ジリジリと、蝉が鳴く暑い昼下がりです。何処に居るのか姿も見えませんが、五月蝿いくらいのその鳴き声はきっと、一匹や二匹ではないでしょう。
歩道の脇には背の高い向日葵が、列を成して咲いています。低い太陽の光を浴びた黄色い花弁は、空を見上げているようです。
私は白い絹のワンピースを身に纏い、それと同様に真っ白なレースの日傘を翳していました。日差しを遮っているとは言え、暑さまでも防ぐことは出来ません。コンクリートで覆われたこの街の地には、陽炎がゆらゆらと揺れていました。

汗が首筋を伝います。蝉や向日葵のように強くはない私ですから、歩みは覚束ず、意識も何処か遠くへ彷徨うようでした。
俯いた視線を上げると、そこには踏切が見えました。線路の発する熱でコンクリート以上に陽炎が揺れています。カンカンカン、と赤い光が点滅を始め、黄色と黒の遮断機がゆっくりと下降してきました。
私は思います。踏切とは、真夏によく似たものだと。赤い光は低いが炎暑を齎す太陽で、黄色と黒は背の高い向日葵です。カンカンカンと鳴る警報は、五月蝿い蝉の鳴き声といったところでしょうか。
ぼうっとそんな事を考えていた私は、踏切の向こう側に黒い影を見つけました。掠れる視界に目を凝らして見ると、それは影ではなく僧衣を纏った人でした。よく見ると網代笠を被っています。

私の脳裏に一瞬、ある人物が浮かびました。もう、遥か昔に出会った人です。ここ数年は思い出す事もありませんでしたが、度々報道番組で見掛けていました。
私は久しく思い出す事も無かったその人を、急に回顧しだした事に妙な胸騒ぎを覚えました。
刻一刻と、電車の近付く音が聞こえてきます。目の前の僧は俯いたまま、陽炎と共に揺れていました。私は踏切と自分の翳した日傘の間に、その人を見据え続けます。
高速で走る象牙色と草色の車体がもうすぐそこまで来たとき、その人は網代笠に手を掛け目線を上げました。隠れていた顔が、有耶無耶な景色の中はっきりと見て取れます。

私は目を見開きました。そして彼も同じように、息を飲んでいたように感じます。
その瞬間、電車が私達の間を走りぬけ、巻き起こした風が私のワンピースの裾を躍らせます。

車窓がまるでフィルムのように、私の記憶を、蘇らせました。














彼と初めて出会ったのは、今日と同じような知らぬうちに汗が滴る暑い白昼の事でした。
彼は今と同じように僧衣を纏って、人の少ない脇道に腰を下ろしていました。
その場所には私と彼と、隅に咲いたドクダミの花しか存在していませんでした。そこは家と家との間の道で、日蔭ではありますが湿気が酷く、ドクダミの独特な臭気が蔓延しています。お世辞にも、居心地の良い場所とは言えません。
私はその近くの旅館で仲居をしておりましたが、その日は偶然にも休みを頂いていて、ふらりと外出をしたところでした。
彼は何をするわけでもなく、ただ俯いていました。私はなんとなく、その人が僧ではないとわかっていました。長い髪が網代笠から垂れ下がっていて、とてもそれが不自然でしたから。

いつもより身形に気を利かせていたからでしょうか。ドクダミの香りに酔っていたからでしょうか。不意に男、という生き物に触れてみたくなりました。私にはおもいびと、など居ませんでしたし、男に出会う機会すら日常生活の中では多くは無かったのです。
私はその男、に声を掛けました。



「お坊さん、暑くはありませんか。」



当たり障りのない、言葉を選んだつもりでした。全身黒を纏ったその姿は正直暑苦しかったですし、実際に本人も体温の限界を感じていたのだと思います。
少し身じろいだ男はこめかみから汗を一筋流し、口を開きました。



「…心頭滅却すれば火もまた涼し。男子たるものこれくらいの苦難に耐えられねば、大事は成せぬというもの。」

「大事?お坊さんが大事を成すんですか?」

「…貴殿には関係の無い事だ。」



やはりこの人は、僧などではありません。修行僧の真似事をしているのかもしれませんが、そんなもの此処で行う意味がないのです。私はぼんやりと、何か事情を抱えているのかもしれないと思いました。
私は膝を折り、地面に腰を下ろしている男の前に屈みます。そしてそっと網代笠の中を覗き込むと、そこにはまだ幼さの残る青年の顔がありました。
恐らく私よりも若いであろうその男は、汗で額に張り付いた前髪とは裏腹に涼しげな瞳をしていました。
目が合い、数秒見つめ合います。はっとした私は持っていた巾着からハンカチを出し、男に差し出しました。彼は険しい顔をして、花の刺繍を施したそれを見ています。



「受け取って下さい。汗、拭かないと。」

「いや、受け取るわけにはいかない。」

「返さなくても大丈夫ですから。」

「しかし…」



男は困ったように私の申し出を断りました。しかしそれは嫌悪感から来るものではなく、単なる遠慮だろうと悟った私は、なら…と言葉を続けました。
暑さは彼だけではなく、私の事も同じように襲うのです。



「私はこの近くの旅館で住み込みで働いています。良ければ来ませんか?お茶くらいなら出せます。」

「旅館に逗留するわけにはいかぬのだ。」

「部屋を取れと言っているのではありません。私の部屋に来ませんかと誘っているのです。
このままだと貴方、暑さで倒れてしまうでしょ?
それに此処は、居座るには不愉快すぎる。」

「だが…」

「遠慮はいりません。これもおもてなしの一環ですから。」

「……。」



彼は眉を下げて膝を伸ばした私を見上げます。もう一押しだと感じた私は捲し立てる様に、彼の腕を掴みました。



「さぁ、早く。」

「…茶は、冷茶か?」



彼のその言葉に私はくすりと笑い、当たり前でしょうと、歩みを進めました。

理由など、なんでも良かったのです。全ては暑さと、ドクダミの臭気の所為なのですから。






彼は名を、桂小太郎と言いました。攘夷志士だと身分を明かしましたが、私はその攘夷志士というものがどういった役職なのか見当もつかなかったので、さして気にもしませんでした。
私がそう言うと彼は、それは都合が良いことだ、と少し驚いていたようですが、その後に革命家だと思ってくれれば良い、と静かに呟きました。


私は彼に惹かれていたのだと思います。真夏の炎天下の中、全身に黒を纏い、長い髪を垂れ流し、汗を滴らせていた彼のその哀愁漂う雰囲気に。
予想通り年下であった彼ですが、涼しげな表情以外に青年らしさを感じさせるものは、持ち合わせていないようでした。
私などでは分かり得ない、過去、というものを背負っているのだと、ぼんやりと思っていました。
彼にそれを直接聞いた事はありません。今でもその事を後悔したことなんて、一度も無いのです。そこで彼の過去を聞いていても聞かなくても、私と彼の関係は何も変わらなかったでしょう。その時私は本当に、彼を愛していたのですから。


彼との逢瀬は秋になっても続きました。冷茶を飲みに来る、という言い訳はもう通用しなくなっていましたが、彼はふらりと私の部屋に現われました。

しばらくして、私は気づいた事があります。彼が私の部屋にやってくる時、必ずと言って良いほど外はパトカーの走る音で五月蝿くなるのです。赤い光が窓を擦り抜け部屋の中まで侵入してきた時、私は理由の分からぬ不安に駆られていました。赤が彼の横顔を染めます。早く過ぎ去って欲しいと、切に願いました。彼は窓の外を見つめたまま、五月蝿いな、と呟きました。私はそんな彼の言葉に、そうね、としか返せなかったのです。
そのパトカーが彼を追っていたなんて、どうして想像出来ましょう。唸るサイレンの音が、彼の鼓動を早くしていたなんて、想像したくもなかったのです。
五月蝿い音に私は彼の耳を塞ぎました。彼は驚いたように目を見開きましたが、私はその手を離す事はしませんでした。しばらく無音の世界に居る彼と、サイレンに耳を犯される私は見つめあいました。彼はそっと私の手首を掴み、自らの耳からその掌を離します。もうかなり遠くなっていたサイレンは彼の耳に届いたのでしょうか。彼は私の手首を掴んだまま、そっと口付けをしました。その時にはもう、二人の耳には何の音も届かなかったのです。

私は彼を革命家だと思っていました。なら、どうしてパトカーの赤い光が怖かったのでしょう。彼の耳にサイレンの音が入らないようにしたのでしょう。
それは今でも、わからないことです。





彼は一度、私の部屋に五日間ほど寄宿したことがありました。私の部屋は旅館の中にありましたので、彼を一人にしておくことは出来ません。私は仕事を休み、その五日間部屋を出る事を極力避けるように注意を払いました。
壁の薄いこの部屋は、隣に住む仲居仲間の生活音がだだ洩れです。きっと私達の暮らす音だって筒抜けなんだろうと思うと、とても妙な高まりを覚えました。




「名前ちゃん、朝ごはん持って来たわよ。」




朝昼晩と女将が、食事を持って部屋を訪ねて来ました。酷い風邪をひいたのだ、と言っていた私の部屋の戸を開けることを、女将はしません。
女将の声で目覚めた私は、ありがとうございました、と掠れる声で礼を言いました。風邪など本当はひいていませんから、枯れた声は、作った偽物です。
戸の前に食器を置いたであろうカシャンという音が聞こえて来たかと思うと、女将は口を開きました。



「風邪大丈夫?」

「はい。だいぶ、良くなりました。ご迷惑お掛けして、本当にすみません。」



私は隣で眠る彼を起こさぬように、彼に背を向け零す様に答えました。普段はそれで立ち去る女将ですが、何故か今日はその場から退く気配がありません。私は剣呑なその空気に、背中が汗で湿るのを感じます。掛けていた布団の端を握りしめ、早く女将が仕事に戻るのを待ち続けました。
しかし女将は口を再び開きます。



「ねぇ名前ちゃん、こんな噂を知っているかしら。」

「なんでしょう。」

「この辺りにね、攘夷浪士が潜伏して居るらしいの。」



私はびくりと身体を震わせました。上半身を捻り、肘を布団に着くようにして身体を少し起き上がらせます。
女将の視線が、扉越しに伝わるようです。きっと女将は扉をじっと見据えているに違いありません。女将に透視能力が備わっているとは到底思えませんが、それでも私はその言葉に何処か疑いの念を感じずには居られませんでした。



「…それは初耳です。しかし一体どうして、私にそんな事を話すんですか。」



私は声が震えないように、低い声色で尋ねました。布団に着いた肘が痺れを訴え始めます。



「理由なんて、無いのよ。ただ、とても危険な人達らしいから気を付けたほうが良いと思ってね、一応耳に入れておいたのよ。」



私は女将のその言葉に眉を顰めます。攘夷志士のことなんて私同様何も知らないであろう人間に、何の根拠もなく危険な人物、と言われた事に腹が立ちました。
私は一言文句を言ってやろうと息を吸い込みます。しかしその息は不意に自分の耳朶に触れた柔らかい感触の所為で、喉に張り付いたままに終わりました。
私はその感触にひっと喉を鳴らし、身体を強張らせます。しかし身体が動かせない理由は驚きや恐怖によるものでなく、自分の身体に圧し掛かった男の重みの所為だったのです。
私の背後から覆いかぶさるように体重を掛けた桂は、そっと私の耳朶を口に含んで私の言葉を遮りました。



「わかりました。注意、しておきます。」



私がそれだけ言うと、女将は何故かありがとうね、とお礼を言い、その場を去りました。
女将の立ち去る足音が聞こえなくなったと同時に、私は覆いかぶさって居た体温を力一杯押しのけます。
振り返り男の方を向くと桂は何食わぬ顔でこちらをじっと見ていました。私はその視線に負けぬよう、睨むように見つめ返します。



「…どういうつもり。」

「何がだ。」

「しらばっくれたって意味無いわよ。」

「俺は、お前の口を身を挺して塞いだまでだ。」



桂はそう言うと、身を沈めていた布団から抜け出し扉を開けて、置いてあった朝食をさっと室内に持ち込みました。私は乱れた髪を手で梳かしてその様子を横目で伺います。



「お前は、何を言われても気にしなくて良い。」



桂は私に背を向けたまま、そう呟きました。



「俺や、他の攘夷志士が何を言われようとも、お前が息巻くことはないのだ。お前は何も知らなくていいし、これ以上こちらの世界に足を踏み込む必要はない。」

「その言い方、まるで私に釘を刺しているようね。後々貴方に不都合な事が起きないように。」

「そういうわけではない。ただ俺はお前に、…名前に、普通の生活を送って欲しいだけだ。」

「…そんな事、貴方が気にする事じゃないでしょ。」

「巻き込んだのは俺だ。だから俺は、」

「それは違う。私は最初から巻き込まれてなんかいなかった。」




私は彼との関係に耽溺していました。彼の正体が攘夷志士という名の指名手配犯だと知ったのは、彼と今のような関係になってから随分経った後でしたが、それでも私は彼を愛しいと思い続けていました。
先に夢中になったのは私です。彼を絡め取ったのは私のほうでした。しかしこの頃にはそれが、逆転していたのだと思います。彼は私に少なからず依存していました。それは私の人間性だけではなく、私を取り巻く環境もあったのかもしれません。どちらにせよ彼が、私を必要としていた事には間違いありませんでした。



「私は巻き込まれたんじゃない。貴方を巻き込んだのよ。」









私に縁談の話が舞い込んで来たのは、少し寒さを感じるような秋も更けた頃でした。
年頃を過ぎた娘を心配する親心が災いした、出来事でした。断る術など、端からありはしなかったのです。
私は桂に泣きつきました。私を助けて欲しいと。少し前の私だったらこの縁談を何の戸惑いもなく受けていたでしょう。だけど今は違います。私は桂を愛していましたし、もっと沢山の時間を彼と過ごしたいと思っていました。
だけど桂は、私を助けることはしませんでした。



「一緒に逃げてくれてもいいじゃない…」

「…。」

「私が知らない男の所に嫁いでも、貴方は何とも思わないの?」

「…すまない。」

「革命家なんでしょ!どうにかしてよ!なんで何もしてくれないのよ!」



私は半ば正気を失いながら彼の胸を拳で叩き続けました。しかし彼は私の肩を掴みその身体を支えるだけで何も言ってはくれませんでした。
私は知っています。泣きじゃくる私を見ていた彼の目が、とても潤んでいた事を。零れ落ちんばかりの滴は、眼球を覆うように薄く膜に姿を変えていましたが、それが涙だという事は深読みせずともわかることでした。
彼がやはり私を必要としていたのは間違いないことだったのです。だけどそれと同様に、彼は私に普通の女としての幸せを与えたいと思っていたようです。

彼は何も分かっていませんでした。女の幸せは、心底愛した相手に一生添い遂げることなのです。なのに彼は、私からそれを奪いました。幸せの意味を履き違えて、私から幸せを奪ったのです。
私は桂がどんな罪を犯していたって構わなかったのです。彼がパトカーに追われて、赤い光と五月蝿いサイレンに脅えて居たって、そんなもの、どうってことなかったのです。
私は、桂が居ればそれで良かった。犯罪者にだってきっとなれましたし、攘夷志士にだってなれたでしょう。でも桂はそれを許しはしませんでした。

彼にとっての無意識の行動を、私は破り捨てる事が出来なかったのです。










私が彼に会ったのはその日が最後でした。
そして今日、彼は走る電車の向こう側に居ます。
私は廻った記憶に終止符を打って、車体が途切れるのを待ちました。彼は一体どんな顔でそこに立っているのでしょう。すれ違う時、何か声をかけても良いのでしょうか。それとも、知らぬふりをした方が、互いの為なのでしょうか。
私は思考を巡らせました。

しかし電車が走り去った後の、踏切の向こうに彼の姿はありませんでした。
私は拍子抜けして、肩の力が抜けたのと同時に笑いを零しました。一人、思い出に浸って少なからず緊張していたことが、とても間抜けな事に思えたのです。
もう彼は過去の人です。ただの記憶でしかないのです。私には愛していない夫がおりますし、子供だっているのです。もちろん子供は愛しています。私の子供ですから。

私は未だ蝉の鳴き声が五月蝿い踏切を渡りました。太陽は相変わらず焼け付くように照りつけています。
太陽も蝉も、彼と出会ったあの日と一緒なのに、何処か別物に感じるのは、どうしてでしょう。


コンクリートの道を歩いていると、ふわりと、ドクダミの匂いが鼻に付きました。私は勢いよく振り返ります。するとそこには、コンクリートの隙間から芽を出した、ドクダミの花が咲いていたのです。
私は頬を涙が伝うのを感じました。その涙は止まらず、コンクリートに染み込んでいきます。


何故匂いというものは、人の記憶をより濃く蘇らせるのでしょうか。
ドクダミは、私の彼に対する思いも蘇らせました。私はドクダミの臭気に、また溺れるのです。




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