「桂小太郎様。
拝啓 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−。
−−−−−−−−−−−。
−−−−−−−−。
もし、貴方の人生を狂わせてしまった忌まわしき者が私であるのなら、私はこの命を捨てる事でしか、貴方に許しを請う事は出来ないのです。
−−−−−−−−。
−−−−−−。
敬具

苗字名前」






俺は隠れ家から飛び出した。手には届いたばかりの、一通の手紙を握りしめて。真っ白な紙に黒いインクで書かれた文字らは、池の鯉が逃げ惑うかのように、てんでばらばらに散って行った。ただ、俺の脳裏に浮かぶのは、力無く動くあいつの口元だけである。

あいつ、名前は、吹けば飛んで行く桜の花弁のような儚さを、近頃身に備えるようになっていた。痩せた身体に、日々白くなる顔色は、人間として決して満足に生きていない証拠であった。
握った手首は堅く冷たく、抱きしめた身体は軋み粉々になるのではないかと懸念した程だ。


俺が初めて名前に会った時、あいつの頬はまだ綺麗な桜色をしていた。吹き飛ぶ花弁ではなく、枝に付いた満開の桜のほうである。
何よりあの当時の名前は、俺を見つめる時、今のように涙を浮かべることなど無かった。
父親の経営する蕎麦屋で働いていた名前は、常連客だった俺に、いらっしゃいませ、いつものですね、と笑い掛けてくれていたのだ。

名前は器量良しで人当たりの良い、その店の看板娘だった。名前の父親は、さっさと良い旦那貰ってこの店継いで貰わなきゃなぁ、などとよく冗談交じりで言っており、それを真に受けた男達が、あいつに結婚を申し込んでいる所を、俺は何度か目にした事があった。その度に名前は、苦笑いでその誘いを断り、ちらちらと、横目で俺を盗み見ていた。
俺はその視線に気づいていた。だからわざと数回に一度、目が合うように俺も名前を見ていたのだ。目が合うと名前は、桜色の頬を紅梅のように染め、俯いた。そんな仕草に心を打たれた男達は、その視線の行き着く先が俺だとも知らずに、歓喜の声を上げていた。その都度俺は、ふっと、笑ったのだ。


名前に食事に誘われ、思いを告げられた時、俺は真っ先に、蕎麦屋には成れぬ、と言った。すると名前は驚いた顔をし、それでもいいです、と微笑んだ。
俺の心臓がその時絞り取られるように酷く痛んだのは、ただ単純に名前に心を動かされ、彼女の事を己のものにしたいと思ったからなのか、それともこの先に起こる事を見越しての、不吉な痛みだったのか、それは今でもよくわからない。だが一つ確実に言えるのは、その時既に俺と名前は、視線で交わり合っていた。そしてきっと先に狂わせてしまったのは、俺の方だったのだろう、という、ことである。










外は、重い空に押し潰されそうだった。生温い匂いは、街中を駆け抜ける俺の頭の先からつま先まで、すっぽりと包み込むようだ。息が苦しい。肺が、とても痛い。だがきっと、名前はもっと苦しいのだ。手紙の文字は散って行ってしまったからもうわからないが、とても弱弱しいものだったと思う。
あぁ、早く。早く名前の元へと参らなければ。名前はきっと一人俺を待っているだろう。泣くわけでもなく、かといって微笑むわけでもなく、ただひたすら俺の姿を探しているに違いない。俺の名前は、儚く散って行って、しまうのかもしれない。

夕日が、街全体を燃やす様に、すべてを飲み込んでいった。










名前の父親に罵声を吐かれたのは、店の暖簾を潜る一歩手前であった。名前に思いを告げられてから半年ほど経った、寒い冬のことである。
ばしゃりと頭からバケツ一杯の水を掛けられ、唖然としている俺にその男は一言、人殺し、と言った。
その目の色は、鈍い曇り空のようにどんよりとしていたような気もするし、燃えてめらめらと揺れていたような気もする。
俺は呆気に取られ、濡れて重くなった髪を疎ましく思いながら、男を目を見開いてただ見ていた。
すると男は、一枚の紙を俺に投げつけ、そのまま店の中へと消えて行ったのだ。俺はひらひらと舞い落ちるその紙を目で追う。するとそこには己の顔が写っていた。指名手配犯、桂小太郎。
簡単な事だった。名前の父親は俺が攘夷志士だと知らなかった。そしてその父親は、攘夷志士を良くは思っていなかった。一般人にとって穏健派だろうが過激派だろうが、所詮は同じテロリスト。それだけのことだ。
別に珍しいことじゃない。だけど、どうしてだろう。酷く頭が痛くなった。
足元に落ちた指名手配書は、濡れてインクが滲む。そこに映る俺の顔は、モザイクがかかったようにカモフラージュされていた。

