腹が、立つ。腹が立ち過ぎて、冷静さなんか保っていられなかった。
俺は掌の中にある本を閉じる。本は、こんな気分の時に読むものじゃない。
理由のわからない苛立ちは、俺を不愉快にさせるばかりだ。

放課後の教室には俺と、ただ一つ、机の上に置かれた鞄があるだけだった。あの鞄の持ち主を俺は知っている。だけど、良くは知らない。わかるのは顔と名前くらいだ。それ以上を知る必要なんて、ないと思っている。

俺はあの鞄の持ち主が嫌いだ。奴は俺を小馬鹿にしている。あいつの俺に向ける視線が酷く不快だった。
あいつは俺の机の前を通るとき、わざと短いスカートを、波のように揺らす。俺はその度にちらりと見える太腿から目線を外さなければならなくなる。そんな俺に、あいつはクスッと笑ってその場を去るのだ。
俺にはその笑いの意味も、ひらりと揺れたスカートの訳もわからない。ただあいつがそれを意図的に行っているという事は理解出来た。

あいつのその悪ふざけは俺をどんどん苦しめ、苛立たせた。
ある日、あいつと廊下ですれ違った事があった。あいつは俺が前方から歩いてくるのを視界に入れると、まるで探していたアクセサリーを見つけたとでもいうようにパッと顔を輝かせた。そしてその瞳は、すぐに俺の嫌いなあの視線を発した。
俺は小さく舌打ちをし、下を向いて歩を進めた。するとあいつは、俺とすれ違う瞬間長い黒髪をさっと振り乱したのだ。甘い、女独特の香りが俺の鼻腔を擽り、俺は咄嗟に振りかえった。すると奴はあの、不気味で腹立たしい笑みを浮かべてそこに立っていた。俺はその状況に言葉を失って、ただただ自らの拳を強く握りしめた。そんな俺を見て奴は何も言わず、またクスッと笑ってその場を去った。


俺はこれ見よがしに佇んでいる奴の鞄を睨みつける。あの鞄がここに置いてある理由なんか、考えなくてもわかってしまい、それもまた気に食わなかった。
俺は自分の鞄に閉じた本をしまい、席を立つ。日が暮れる前に帰った方が、身のためだ。それもまた、わかりきったこと。

歩きだした俺は、ふと奴の机の前を通る際、その鞄のチャックが開いていることに気がついた。
不用心極まりないと思った。中身を晒して放置する間抜けが何処にいる。いや、現に目の前にそんな間抜けの物になってしまった可哀想な鞄が居るわけなのだが…。
俺は渋々、本当に嫌々、そのチャックに手を掛けた。この鞄に落ち度はない。持ち主に危機管理をする能力が欠けていただけだ。鞄は被害者なのだ。俺はその哀れな鞄を慰めてやろうとしているだけだ。
一人ぶつぶつと心中で呟いているとその鞄の中に一枚の紙切れを見つけ、そこに書いてある文字に目を疑った。
その二つに折られた紙切れには、俺の名前が書いてある。確かに"桂くん"と書いてあった。俺はそのわざとらしくすべての荷物の一番上に君臨していた紙切れを、恐る恐る手に取った。
見てはいけない気はしていた。見たらまた、腹が立つだけだと。だけど俺はそれを手にせざるを得なかった。その紙切れは俺に読んで欲しいと言っている気がしたのだ。それは、あいつが俺を不機嫌にさせるのと同じくらい必然なことだった。

俺は折られたそれを開いて中に書いてある文字に目を通し、すぐにそれをぐしゃぐしゃに丸める。そこにはたった一言、"図書室"と書いてあった。
俺はその丸まった紙をポケットに入れ教室を飛び出した。




「あれ、ヅラまだ居たの?」

「ヅラじゃありません、桂です。」




廊下をずかずかと大股で歩いていると、前からだらしなく白衣を着崩した銀八先生がやってきた。そういえばあいつは先生のお気に入りだったな、と思いだして自然と歩を速めた。




「なになに、すげぇ機嫌悪いじゃん。眉間に皺寄ってっけど。」

「えぇそうです。俺は今、酷く機嫌が悪い。では、先生さようなら。」




俺がぶっきら棒にそう言い通り過ぎると、後ろで変な奴、とかなんとか言っていた。
あぁ、そうだ。俺は変なやつだ。変じゃなかったら、俺は今頃家路に着いている。なのにそれをしないのは、少なからず思考に異変が生じたからだ。
あんなやつになにをされたって放っておけば置けばよかったものを、俺は自分の怒りを抑えることが出来なくなった。
あの視線にも、髪の匂いにも、揺れた向こうの太腿にも、もう我慢ならなかった。
だけど、よく考えたら我慢なんてする必要、最初からなかったのだ。最初から、ガツンと一言言ってやればよかったんだ。俺をからかうのはもうやめろと。
今更言っても既に効果はないかもしれないが、紙に書かれたその場所に、俺は身を投ずる。



