これは私の


"手紙"ですーー






桂小太郎と共に暮らし始めて三年目の春です。その日は雲ひとつない快晴で、旅たち、には最適な日和でした。
目の前の段ボールに荷物を詰めていた私はふと、手に持っていた赤いマグカップを眺めながら思い出します。桂小太郎を初めて見たのも、こんな、四月にしては暖かい、良い日だったな、と。
私が持っていた赤いマグカップは彼と色違いで買ったものでしたが、彼の青いマグカップは静かに食器棚の中で出番を待っていました。しかしその青いマグカップは当分、あそこから出られることはないでしょう。いや、恐らく、もう二度と彼の手に取られる事はないのです。私には、彼があのマグカップをもう一度愛用することは想像出来ませんでした。一人で、思い出を注いだマグカップを使う彼を、私は見たくなかったのです。

「歯ブラシは捨てておいてね。あ、そうだ。私が持ち込んだ本棚はどうしよう。」

「名前が荷物になるというのならここに置いて行って構わない。」

「そう、じゃあそうさせて貰う。」

丸二年共に生活したとなると、荷物の量も相当なものでした。彼は元々あまり物を持たない人でしたが、私はその逆でひたすらに溜め込んでいく性分だったので、その私が部屋を出るとなったら、その準備はそれはそれは骨の折れる作業だったのです。結果的に段ボールは7箱にまで達し、車を一台出さざるを得なくなりました。

「ねぇ小太郎、この置物貰ってもいい?」

「どれだ?」

「これこれ。」

「あぁ、別にいいが。」

「やった。ありがとう。」

彼と私が暮らした部屋にはクロという名の黒猫が居ました。クロはこの近所に縄張りを持つ野良猫でしたが、日向ぼっこをする昼間以外はこの部屋で暮らしていました。だから正確に言うと私と彼との二人暮らしではなく、二人と一匹暮らしでした。
彼は可愛い生き物に目が無いので、クロを大切に養っていました。でも恐らくクロは私の方が好きだったと思います。だって甘えてくる時はいつだって私の膝の上だったのですから。
私達二人と一匹はよく一緒に眠りました。私と彼の間で丸くなって眠ることをクロは喜んでいるように見えました。大丈夫です、クロにノミは居ません。ちゃんとノミ退治の薬を首筋に垂らしていましたから。
私と彼が愛を育む時だけクロは寝室から追い出されました。しかしクロは頭の良い猫だったので、ドアを開けて部屋に入ってくることが多々あり、そんな時私と彼は雰囲気をぶち壊して笑うしかありませんでした。

私はたった今小太郎に貰った黒猫の小さな置物を手のひらに乗せ、この場にいないクロを思い出して少し悲しくなりました。もう会えないかもしれないクロは、今頃どこかの塀の上で暖かい日を浴びているのです。もし今日が雨だったらと、少しだけ思いました。

「クロは帰ってきて私が居なかったら悲しむかな。」

「あぁ、悲しむさ。あいつは名前に良く懐いていたからな。」

「うん…。でも小太郎が居るから大丈夫だね。」

そう言って私は、さっきクロにもう会えないかもと思った時よりも何倍も悲しくなりました。クロも居なくて、彼も居ない私はどうしたらいいのだろうと、不意に言葉が零れそうになって私は口元を押さえました。一人になってしまうのは、私だけなのです。でもそれが、誰も悪くない事だから、誰も責められないのです。それに私には攻める権利も理由もない。だって私は悲しいけれど、不幸ではなかったのだから。



 * * * 




高校生だったあの頃、私達はクラスメイトでした。3Zに籍を置いていた私達は最初はただの男女でしかなく、会話をした事もほとんどなければもちろん携帯のアドレスなんか知るはずもありませんでした。
私はある日、仲の良かった友達に言いました。もしかしたら桂くんを好きになっちゃったかもしれない、と。友達は二、三秒固まった後、えー!と大声で叫び、私の肩を痛いくらいに叩きました。どうやらその友達にとって私が桂小太郎を好きになるという事は、リンゴが地面に引き寄せられないのと同じくらいあり得ないことだったのです。私は呆れました。重力と私の気持ちを一緒にするなんて、と。
その話は瞬く間にクラス中に広がり、次の日には学年中に知られていました。でも私は別に、その事実に恥じというものは感じていませんでした。むしろ誇りすら感じていたくらいです。
その当時学校では、高杉や土方沖田と言った男子が人気者でしたので、皆が注目しなかった桂小太郎に目を付けた私は皆とは違うんだと、変な自尊心を抱いていたのです。

桂小太郎は少し変わった生徒でした。髪が長かったのです。それによく、わけのわからない事、所謂電波と呼ばれるような発言をしていました。皆は若干引いていたようですが、私の目には彼がこの世界の英雄に映ったのです。人と違う事が出来るという事は、この年代にとって素晴らしい勲章でした。とりわけ3Zにはそういう生徒が集結していましたが、その中でも彼はピカイチだったと思います。

ある日彼は、放課後一人教室に残って日誌を書いていた私の元にやってきました。私は自分の机の前に立っている彼を見て、胸が高鳴りました。だって目の前に私の英雄がいるんですもの。それは当たり前の現象でした。

「苗字は俺の事が好きなのか?」

「え?」

急にそんな事を言う彼に、私の心臓は皮膚を突き抜けて顔を出しそうでした。私は胸を押さえて頷きました。

「どうして、知ってるの?」

「リーダーから教えてもらった。」

リーダーとはクラスメイトの神楽の事です。なぜリーダーと呼んでいるのかは知りません。そう言うところが彼のカリスマ性なのです。それにあれだけクラス中が噂していたというのに、誰かから直接教えられるまで己が渦中の人物だと気付かないところも彼の魅力でした。

「そうなんだ…。」

突然訪れたこの状況にどうしていいかわからず、顎に手を当て困り果てていると、彼は私に手を差し伸べ、宜しくと言いました。
私は目を丸くして彼を見上げます。すると彼も何故か目をまん丸にしていました。
この時出来上がった訳のわからない空気を私は今でも覚えています。

「あの…この手、何?」

「何って、苗字は俺を好いているのだろう?だから。」

「だからって?」

「だから宜しくと言っているんだ。」

「宜しくって、もしかして付き合うって事?」

「それ以外に何かあるのか?」

私は後にも先にも、この時ほど度肝を抜かれた出来事はありませんでした。

「ねぇ桂くん。」

「ん?」

「付き合うっていうのはお互いが好きだって思ってないと駄目なんだよ。
私は桂くんの事が確かに好きだけど桂くんは違うでしょ?だから宜しくは間違ってる。」

「苗字、お前は俺を馬鹿にしているのか?」

「え?」

「それくらい知っているぞ、俺だって。」

彼は溜め息を吐いたあと、そう言いました。彼曰く、彼は神楽に私が自分の事を好きだと聞いて、ほんの少しだけ私の存在を意識し出したらしいのです。よくある恋の始まり方でした。人から好意を寄せられて、その相手の事を自分も好きになってしまうという事は。彼もどうやら普通の人間だったらしく、こんなきっかけで私の事を好きになってくれたようです。
私は彼の手を取りました。これが私達の始まりでした。
私はその時思ったのです。友達が例えた重力は、間違っていなかったな、と。彼は私に吸い寄せられたのです。


デート、なんていう年相応のことはしませんでした。その代わりによく二人で放課後の教室に残り、先生と生徒ごっこをしました。だいたいは、私が先生で彼が生徒でした。私は教壇に立ち、下手な絵を描いて席に着いている彼にこれはなんでしょう、と聞きます。すると彼はこれは犬です、と答えます。正解はキリンだったので私は不正解、と言って黒板の絵を消します。彼が何度も何度も間違えるので私の手は、降って来たチョークの粉で毎回真っ白になりました。彼が正解すると、私は教壇を降りて彼の座る席へと向かいます。そして腰を曲げて見上げる彼にキスをするのです。これは正解した彼へのご褒美でした。
先生と生徒の役が変わると、私はいつまでたっても彼からのご褒美を貰えませんでした。彼はわざと難しい数学の問題なんかを出して私が正解しないようにするのです。私はこの時彼が軽度のサディストだという事を知りました。
そんな事をしていると大体は見廻りの銀八先生がやってきて、さっさと帰れと、学校を追い出されました。


私はきっと、誰よりも有意義な学生生活を送って来たのだと思います。だって私の隣にはいつだって彼が居ました。何処に行くにも彼が一緒でした。私はそれだけで、いつだって幸せな気持ちになれたのです。


高校を卒業して私達は地元の別々の大学に進学しました。彼は頭が良かったけれど私はそうではなかったので一緒の学校には行けませんでした。
この頃からでしょうか。私が少しだけ変わったのは。正確に言うと私が変わるより先に、環境が変わったのです。
いつだって私の隣に居た彼が、居なくなりました。授業中、後ろから眺めていた彼の背中が見当たらなくなりました。帰り道、いつでも右手に感じていた彼の体温を感じなくなりました。朝になって、私は一人で電車に乗りました。ついこの間までは彼がそこに居たのです。なのに今私の隣に居るのは、名も知らないただのサラリーマンです。
私は寂しくなりました。週に一度、少ないと月に一度しか顔を見れなくなった彼の事を思い出すと、胸が苦しくなりました。悲しくて悲しくてよく一人で泣きました。枕がびしょびしょになっているのを見て、私は更に彼の事が愛おしくなりました。


そんなある日、私と彼は高校の時の同窓会に顔を出しました。この時も彼に会うのは二週間ぶりだったので、私は嬉しくて彼の肩に顔を寄せたのです。
同窓会には懐かしい顔が沢山並んでいました。みんな少しだけ成長していて、ちょっと面白かったです。そしてみんな口々にまだ付き合ってたのか、と私達を茶化しました。
私は昔、彼の事を好きになった時にそれを打ち明けた友達に最近の悩みを打ち明けました。胸に重く圧し掛かっていたもやもやを一つ残らず暴露し、ほんの少しだけ楽になりました。そして彼女はこう言ったのです。一緒に暮らしちゃえばいいのに、と。私は手を叩き、そうだ!と大声を出しました。そうだ、一緒に暮らしてしまえばいいんだ。そうすればずっと一緒に居られる、また彼がいつだって私の隣に居るんだ。旧友高杉と何やらひそひそ話している彼を見ながら私はそう思いました。


彼と一緒に暮らし始めたのはそれからすぐでした。彼は私の提案をすぐに承諾してくれました。
それから私はまた幸せになりました。授業が比較的早く終わる私はいつだって彼の帰宅を尻尾を振って待っていました。そんな私を見て彼は、まるで忠犬のようだな、と頭を撫でました。そうです、私は彼のハチ公だったのです。
時間がある時はちゃんとご飯も作りました。もともと料理なんてした事がなかった私は本屋で料理本を買ったりパソコンで作り方を調べたりと四苦八苦していました。しかし彼の為だと思ったら、そんなのただの幸福感に変わりました。
学校はつまらなかったけれど、ちゃんと通いました。だって帰れば、彼に会えるのですから。それくらいは頑張れるのです。
クロがやって来たのもその頃でした。クロは帰宅した彼の足もとに纏わりついていました。私はそれを見てすぐに部屋へと招き入れました。彼はふわふわしたクロに夢中でした。今思えばしつこ過ぎて少し嫌われたのだと思います。そこから二人と一匹の生活が始まりました。


そんな幸せは日々は何事もなく過ぎていきました。春には近くの桜の木が綺麗に花を咲かせ、夏には扇風機を出しました。秋になれば銀杏の木が色付き、冬には炬燵を出すのです。私達はよく炬燵に入って転寝をしました。すると翌日、必ずと言っていいほど、二人してくしゃみをするのです。


彼はいつだって優しかった。いつだって自分のことよりも私の事を大事に思ってくれました。彼の愛情は昔と何も変わらなかったのです。私はそれが幸せすぎて、幸せすぎてそして泣くのです。昔とは違う、苦くない涙でした。




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