俺は踵を返し、足早にその場を立ち去る。警察を呼ばれてもおかしくはない状況だ。店主にばれてしまっては、もうあの店には顔を出せないだろう。名前にももう、今までのようには会えないかもしれない。そう思ったらまた頭が酷く痛んだ。
濡れた衣服は、俺の体温をみるみるうちに奪っていく。まるで忌み嫌われた黒猫のような仕打ちだと思ったら、自然と乾いた笑みが零れた。水を掛けられただけなら良かったのかもしれない。その場で取り押さえられ、幕府に突き出される可能性だってあったのだ。それに何より、名前について何も触れてこなかったのは、幸いだった。

ふらふらと覚束ない足取りで人通りのない裏道を歩いていると、背後から激しく息切れをする女の声が聞こえてきた。俺はそっと振り返る。するとそこには大きく肩を揺らす名前が居た。
ゆっくり自らの足元を見下ろすと、そこには小さな水溜りがあった。恐らくそれは、俺の足跡のように、はたまた影のように、ここまで着いて来たものだったのだろう。それを辿ってきた名前は、俺をその大きな目に映し、震える体で俺に勢いよく抱き着いた。
俺はそっと耳元で、濡れてしまうぞ、と囁く。名前は構わないと言わんばかりに、更に力強く、俺の着物を己の腕で包みこんだ。そして、ただひたすらに、ごめんなさいごめんなさい、と、呪文のように呟き続けていたのである。


「お前も、知らなかったのか。俺の正体を。」


名前は、微かに首を横に振る。


「知っていて俺にあのような事を?」
「私は父のような考えを、持ち合わせてはいないのです。どうか父の無礼を、お許し下さい…。」


名前は涙の溜まった瞳で、俺を見上げた。
俺は名前の頬にそっと手を添えて、出来る限りの安らぎを込めて、微笑む。名前は睫毛を揺らして、瞳を閉じる。すると綺麗な涙が頬を伝っていった。まだ桜色の頬だった。俺はゆっくりとその頬に口づける。その当時はまだ、この桜色が雪のように変化するなどとは、考えもしなかったのだ。季節はずれの桜を、俺はただひたすらに、慈しんだ。


しばらくの間、名前は俺の隠れ家へと足を運び続け、そこで逢瀬を重ねていた。
しかし名前はある日を境に、ぱたりと俺の前から姿を消した。妙な、胸騒ぎがした。自ら名前の元へと出向く事が出来ない俺は、もともと名前と顔見知りであった銀時に、様子を伺って欲しいと頼みこんだ。
数日後、銀時は俺に告げた。名前は今、病に侵され、床に臥していると。

生まれつき身体が弱かった名前である。この状況がどれほどの意味を持つのかわからぬほど、医学に疎い俺ではない。俺はそれからすぐに名前の家へと向かった。表口からの侵入を許されぬ俺は、裏口に回り、罪の意識を感じながらも名前の部屋へと歩みを進めた。
俺の姿を見た名前の表情を、俺は忘れる事が出来ない。そこには絶望と、悲しみと、少しの喜びがあった。もしかすると恥じらいも含まれていたかもしれない。
だが、絶望を感じたのは俺も一緒だ。名前は全身が雪のようだった。俺の見た桜は、もうそこには存在していなかった。俺と名前の間でだけ、季節が足早に過ぎて行ってしまったかのようだった。

名前は俺を見るたびに言った。私はもうすぐ居なくなるのです、と。そして笑って、貴方のために、と付け加えた。
俺はそれを聞けば聞くほど、彼女の存在を重く深く感じるようになっていた。

そんな名前に最後に会ったのは、もう一か月近く前の話である。
言われてしまったのだ。しばらく、会いに来ないで欲しいと。
しばらく?しばらくとはどれほどの時間の事だ?自分で言ったのではないか。もうすぐ居なくなると。

それは名前からの、別れの言葉だと、思っていた。
だから俺は今、彼女からの急な手紙に、胸をざわめかせていたのだ。







夕日に侵された街は、恐ろしい程に真っ赤だった。家屋も、道も、人も、自分も。そして俺の記憶でさえも、真っ赤に染め上げていた。
朦朧とする意識は、蜃気楼の中を彷徨っているかのようだ。俺は何故、今此処にいるのかわからない。俺は名前の家へと向かっていたのではないか。なら此処は一体何処だ。
―――何故こんなにも、真っ赤に染まった、太陽の下に。
飛び立った烏の群れが太陽を覆い、一瞬にして夜が訪れた。