放課後の図書室には、まばらだが思っていたよりも人の姿があった。俺は奴を探して室内を歩きまわる。
閲覧用のテーブルに奴の姿はなく、本棚と本棚の間を覗き込むように探し回った。
すると一番奥の、誰の目にもつかないような場所に奴はいた。奴は本を手に取るわけでもなく、高さのある本棚に自らの背を預けてそこに立っていた。
奴は俺を見つけるとあの輝きを表情に宿し、何故だか俺に背を向け駆け出した。
俺は咄嗟にその背を追う。奴は迷路のように続く本棚の間を巧みにすり抜け、俺との距離を離して行った。時折後ろを振り向いて、俺の嫌いな視線を投げかけた。まるで俺が追いかけてくるのは当たり前だとでも言いたげな視線だった。俺はそれをまた憎たらしいと思い、上履きを擦るように後を着けて行く。

ふとその姿を見失った。俺は前後左右を見渡して奴を探す。すると奴は図書室の出口から身体を半分出してこちらを見ながら、俺に手招きをしていた。その態度を見て頭に血が上った俺は、奴を捕える勢いで走りだした。

図書室から出て行った奴は、髪とスカートを振り乱しながら廊下を駆け抜けていた。姿を眩ます本棚が無くなったこの状況では俺の方が一枚上手だ。
徐々に縮めた距離は階段の踊り場でゼロになり、俺はその肩を勢いよく掴んでこちらを向かせた。奴はその反動でバランスを崩し、壁に背を預ける事で体制を保つ。
お互い息が切れていた俺たちは呼吸を整える数秒、無言で見つめあった。俺は奴を睨みつけているつもりであったから、見つめあったという形容は間違っているかもしれないが。




「貴様…俺を馬鹿にするのも大概にしろ…」




奴は俺の言葉を聞いていないのか、俺の目を見つめ続けるばかりだった。俺は肩を掴んでいた手に少し力を入れる。




「何か、言ったらどうなんだ。」

「……。」

「聞こえていないのか?」

「馬鹿になんかしてないよ。」

「嘘を吐くな。」

「本当だよ。」

「嘘だ!」




俺は声を張り上げた。すると奴は一瞬目を見開いたが、すぐにその瞳は見慣れた色を宿して、俺をじっとりと見据える。俺はその目を見ていられなくて、少しだけ目線を外した。クスッと奴の笑う声が聞こえる。咄嗟に目線を戻すと、奴はもう一度、笑った。




「…何がおかしい。」

「桂くんかわいいね。」

「何?」

「桂くんいいよ。」

「…貴様」

「やっぱり桂くんは、すごくいい。」




俺を見つめるその目は、人を馬鹿にしたような目ではなかった。思春期の男子が女子を見る目でも、女子が二枚目の先輩を見る目でもない。
いうならば、高くて手に入らないダイヤを、透明のケース越しに見ている、そんな感じだ。
俺はこいつがますますわからなくなる。俺にとってはあいつが俺をどんな目で見ようが知ったこっちゃないし、その目が俺にとって不愉快であることは変わりない事実なのだ。
もうむしゃくしゃしてどうしたらいいのかわからなくなった俺は、何の考えもなしに一番気に障ったものを乱暴に扱った。
一番気に入らないのはもちろん奴の眼だがそれを取り出すことは出来ない。その状況で俺の機嫌を損ねたのは真っ赤な奴のスカーフだった。
胸元を華やかに飾っていたそのスカーフを力任せに引っ張ると、それはするりといとも簡単に解け床に落ちた。
俺は、衝動に任せてとったこの行動を少し悔やんだ。傍から見たらまるで俺が女子生徒を襲っているみたいだ。
スカーフがなくなったセーラー服は、見慣れないものだった。俺はそのまま動けずに、床にある真っ赤なスカーフを見つめる。真っ赤に広がるそれはまるで血液のようで、俺は犯罪者のような気分になる。証拠を隠滅しなければと躍起になる犯人の気持ちが、今だけはわかるような気がした。
動かない俺に奴は笑った。
俺はその声に顔を上げる。





「どうする?」

「……っ」

「ねぇ桂くん、どうする?」





奴は面白おかしいといった様子で、俺を見ていた。何も答えない俺に奴はどうしようと思ったの?なんて聞いてくる。
俺はこいつにしてやられたのだ。
俺の機嫌を損ねたのも、俺を不愉快にしたのも、こいつの思惑通り。こいつは俺が奴の鞄を覗くことも知っていたし、図書室に来る事も分かっていた。そしてこうやって、俺がこいつのスカーフを奪う事も。

奴は壁と俺の間から巧みに抜けだし、そのまま何処かに消えた。そこには俺と、真っ赤なスカーフという名の証拠だけが残された。


俺はスカーフを拾い上げ、力いっぱい引き千切った。憎たらしくて不愉快で、本当に腹立たしいばかりだけど、奴のあの目が馬鹿みたいに脳裏に浮かぶのはなぜだろうか。
あいつの眼が、スカートが、太腿が、髪の匂いが、あの笑みが、気になって仕様がないのはどうしてだろう。


そんなのただの、若気の至り。

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -