外から、車のクラクションが聞こえた。なんとなく窓辺に近づき下を見ると、狭い路地裏で車が立ち往生しているのが見えた。どうやら違法駐車している車の所為で、先に進めなくなっているようだ。
俺は溜め息を吐き、空を見上げる。この国では珍しい、晴天の空。滅多にお目に掛かれない良い天気なのに、窓の外から聞こえるクラクションと怒声の所為で台無しだ。

俺はキッチンに向かい、コーヒーを落とす。テーブルの上に置かれた新聞に目を通すと、それをソファに投げ捨てた。
異国の文字で書かれたそれにも、もうだいぶ慣れてきた。すらすらと、までは行かないが、一つの記事を五分以内で読めるようにはなった。テレビから聞こえてくる聞きなれない言葉も、今じゃ相槌を打てるくらいには聞き取れる。

俺はもう一度窓辺に向かい、地上を見下した。二人の男が取っ組み合いの喧嘩をしている側に、先程までは見当たらなかった真っ赤な自転車が停めてあった。
俺が住むのは五階建てのアパート。新しくはないが、洒落たレンガ造りのそれにはエレベーターがない。恐らく直に、息を切らした彼女がこの部屋のドアを叩くだろう。何せこの部屋は最上階にあるのだから。





こんこん、とドアを叩く音と同時に彼女の姿が見えた。毎回、返事を聞かずに開けてはノックの意味がないと言っているのだが、彼女は全く学習をしない。
両手で大きな紙袋を抱えた彼女は、名を名前という。



「名前、どうしたんだ。その荷物は。」

「銀、時、から!小太郎の所に持って行けって!」



名前はそう言うと、持っていた紙袋をテーブルの上に置いた。どうせ中身はいつものあれだろう。



「銀時の奴。連絡を寄越せば俺が取りに行くといつも言っておるのに。」

「違うの違うの。今日はたまたま店の前通ったから。そういえば今日銀時夜まで居るって言ってたから、後で一緒に顔出しに行こう。暇だーって言って項垂れてたよ。」



俺は名前が持ってきた紙袋の中を漁り、中に入っていたあんぱんを一つ取り出した。
銀時はこの国で出会った俺達と同じ日本人の男で、街のパン屋で働いている。少し前まではカフェの店員をやっていたのだが、客の女にちょっかいを出したとか何とかでクビになったらしい。今は俺の目を盗んで名前にアプローチを掛けているようだが、上手くかわされているのが常のようだ。

俺はあんぱんを一口齧ると、それを名前に差し出した。



「この店のパンは味は悪くないのだが…。餡子がやはりこの国の人間に合わないのではないか?」

「んー、そうかもね。あんぱんは銀時が作るようにオーナーに勧めたって言ってたし。だからいっつもあんぱんばっかり残るのかもね。」



銀時が寄越す袋一杯のパンはいつも売れ残りばかりだった。そしてそれはいつもあんぱんだった。
俺は名前にブラックコーヒーが入ったマグカップを手渡すと、ソファに座るように促す。自分も名前の横に腰掛けると、二人で一つのあんぱんと一杯のコーヒーを分け合った。



俺も名前も、元々はこの国の人間では無い。意味もなくこの国に移り住んだ、所謂放浪者だった。仕事の為でも、語学を習得する為でも、ましてや自分探し、なんてものの為でもない。ただ、誘われるかの如く、気付けばこの国に住み着いていた。
後に出会った銀時も、俺達と同じような事を言っていた。ふらふら生きてたら、この国に居たと。銀時の奴は今でもふらふら気ままに生きているが、奴にはそれがお似合いだと思う。



俺と名前が出会ったのは、とある白昼のカフェでの事だった。その頃の俺はまだ、この国の言語にも文化にも風習にも馴染めておらず、いつも同じカフェの隅の席で日本から持ってきた本を読んで時間を潰していた。見知らぬ国では、目立つような行動は避けた方がいいと、旅のガイドブックで読んだ事があったからだ。そうでなくても、俺はどうやら異国人の中でも目立つ部類の人間らしく、事ある毎に、警官に追いかけ回されていた。

その日は珍しく店が混み合っており、常に満席状態だった。がやがやとうるさい店内ではどうも落ち着かず、俺は仕方なく店を出ようと開いてた本を閉じた。するとその時、俺の目の前のテーブルに人型の影がすっと姿を現したのだ。何だ、と視線を上げたそこにいたのが名前だった。
名前は困ったように視線を泳がせ、なにやら言葉を発しようとしては飲み込んでいるように見えた。ちらちらと俺の顔を見るその視線には、不安の色が浮かんでいた。
どうやら名前はあの時、俺に何語で話し掛けていいのか悩んでいたようなのだ。