俺は声を上げる。掠れた、声だった。叫んだ名は、名前のものだった。

はっきりと戻った意識と眼に映ったものは、先程まで見ていた夕日よりも更に赤く染まった名前の姿であった。
名前は胸元を真っ赤にして、俺の目の前に横たわっている。俺は理解した。あぁ、名前は、散って行ってしまったのだと。
名前の侵されていた病は結核だったのか。胸元をこんなに血で染め上げて、さぞかし最後は苦しかっただろう。俺は意識が戻る前から、名前の手を握っていたように思える。だんだんと体温を失う身体は、掌だけに、温度を残していた。
俺はそっと、雪の頬に触れた。真っ白な雪には、模様のように赤が散っていて、それを拭うように指を動かした。点々と散っていた赤は、俺が触れると、塗料を塗ったかのようにべたりと張り付いた。
俺は己の掌をみた。そこは、恐ろしい程に、血に濡れている。


だんだんだん、と、何者かが階段を駆け上がる音がした。俺が振りむくと同時に部屋の扉は勢いよく開き、そこには息を切らした銀時が立っていた。銀時は名前を見るなり息を飲み、そしてそのまま俺を見た。その瞳は、俺の知っている銀時のものではなかった。
俺は名前の髪を撫でながら、口を開く。


「名前が、死んでしまったよ。俺を置いて一人、行ってしまった。」


銀時は目を見開き、口をぱくぱくと金魚のように動かして、身体を大きく震わせる。


「死んで、しまった…?お前…何言ってんだ…」
「名前は、結核だったらしい。だから俺に、もう会いに来るななどと言ったのかもしれんな。」
「お前…気でも狂ったのか?」
「…何をいっているのだ、銀時。俺は正気だ。」
「死んだんじゃねぇだろ…お前が殺したんだろ!!」


その時、部屋の中に悲鳴が木霊した。空気が割れんばかりのその声は、銀時の後ろから顔を出した名前の母親が上げたものだった。その隣の父親は、声も無く、ただ立ち尽くしている。
俺はその二人に視線をやった後、すぐに名前へと振り返った。


「てめぇがすげぇ形相で此処に走って行くのを神楽が見たっていうから来てみりゃ…何でだよ…どうして殺した!」


俺は名前の血濡れた胸元を見る。するとその少し上、首元には先程までは見え無かったものがあった。
―――これは、俺の、刀だ。
俺の刀は名前の上に、墓標のように刺さっていた。

俺は急いで懐から先の手紙を取り出す。するとそこには、散って行ったはずの文字が、綺麗に整列して乗っていた。


あぁ、
「思い、だした。」








「桂小太郎様。
拝啓 行く春が惜しまれる今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。私は、貴方を思いながら、残り少ない日々を送っています。
先日ふと、唐突ながら貴方との出会いについて思い出しました。
私は思います。貴方との出会いは偶然でした。しかし私が貴方を愛したのは、当たり前の必然だったと。
そしてその当たり前が貴方を苦しめていたのです。

もし、貴方の人生を狂わせてしまった忌まわしき者が私であるのなら、私はこの命を捨てる事でしか、貴方に許しを請う事は出来ないのです。

最後に私の願いを聞いては貰えないでしょうか。私の命は時間が経てば、自然と消え逝くものです。しかしそれでは切なすぎるのです。
私の人生を終わらせるのは貴方であって欲しい。私は貴方のそのいつも傍らに携えている刀で、この命に終止符を打ちたいのです。
もし貴方がこの手紙を読み、心を動かされたのならば、早く、私の元に来て下さい。私にとって、貴方の存在だけが、生きる理由なのですから。

木の芽時は体調を崩しやすいとのこと。くれぐれもお体を大切に。

敬具

苗字名前」







名前の瞳に俺が映った時、そのくすんだビー玉のような瞳は最後の輝きを放った。
俺は名前の横たわる布団の脇に膝を着き、滑らかさを失った髪に触れる。名前はまだ温かかった手で、俺の腕を握った。


「…来てくれたのですね。」
「あぁ、俺はお前の頼みだったら何だって聞くさ。」
「すごく、嬉しいです。」
「名前、お前は俺の太陽だった。」
「そんなお世辞、最後にはふさわしくない。」
「お世辞じゃない。そこに居るのが、当然だったんだ。そんなお前が居なくなるなんて、信じ難いな。」
「大丈夫です。陽はまた、昇りますから。」


俺の慈しんだ名前に、俺は自ら愛刀を振りかざしたのだ。
首元に突き刺した刀は気道に穴を開け、そこからは夥しい量の血が溢れ出した。栓を知らないそれは、湧き出る湯のように後を絶たない。
名前はしばらく生きていた。そして、言った。死んでも、愛していると。
その音が、口から出たものなのか、穴の開いた喉から出たものなのかはわからない。それでも俺は幸せだと思った。



名前は俺の太陽だった。名前は沈んで行った。だけどまた、きっと昇るのであろう。







父親が叫んでいた。人殺し!人殺し!と。娘を返せとも言っていた。
いつかと同じ光景だと思った。
だけど俺の髪は水ではなく、真っ赤な血で濡れていた。




名前は笑っていた。そして俺も笑っていた。