ったものを取り零すのは御免だ。」
桂さんはそう言うと、微笑んだ。その笑みに微かに不安の色が滲んでいて、私はあぁ、この人を悲しませるような事は今後一切してはいけないのだなと、思った。
悲しい思いを、寂しい思いをしてきたこの人をこれ以上傷つけないように私が出来る事をこれから時間を掛けて探していこうと、そう決めた。
「夢じゃ、ないです。全部、夢じゃないです。これからはちゃんと、メール返します。もう、逃げません。不安にさせてごめんなさい。夢だと、思わないで下さい。」
私のその言葉に桂さんは少し驚いたような顔をしたけれど、すぐに私のよく知る桂さんの表情に戻り、いつも通り鞄から愛読書を取り出した。
見慣れたその光景に、夢のようだったこの関係がやっと現実味を帯びてきたのを感じた。
夢なんかじゃない。夢であってたまるもんか。この人との現実を、この身をもって生きていきたいと、そう思った。
桂さんが下車するその時、私の手にひんやりとした冷たいものが絡み付いてきた。びくりと震えたがその正体が冷えた桂さんの手だと知り、その手をそっと握り返す。
昨日までは無かった現実がそこにあった。でもまだ少し、夢うつつ。
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あまりこの時間に駅前を彷徨く事はなかった。帰宅ラッシュを迎えたとなれば然程大きくはないこの駅も人でごった返す。
桂さんとの約束は18時。そろそろ改札を抜けて姿を見せる頃だろう。
午後の授業中、震えた携帯にそっと目をやると桂さんからメールが来ていた。この携帯が受信する、二通目のメール。すぐに中を開くとそこには、夜少し会えないだろうか、という短い文が表示されていた。
すぐに、会えます!と返すとこれまたすぐに、18時に駅で、と返事が来た。予期せぬお誘いに頬が緩む。それを隠す為に教科書に顔を埋めた。
それからというもの授業内容など耳に入るはずもなく、ずっとそわそわしっぱなしであったわけだが、それが現在も継続していたものだから端から見た私は恐らくあの有名な忠犬さながらの姿であっただろうと思う。
しばらくして姿を現した桂さんはすぐに私の姿を見つけた。でもきっと私の方が彼を先に見つけていただろう。彼のあの長髪はどこにいても目立つ。いい意味で。
「すまない、待たせたか。」
「いえ、全然平気です!」
「そうか。いきなり呼び出して悪かったな。」
「そんな、気にしないで下さい。嬉しかったです。」
桂さんは人の流れに飲まれそうになった私の手を握り歩き出した。改札付近を離れると多少は人の量も減る。それとともに離れていった手を少し残念に思った。しかしやはりスーツ姿のサラリーマンと制服姿の女子高生が一緒にいる光景は、そこそこ異常なものだった。
人の視線が気になりだした私は、桂さんに場所を変えようと提案した。
「どこか行きたいところとか、ありますか?もしなかったら、あの、前行った公園に行きませんか?」
「前行った公園?…あぁ、あそこか。いいぞ、行こう。」
桂さんは一瞬苦い顔をしたが、私は気にせず歩を進めた。あの公園、私と桂さんが喧嘩まがいな事をした、あの暗い公園。私はあの日から、あの場所へは一度も足を踏み入れてなかった。良い思い出では決してないあの夜の記憶が、遠ざかるように仕向けていたのだ。
だが、今ならあの場所に行ける気がする。桂さんと二人なら、多分、大丈夫。まだまだ寒さは厳しいけれど、あの日のような冷たさを感じることはないだろう。
「寒いのに、ごめんなさい。」
「ん?別に平気だ。それに今日はまだ暖かい方じゃないか。」
「そうですね、この前来た時に比べたら。」
この前、その言葉を発した瞬間急に心が軽くなった気がした。この前、感じた絶望が、今希望となって目の前に居る。信じられないような気もしたが、確かに隣に居る桂さんに、幸せを感じるほかなかった。前来た時に座っていたこのベンチ。再びこの人と座る事ができて、嬉しいと、そう思う。
「なんだか浄化されました。」
「浄化?」
「トラウマになりそうだったけど、ならなくて済みそうです。」
「それは良かった。」
「私、餓鬼だし、桂さんの期待に添えるかわからないけど、出来るだけ嫌われないよう頑張ります。もっと好きになってもらえるよう、努力します。」
「そうか。じゃあ期待していよう。」
このままで十分だがな、そう言った桂さんをこの先もっと好きになるのは、確実だった。好きに数値はないだろうけど、きっと桂さんの私に対する好きが私の桂さんに対する好きを超えることはないだろうと思う。寂しい気もするが、それでいいのだ。きっとその方がうまく行く。
しばらく他愛も無い話に花を咲かせ、何か暖かい飲み物でもと腰を上げようとしたその時、桂さんはそういえば、と思い出したかのように口を開いた。
「名前は、付き合うとどうなるタイプなのだ?束縛する派か?されたい派か?それとも放任主義か?」
「え?」
「おなごは付き合うと性格が変わるではないか。」
「そうなんですか?」
「ん?」
「いや私、お付き合いするの初めてだから、そういうのわからなくて。」
「え?」
「え?」
桂さんは何故か目を見開いて私を凝視していた。私はその意図がわからず、ただその目を見つめ返す。その目に浮かぶのは困惑の色?
「それは、即ち、俺が名前にとっての、初めての彼氏、ということか?」
「ええ、そうです。何か、問題でもありましたか?」
「何故そういうことを早く言わんのだ!」
「はい?」
何故か桂さんは焦った様子で私の肩に掴みかかった。私は驚きよりもこの状況の意味が分からず、ただ戸惑うばかりである。あれ?これは言わなくちゃいけない事だったのかな。
「責任重大ではないか!」
「責任?」
「気構えが変わってくる!いや、別に無下に扱おうとしていたわけではないが、その、初めてとなると、更に丁重に扱わなくてはならん。」
「なんの話ですか。」
「何においてもだ!なんだって初めては大事だろう。それに名前はまだ若い。こんな年上の、しかもバツイチの男と、いやでも、それは関係ない、いや、関係ある、いや関係ない、ある、ない…」
頭を抱えながらうーうー唸る桂さんの様子を私はただ、黙って見ているしかなかった。この人が一体何に悩んでいるのか全く理解出来ないからだ。男の人と付き合うのは確かに初めてだけどそれってそんなに重要な事なのだろうか。初めての経験は確かになんだって大事だけど、それの相手が桂さんであるのならそれは全く問題のない事なのだけれど。
「初めて付き合う人が桂さんで、私はとても嬉しいんですけど。大事な初めてが桂さんなら別に構いませんよ?桂さんは、嫌ですか?」
「そんな、嫌なわけないだろう。」
「じゃあいいじゃないですか。」
「…名前お前、自分の言っている言葉の意味がわかっているのか?」
「ん?わかっているつもりですけど。」
「(…わかっていないな。)そうか、ならいいんだ。」
なんだか少し疲れた様子の桂さんは、大事にする、そう言って、そっと私の頭を撫でた。それがとても嬉しかったので、私も大事にします、というと、何故か桂さんは苦笑いをした。
大好きなこの人と、お付き合いを始めました。
2016.01.05