「日本人だぞ。」



俺は一言そう言った。すると名前は一瞬目を見開いたが、すぐに安堵したように息を漏らした。



「良かった、日本人で。言葉が通じないの、若干トラウマになりつつあったんだ。」

「それは気の毒に。この国の言葉は喋れないのか?」

「えぇ、まったく。だから相席して良いかどうか聞けなくて。因みに言うと、オーダーも出来ないんだけどね。」



メニューが読めないから。
そう言った名前は眉を下げて笑うと、俺の前の席を指差した。そのジェスチャーに、俺は無言で頷く。



「俺もほとんど喋れないんだ。」

「あら、そうなの?」

「あぁ。だからいつも同じ席で同じものしか頼んでいない。いつもはこんなに混雑していない店なんだが。今日は祝日か何かなのかもしれんな。」

「へー。どうやらカレンダーを買いに行かなきゃ駄目みたい。」



面倒事がまた増えた、といったような様子で眉を顰めた彼女は、俺にお勧めは?と尋ねた。俺が無難にエスプレッソと言うと、彼女はメニューを差し出し、エスプレッソを指すよう促した。手を上げ、やって来た店員に、彼女は俺の指差すメニューを見せる。店員は笑顔で頷いて去って行ってしまった。



「ジェスチャーで充分やっていけそうじゃないか。」

「貴方がメニューを指差してくれたから。」

「カフェのメニューくらい読めるようにしておいた方がいいぞ。何かと役に立つ。」

「えぇ、今日から覚える事にする。」



彼女はその気があるのかないのかわからない返事をして、読めないメニューに目を通していた。
しばらくして運ばれてきたエスプレッソに口付けた彼女は、ちらりと俺を見遣る。俺はその視線に訝しげな表情を浮かべ、何だと素っ気なく問うた。



「いいえ、別に。ただ、貴方が日本で暮らしていた姿が全く想像出来ないな、と思ってね。」

「そうか?俺は生まれも育ちも日本だ。この国には最近移住してきた。そんなこと、初めて言われたぞ。」

「貴方、この国に知り合いが居るの?」

「いや、まだ居ないが。」



何故か一瞬驚いたような表情を浮かべた名前は、俺の返事を聞くなりすぐに胸を撫で下ろし、溜息を吐いた。そういえば、名前はこの国に来てから初めて出会った日本人だった。気づけばもう随分と母国の言葉で人と会話などしていなかったように思える。



「私この国に来て長くはないけど、別に昨日今日来たってわけでもないんだ。でも貴方はこの国で会った初めての日本人よ。こうやって日本語で人と話したのも久しぶり。」

「そうか、俺もだ。そういえばこの国は、俺達のような異国人があまり多くはないようだな。」

「そうだね。日本語、忘れるかと思った。」

「言う通りだ。日本語を忘れてしまう前に、言葉の通じる人間に会えて良かったな。」

「うん、そうね。ねぇ、良ければ貴方、私の話し相手になって貰えない?私、日本語忘れたくないんだ。」

「話し相手?」

「そう。また此処で会って、話をしましょう?」




名前はそう言うと、自分の持っていたカップの縁と、俺のもう冷めてしまったカップの縁をカツンと合わせた。小さく鳴ったその音は、始まりの合図だったのかもしれない。
名前のその提案を、俺は二つ返事で引き受けた。それからというもの、俺達は毎週あのカフェで待ち合わせをし、色々な事を語らいあった。俺の名を教えたら、名前はこの国には似合わない名だと笑った。だが、日本にはよく合う素敵な名前だと褒めてくれた。
俺も名前の漆黒の瞳を褒め称えた。この国の人間は持ち得ないそれを、まるで宝石のようだと言った。すると名前は俺の長い黒髪を好きだと言ってくれた。柔らかいそれを彼女は愛でた。

俺達は気づけばカフェ以外でも会うようになっていた。そして世間では俺達を、恋人と呼ぶようになっていた。







「下の車、どっちが折れたかな。」

「そうだな。結局どちらも折れず、後から来た車が無理矢理通り抜けようとして、止まってた車に傷をつける、というパターンじゃないか?この道じゃよくあることだ。修理屋が儲かってしょうがないな。」

「へぇ、そうなの。でも元はと言えば、こんな細い道に車で入って来ようとする方が悪いのよ。そうじゃなくたってこの国の車は無駄にでかいっていうのに。」



そう言うと名前は、はっとしたように急に立ち上がり窓辺に近づいた。俺が何事かとその後を追うと、先程俺がしたように地上を見下ろす。
そして真っ赤な自転車がそこにあるのを確認して、ふぅ、と汗を拭う真似をして見せた。



「あれが壊されてたら、ただじゃ置かないところだったわ。あれ、私の愛車なんだから。」

「良かったではないか、無事で。」

「うん。」



名前は安心したのかソファに再び座ると、残っていた一口のコーヒーを飲みほした。

コーヒーはもう無い。今は休日の午後二時。天気は良く風もない。そして目の前には愛おしい名前の姿と、アパートの下に真っ赤な愛車。
条件はすべて揃った。



「名前、出掛けようか。その、愛車とやらに乗って。」



名前は頷き、真っ赤な愛車の鍵を俺に投げた。







街は、活気に満ちている。休日ともなればそれが当然だ。
俺は名前を愛車の後ろに座らせ、ゆっくりそれを走らせていた。石畳みが運転しにくいのだと言っていた名前の言葉の意味を、少し理解した。
後ろにいる名前は、俺のシャツを掴み何やら機嫌良く鼻歌を歌っているようだ。
目的地は銀時の働くパン屋。あんぱんのお礼と、あんぱんが売れ残る事についての助言をしてやらなければならない。それに、見かけによらず寂しがり屋な奴だ。きっと俺達が来るのを首を長くして待っていることだろう。



「やぁ、名前。デートかい?」



花屋の店主が名前にそう話しかけると、名前は、そうなの、と言って手を振っていた。次に擦れ違った警官は、名前にごきげんよう、と会釈をした。
どうやら名前は、俺の知らぬ内にこの街に随分溶け込んでいるようだった。



「今の警察官、前に俺に職質をしてきた輩だ。名前に色目を使いおって。」

「もう、あの人良い人だよ?夜一人で家に帰る時、女の一人歩きは危ないからって、よく家の近くまで送ってくれるの。」



俺は名前のその言葉に驚愕したが、再び鼻歌を歌いだす名前に叱る気すら削がれ、仕方なく深く溜め息を吐いた。
そしてほんの少しの仕返しとばかりに、ペダルを漕ぐ足を速めてやった。


この街は本当に美しい街だ。風情がある、趣がある。人々が皆、生き生きとしている。
パン屋に花屋、カフェに帽子屋、靴屋、本屋、交番までもが絵本に出てくるような愛らしさを兼ね備えていた。俺がこの街に馴染むのにはまだ随分と時間が掛かりそうだが、名前はいつだってこの街の主人公になれるだろうと思った。



銀時の働くパン屋は、丘の上の街を下った海の近くにある。海の匂いがしてくると、そこはもう目の前だ。



「ねぇ、小太郎。」

「なんだ?」

「小太郎は、この国の主人公になれそうね。」

「…なに?」



俺は拍子抜けした声を出し、後ろを振り向いた。すると名前に危ないからと無理矢理前を向かされた。急に曲げられた首が痛い。



「主人公?俺がか?」

「えぇ、そう。私、初めて貴方を見た時からなんとなく思ってたの。小太郎は、この国のヒーローになれそうって。
きっと小太郎、前世でヒーローだったんだよ。私、そう思う。」



俺は名前の言っている事がよく理解出来ず、ただただ困惑するばかりであった。
ヒーロー?俺が?前世で?初耳だぞ。前世など、今まで想像した事も無かったが、それにしたってヒーローはないだろう。



「私いつか、ヒロインになれるかな。」



名前はそう言いながら、俺の背中に頬を寄せた。



「名前は今だって充分この国のヒロインだろう?皆がお前に夢中じゃないか。さっきだって何人の人に声を掛けられたと思っているんだ。」

「もう、小太郎。貴方って人は本当に鈍いんだから。」



名前は俺の髪を引っ張りながらそう言うと、拗ねたように黙りこんだ。名前の言わんとした事はよくわからないが、彼女はきっと立派なヒロインだったのだろう。彼女のいう前世とやらで。


二人ともなにも喋らぬまま、銀時の働くパン屋に到着した。名前を先に下ろすと、俺は店の前に自転車を止める。
名前はその間も、何やら俯いており、持っていたカバンをぎゅっと力強く握りしめていた。
俺は何か気に障る事でも言ったであろうか。先ほどまでの言動を思い返してみても何もわからず、仕方なく無言で名前の手を取った。店の中へ入ろうと一歩踏み出すと、名前がそっと顔を上げる。その顔には、あの時と同じ表情が貼り付けられていた。そう、名前が初めて俺に話しかけた時のあの表情。



「名前、俺はなにかお前を、」



怒らせる事をしただろうか。
そう発しようとした言葉は、名前が俺の耳元で言った言葉の所為で、出る前に飲み込まれた。
ごくりと唾を飲む。目の前にある自転車と同じような色をした名前の顔。一体この状況、どうしたものか。


どうやら俺達が、店のレジ前で欠伸をする銀時と会うのは、随分先の話のようである。




―――私いつか、あなただけのヒロインになりたいの。


2013.02.21




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