十、ブラックアウト


毎朝乗る電車を一本遅らせた。一本遅らせたところで、遅刻する事はなかった。
あの人にはもう二度と会わないんじゃないかと、そう思っていた。いや、会わないんじゃない。会えないのだ。
まるで喧嘩別れのようなそんな雰囲気だったが、それは私の勝手な解釈であり、出来事をドラマチックに仕上げたい己の欲目だった。簡単に言ってしまえば、私は失恋したのだ。
彼が最後の日に話してくれた事が、嘘だとは思わない。あの人は本気で私と向き合って話をしていた。だけど、言っている事の半分は、私を突き放すための口実だったような気も、今となってはしてくる。
桂さんは、人を好きになるには理由が必要だと言っていた。だけどやっぱり私には、その理由というものがわからなかった。考えても考えても、わからない。そしてやっぱり、理由なんてものは端から無いんじゃないかと、そう思うしかないのだった。



学校の帰り道、駅前にある本屋に立ち寄った。彼に影響されて買ったあの本は、とっくに読み終わっていた。彼があの本をどのような気持ちで読んでいたのか。何度も何度も繰り返し、紙がくたくたになるまで…。それを考えると、頭を思いきり殴られるような衝撃を受け続けた。やはり私は浅はかだったのだ。彼の人生に土足で踏み込もうとした己に、息すら出来ない嫌悪感を覚える。

ふと新刊の並ぶ棚に、視線を落とした。本屋のお勧めと書いてあるその本は、SFファンタジーであるようだ。
私は山積みになっているその本を一冊手に取った。英字で題名が表紙に書いてあるその本をパラパラと捲ると、開始二三ページの所に、はじめに、と書かれた序章が載っていた。



「はじめに、ブラックアウトとは、」



その冒頭に目を通した私は、迷うことなくその本をもってレジへと向かった。






今日はとても寒い。雪が降りそうなどんよりとした空を見上げると、家のクローゼットで静かに眠っている、あのマフラーを思い出す。あの日私が持って帰ってきてしまった彼のマフラー。今頃あの人は寒さに震えてはいないだろうかと考えて、すぐに乾いたような笑い声を零した。私は本当に何処までロマンチストなんだ。マフラーなんてまた買えばいい。きっと彼は新しいマフラーを首に巻いて、奥さんという呪縛から解き放たれた生活を満喫しているだろう。前に使っていたマフラーがどうしてなくなったのか、わからなくなってさえいるかもしれない。

私は教室に一人残り、手もとの学級日誌に視線を落としていた。時々廊下を生徒が行ったり来たりするが、それ以外は静かなものだった。
必要事項を書き終え、あとは先生の所へ提出するだけだ。私は鞄を肩に掛け、日誌を片手に立ちあがる。すると廊下から女子生徒の話し声が聞こえてきた。ひそひそと話すその声でも、静かなこの空間では私の耳に鮮明に入ってくる。



「ねぇあの人男だった?女だった?」

「えー、わからないよ。でも髪長かったから女じゃん。」

「背高かったよ?スーツ着てたし。男じゃん。」

「どっちでもいいよ。それよりあそこで何してんだろうね。誰かの保護者かな。」

「保護者って歳じゃなかったでしょ。ねぇねぇ一応先生に言ったほうが良い?変な人だったら危ないって。」

「変質者って感じじゃなかったけどなー。」



廊下からだんだんと近づいてくるその会話に、私は目を丸くした。そして気付いたら廊下に飛び出した後だった。
急に飛び出してきた私に、会話をしていた生徒二人は一瞬悲鳴を上げた。ひっ、と喉を鳴らすようなその声に構わず、私は一人の生徒の肩に掴みかかる。



「そそそ、その人って!髪が腰くらいまであって、黒髪でしたか!」

「え、そ、そうだけど、」

「背が高くって痩せ型で、あの、結構整った顔っていうか、」

「うん、まぁ、綺麗めな人だったけど…知り合い?」

「多分!その人は今何処に!」

「校門のとこ。」



それを聞いた私は彼女らに頭を下げてから、廊下を駆け抜けた。今校門に居るのは、彼に違いない。彼の名刺入れを拾った日の記憶が、蘇ってくる。
階段を一段飛ばしで駆け降り、上履きを下駄箱に放り投げた。
もし、そこに居た人があの人じゃなかったら、何食わぬ顔で家へ帰ればいいんだ。そしたらその帰り道、私の彼に対する気持ちは完全に過去のものへと変わる気がする。だけどもし、校門に居るその人が、彼なのであったなら、私はきっと一生彼を忘れる事は出来ないだろう。
校庭を踵を踏んだ靴で、走る。砂が靴に入って気持ち悪かったけど、そんなの気にしていられなかった。だってすぐ目の前には、見覚えのある後姿が、髪を靡かせていたのだから。



「かつら、さん、!」



息を切らして、その背に呼びかけた。彼はゆっくりと振り返り、私を正視する。その首元にはマフラーなど巻いておらず、とても寒々しかった。



「なん、で、ここに…」

「随分遅かったんだな。待ちくたびれたぞ。」

「いつから、」

「色々と話したい事があるんだ。付き合ってくれるか?」



有無を言わさぬ桂さんの物言いに、私は頷くしかなかった。





学校からの最寄駅まで歩いたけれど、電車には乗らなかった。そのまま線路沿いを歩き出す桂さんの後姿を見て、随分と長い道のりになるのだろうな、と薄々感じていた。
寒そうな桂さんの首元に、私は自分がしていたマフラーを差し出したけれど、彼は微笑んでやんわりとそれを断った。
冬の夕方六時はもう真っ暗だ。線路沿いという事もあって、明かりに苦労はしなかったが、嫌でもあの夜を思い出さざるを得ない程には薄暗かった。
沈黙を破るのは、やはり彼だった。



「朝の電車、一本ずらしたのか。」

「え?」

「もうあの時間の電車には乗っていないだろう。」



彼は、そう言いながらちらりと私を見て、すぐに視線を逸らした。なんだかその目はゆらゆらと泳いでいるような気がした。



「えぇ、一本遅らせたんです。桂さんを避けてたっていうと、嫌な言い方になってしまいますけど、やっぱり気まずくて。すみません。」

「謝ることはない。俺も、一本電車を早めていた。」

「え、」

「すまぬ、鎌をかけた。本当はお前が電車を遅らせた事は知らなかった。」

「そうだったんですか…。」

「互いに、臆病者だったらしいな。」



彼は手を擦りながら、苦笑する。
私はというと、そんな彼の姿を見て少しだけ安堵していた。彼も少なからず私の事を考えていてくれたという事だ。それがプラスであろうとマイナスであろうと、忘れ去られていなかったことが、今の私には嬉しい事だった。
二度と会えないと思っていた人が今自分の目の前に居る。それはとても不思議なことだったし、恐ろしいことでもあった。諦めようと思っていた決心がこの一瞬で無になったのだ。きっと私は彼を諦められない。次に出てくる彼の言葉が私を拒絶する言葉でも、それを私は素直に聞き入れられはしないだろう。数十センチ右にずれれば肩が触れ合う距離だ。いっそ触れてしまおうとも思うが、そんなこと実際には出来る筈がなかった。



「この間は、すまなかったな。お前に辛く、当たってしまった。あの時俺は正気じゃなかったんだ。混乱して、自分のことすらよくわかっていなかった。」

「謝らないでください。私だって、我を忘れて、自分の言いたい事だけ言っていたんです。桂さんの気持ちなんかきっと何も考えていませんでした。
貴方に言われてから、私色々考えたんです。私が貴方を好きな理由を。でもやっぱりわかりませんでした。そんなもの最初から無かったような気がするんです。でもこれって、桂さんにとってみれば認められない気持ちなんです、きっと。」



私にとってはそれが正論だった。好きに理由はない。それが正解だった。でもそれが正解と声を大にして何故言えよう。桂さんにとってそれが不正解であったなら、不正解なのだ。決して二つの答えが合う事はないのだ。私が答えを見つけないと、彼には理解して貰えない。
だけどでっち上げた理由なんかは、効果が無いんだ。



「…すまない、名前。」



ふと、横にあった人影が視界から消えた。振り返ると、数歩後ろに居た桂さんは完全に歩みを止め、俯いていた。その発された声は、遠くを走る電車の音に掻き消される程に小さい。
私は首を傾げて、桂さんに近づく。急なその変化に、少し不安になった私が、俯いたその顔を覗き込むように肩を竦めると、地面に向かって力無く垂れていた桂さんの腕が私の腕を力一杯引き寄せた。
俄かに起こったその事態に私は目を見開くしかなかった。しかしその目に映るものは、桂さんの真黒な髪とその後ろの薄暗い線路沿いの道で、それがまた信じられなかった。今、私の背に回る腕は誰のものだ。今私が感じる体温は誰のものだ。私の頬に触れるさらさらとした髪は誰のものだ。
全ては私の想い人である彼のものであるのに、脳味噌がそれを理解出来ていないのだ。



「かつら、さん、」

「俺が間違えていた。俺は生まれてから今日まで、ずっと間違えていたんだ。理由がないと、人を好きになってはいけないんだと、そう思って来た。理由が無いその気持ちは嘘だと、そう信じて疑わなかったんだ。だけど今日、一人の男に言われてやっとわかった。理由こそが偽りだと。理由をつけなくてはいけない恋など、恋ではないのだ。
お前は正しかったのに、俺は、」



力強い腕の感覚とは真逆に、その声色は弱々し過ぎるくらいだった。私は固まった身体をやっとの思いで解して、その背中にゆっくりと手を回す。冷たい背は、一瞬びくりと動いたがすぐにまた動かなくなった。そして彼が言葉を発すると、小さく上下するのだった。



「そう長くはまだ生きていないが、後悔せざるを得ないな。」

「後悔なんて言うのは、今日が最後ですよ。」



私がそう言うと彼は、はは、と笑った。私もそれに釣られてくすくす笑う。彼の心音が私に響いて来て、なんだかそれが信じ難かったけど、でもこれが真実なのだと少しずつ理解し始めていた。



「今日俺は、お前にこの間の返事をしに来たんだ。」

「聞きたいような聞きたくないような。」

「聞かなくていいのか?朗報だと思うが。」

「じゃあ聞きます。」



彼は私の身体を離して、向き合った。その顔は、私が今まで見てきた彼の顔の中で、一番清々しいものだった。さっぱりとした、そんな雰囲気だ。今までの人生で彼が感じていたわだかまりが、無くなったのだろう、とそう感じた。



「俺は今日お前に、好きだと言いに来た。これが俺の返事だ。理由などない。
理由など無く、お前が好きみたいなのだ。」

「…なんて殺し文句ですか、桂さん。」

「殺し文句?俺は正直に言ったまでだぞ。」



真顔でそう言う彼に、私は数秒見惚れてしまった。真顔で言ったら破壊力が強すぎる言葉だ、なんてやけに冷静に分析してしまって、そんな自分に呆れながらも祝福の言葉を送ってやった。
もう一度彼に抱きつき精一杯の気持ちを伝える。だけど言葉にはしなかった。彼のあんな言葉を聞いた後じゃ、自分の発言なんて、お子様の口癖みたいになってしまうからだ。それに私はあの日、彼に十分気持ちを伝えているじゃないか。もうそれで満足だと思うんだ。



「桂さん、煙草吸い始めました?」

「ん?あぁ、これか。」



スンスンと、桂さんの胸の辺りに鼻を擦りつける。何だか桂さんには似合わないその匂いに違和感を感じた。



「これは俺の決意の印さ。」

「?」

「心配するな。俺は煙草は吸っていない。」



そう言って私の頭を撫でるその人に、私がこれからさらに夢中になる事は一目瞭然だった。
私はそっと彼から離れて歩きだす。彼はそんな私の行動をその場に立ったまま注視していた。



「ねぇ桂さん。ブラックアウトって知っていますか?」

「ブラックアウト?」

「えぇ。」

「さぁ、わからんな。」



桂さんは難しい顔をして、私を見つめていた。



「ブラックアウトって、主にパイロットがかかるらしいんですけど、大きなGが掛かると、心臓より上にある脳に血液が巡らなくなるんですって。そうすると、視野が完全に奪われるんです。目の前が真っ暗になって何も見えない。」

「そう、なのか。知らなかったな。」

「ねぇ桂さん、それって恋、みたいですね。」




彼は驚いたように目を見開いた。そして私の言わんとした事がわかったのか、そっと、微笑んだ。




「桂さん、私、」




もう目の前は、真っ暗だ。




―――今日は、帰らないよ。





fin.


2012.11.28




「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -