そんなある日、私が荷物をまとめる二か月前です。私は偶然駅前で銀八先生に会いました。
銀八先生はちょうど出張から帰って来た所らしく、用事も特になかった私は先生を連れて近くのカフェに行きました。
久しぶりに会った元教え子と教師の間では意外と会話が尽きないもので、私は先生を質問攻めにしました。どうやらまだ結婚はしていないそうです。

「そうだ、先生。私今ね、小太郎と一緒に暮らしてるんだ。」

「へー、いつから?」

「二年前くらいかな?」

「じゃあ結婚すんだ、お前ら。」

「え?」

「すんだろ?だから一緒に暮らしてるんじゃねぇの?」

私はココアの入ったカップを持ったまま動けなくなってしまいました。だって先生が言ったようなことを考えた事がなかったのですから。私は呆気にとられてしまいました。

「しない、と思う。」

「へ?しないのに一緒に暮らしてんのか。」

「うん。」

「なんで。」

「…だってそんな事、考えた事もなかったよ。私はただ小太郎と一緒に居たくて、一緒に居ないと不安になるから一緒に暮らそうって言って。それで今は一緒に居られるからすごく幸せなの。だから…」

「そうしたらその先は結婚じゃないの。」

「…え?」

「じゃあお前はあいつの何になりたいの。」

私は先生のその言葉に目の前が真っ暗になるような気がしたのです。
私は彼の何になりたいのか。…私は一体彼の何になりたいのでしょうか。
きっと高校生だった頃の私なら、彼のお姫様になりたいの、とでも言っていたでしょう。あの頃の私は子供だったのですから。でも私はもう高校生ではありません。子どもと大人の境目なんてどこだか分りませんが、一つ確信をもって言えるのは、私はもう子供ではないということです。私が子供ではないという事は、彼も当然子供ではないということです。だから彼に、私は貴方のお姫様になりたい、なんて言えるはずがないのです。
だけど私は彼に、貴方のお嫁さんになりたい、とも言えないのです。何故ならそれは違う気がしたからです。だって私は彼のお嫁さんになって、夫婦になって、いつか空気のような存在になってしまうのは嫌だったのだから。いつまでも、あの、高校生の時に感じた幸福を味わっていたいのです。放課後の教室で交わしたキスを、いつまでもしていたいのです。
きっと私は彼の、一番で居たかったのです。


私は彼の一番のまま、彼の前から消えたいと思いました。


私は銀八先生と別れたあと、近所のスーパーによって夕飯の買い物をして帰りました。今日の晩御飯は彼の好物にするつもりです。


結局私が導いた答えは、数ヶ月後に荷物をまとめる事でした。







「ねぇ、小太郎。私ちょっと小太郎に似てきたと思わない?」

「どのあたりだ?」

「性格とか。」

「いや、似ていないだろう。」

「だって私小太郎が変なこと言ったりしても動揺しなくなったよ。それってきっと私が小太郎に似てきたって事だと思うの。」

「何を言っているんだ。俺は元々変なことなど言っていない。」

「え、あれ、じゃあ小太郎が私に似てきたのかな?」

「あぁ、きっとそうだ。俺がお前に染まったんだ。」

私はそんな事ないと思いました。彼が私色に染まることなんてありえないのです。恐らく、私が言ったように私が彼に似てしまったのです。彼に浸かりきってしまったのです。だから彼が突拍子もないことを言いだしても、私はもう平気だったのです。
その証拠に彼は私がこの部屋を出て行くと言った時、取り乱しもせずにたった一言そうか、と呟きました。もし彼が私色に染まっていたのなら、その場で泣き崩れ、髪を振り乱し、私の足に縋りつきながら行くなと言ったはずです。だけど彼はそれをしなかった。それどころか荷物の整理が大変だな、なんて少し微笑んだのです。
私はその呆気なさに少し悲しくなりましたが、同時に都合がいいと思いました。きっと彼が行くななんて言ったら私はこの部屋を出て行くことが出来なかったからです。だからこうやって、まるで長旅にでも出るかのような気持ちで荷物を片付けられたのは、私にとって有難いことでした。



大きな段ボールを車を何往復もさせ運び終えた後、私は手で運べる荷物をもって玄関に立ちました。これが最後の荷物であり、この部屋に入る最後の口実でした。

「これ、鍵。」

私は目の前に立つ彼に鍵を返しました。この間まではキーホルダーがついていたそれも今は何もない、ただの金属です。
彼はその鍵を受け取ると自分のポケットにしまいました。私は彼がその鍵を今後どうするのか気になりましたが、あえて何も聞きませんでした。

「大丈夫か。」

「ん?あぁ、荷物?これくらいだったら平気だよ。」

「違くて…」

「…え?」

彼は少し目を泳がせました。彼にしては珍しいこの行動の理由をすぐに理解した私は手に持っていた荷物を床に置き、彼に手を差し出しました。
彼は訳がわからないといった風に私を見つめ、私はそんな彼に微笑みました。

「手、握ってよ。」

「え?」

「ほら、早く。」

「あ、あぁ。」

私が言うままに、彼は私の手を握りました。私はその手を強く握り返し彼の顔を見つめました。

「ねぇ小太郎、覚えてる?私達こうやって付き合い始めたんだよ?」

彼は私の言葉に何度か瞬きをし、その後何かを悟ったように笑いました。

「そういうことか。あぁ覚えているさ。あの時は俺がこうやって手を差し出したんだ。」

「そうそう。私あの時小太郎が何してるのか全然わからなくてさ、一瞬怯んじゃったよ。でもあれが小太郎なりの返事だったってわかった時はすごく嬉しかった。
あれは覚えてる?一緒に放課後の教室で学校ごっこしたやつ。」

「覚えている。いつも名前が教師役で俺が生徒役だった。」

「だって小太郎難しい問題ばっか出すから私答えられないんだもん。」

「難しい顔をして考え込んでる名前が面白かったからつい苛めてしまったんだ。でも名前の描く絵もかなりの難問だったぞ?」

「それは小太郎が見る目なかったんでしょ?」

私達はお互いの手を握ったまま噴き出す様に笑いました。そしてその後私達は、言葉も発さずに互いの顔を見つめていました。
こうしていると昔の事が走馬灯のように思い出されます。それらはすべて色濃く私の中に残る、美しい思い出です。きっと彼は私のフォトフレームだったのでしょう。私の思い出を模り包み込む、無くてはならない存在だったのです。私はこれから彼をフォトフレームではなくアルバムにします。開かなければもう思い出せないけれど、そこにはすべての思い出が刻まれるはずです。

「そろそろ、行くね。」

「そうか。」

「もし私が忘れ物してたら捨てちゃって構わないから。」

「あぁ。」

私は握っていた手を離し、床に置いていた荷物を手に取りました。彼は私を送ろうと靴を履こうとしていましたが、私はそれを止めました。私は彼がこの部屋から出て、私と別れるのが嫌でした。彼はここに残るのです。彼はここに残って、クロの帰りを待つのです。そしてまた明日から、早ければ今夜から、私と出会う前の生活に戻る、それが一番良いと私は思いました。
でもこの部屋に女の人が入るのは、まだ先が良いな、と勝手なことを思いました。

「元気でね。」

「名前のほうこそ、病気には気をつけるんだぞ。」

「私は大丈夫だよ。小太郎も怪我しないでね。」

「心配はいらん。こう見えても丈夫に出来ているからな。」

「小太郎、…今まで、ありがとう。」

「…礼など、いらぬ。」

「お世話になりました。」

私は踵を返し、彼に背を向けました。そして目の前のドアノブに手をかけます。このドアノブをひねれば私達はもう、他人同士になります。私は自然と手が震えるのを感じました。
あぁ、いけない。このままでは悲しい別れになってしまう。どうしよう、どうしたら…
咄嗟に考えた私はドアと向き合った身体をもう一度返し、彼を見据えました。彼は私が背を向ける前と同じ表情を浮かべていました。そして私は背伸びをして高い位置にある彼の口に、キスをしたのです。
私は高校生だった頃のキスを思い出していました。あの頃は座っていた彼にキスをしたので私は背を曲げていましたが、今はその逆で必死に背伸びをしています。段差のある玄関では下に居る私と上にいる彼とでは身長の差があり過ぎました。
足が震えだして限界を感じた私は、彼から離れそのまま飛び出す様に部屋を出ました。
その直前に見えた彼は、不意打ちを喰らったような、私が見た事のない顔でした。


玄関を飛び出した私は、ドアの前で動けずに立ち竦んでいました。これでいいんだ、と自分に言い聞かせる事に必死になっていた私は、しばらく気付けなかったのです。ドアの向こうで聞こえる微かな嗚咽に。
私はそれが聞こえてきてすぐにドアに耳を付け、ドアに縋るように膝をつきました。


―――彼は一人、泣いていました


いつでも気丈に振る舞っていた彼は、私が共に暮らした部屋の中で一人、嗚咽を噛み殺して泣いていました。
その嗚咽の中、小さく私の名前を零していたような気がしましたがそれは私の思い違いだったかもしれません。

私は立ち上がり走り出しました。耳を塞いで駆け抜けました。それでも彼の嗚咽が私を追いかけて来るように、全身を纏っていました。



この世に、悲しくない別れなどあるのでしょうか。私は悲しくない別れを望んでいました。私は自分のために、あの部屋を出ることにしたのです。だから私が悲しむなんてありえないことでした。なのにどうしてでしょう。私は今、とても悲しいのです。悲しくて悲しくて、涙が梅雨の雨のように止まりませんでした。
彼も、こうやって泣いていたのでしょうか。そう考えると、また涙はとめどなく流れてきました。





―――「私はきっと、誰よりも有意義な学生生活を送って来たのだと思います。だって私の隣にはいつだって彼が居ました。何処に行くにも彼が一緒でした。私はそれだけで、いつだって幸せな気持ちになれたのです。」



もし、誰しもに青春、というものが巡ってくるのであれば、私のそれはきっと彼と過ごした日々でした。
彼に与えられ、そして与え、ともに築いたあの、毎日でした。

だから私は確信を持って言えるのです。


私の青春は、あなたの時代だったと。



これは私の


――"追憶"です




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