名前、お前は笑うだろうか。俺が、夜明けが怖いと言ったら。
漆黒の闇が安っぽく白けていき、眩し過ぎる太陽が顔を出す、その直前の夜明けが恐ろしいと言ったら。

もし、太陽が機嫌を損ねて天へと昇らなかったのなら、はたまた途中でそれを諦めてしまったら、そう考えるだけで俺はどうしようもなく怖くなってしまうんだ。

名前、お前は笑うだろうか。そんな俺を情けないと、笑うだろうか。






なにもしらない
しあわせなきみ








夜も更けた頃、俺は我が家の戸を開けた。我が家と言ってもそんな大層なものではない。幕府から逃げ回る俺に相応しい、質素な平屋だ。この家の良い所と言えば、狭いながらも四季折々に花を咲かす中庭があることぐらいであろう。


一歩、玄関へと足を踏み入れると、部屋の奥からとっとっと、と愛らしい足音が聞こえてきた。すぐに顔をだした足音の犯人は、俺を見るなり表情にぱっと光を灯す。
それを見た瞬間俺に張り付いていた嫌な空気は姿を消した。生ぬるくどんよりとした重い空気だった。



「おかえりなさい、桂さん!」

「あぁ、ただいま」



俺の帰宅を喜ぶ彼女は、俺の大事な人である。







「ご飯は?もう食べました?」

「あぁ、食べた。気にしなくて大丈夫だ。名前こそちゃんと食事を摂ったのか?」

「えぇ、少し寂しかったけれど一人で早くに済ませました。今日は八百屋のおじさんに大きな南瓜を頂いたんです。私はあまり料理が達者じゃないから上手に調理出来るか不安でしたが、どうやら上手く煮えたようです。やはり物が良いとそれなりに美味しくなるものなんですね。」


彼女は饒舌にそう言うと、少しおかしいように笑った。

本当の事を言うと、俺は今朝彼女の用意してくれた朝食を口にして以来、何も胃には入れていなかった。帰宅し時計を見るともう零時を過ぎていたので、今夜の夕食は明日の朝食と兼用しようと思って咄嗟に出た嘘だった。
彼女の煮た恐らく驚くほどに甘い南瓜の煮付けは、あと数時間もすれば味わう事が出来るだろう。

そう思ったと同時に彼女の言った少し寂しかったけれど、という言葉が胸に張り付くように残ったが、俺は気づかぬふりをした。






名前が沸かしてくれた風呂に入り、身体を清める。
今日も、何も変わらぬ一日だった。今日だけではなく昨日も一昨日も、恐らく明日も明後日も、もっと先の未来も、だ。
俺は切に変革を求めている。変革を求め攘夷志士になり、攘夷党の党首となった。しかしどうしたことだろう、この日本は何も、何も変わらない。俺の熱く頑ななまでもの意思に反して現状は何も変わっちゃくれない。
一体いつまで、いつまでこうしていたらいい。上手くいかず俺の中で膨れ上がった理想だけがいつか爆発してしまいそうだ。


俺は爪先から頭の先までを湯船に沈めた。液体の中は物音ひとつしない、暗闇だった。時折瞼越しに差し込む光がまるで夜明けのようだった。



言っただろう、俺は夜明けが嫌いなんだ。夜明けが怖いんだ。
この世がまるで、夜が明ける寸前の不安定な存在のようで、酷く恐ろしくなるんだ。







俺が風呂から上がり寝室へ向かうと、名前はもう床に就いていた。起こさないようにそっと近づき、布団の横に腰を下ろすと、その白い頬を親指で撫でる。しばらくその寝顔を見つめていると、不意に二つの瞳が俺を見据えた。
俺は咄嗟に腕を引っ込める。




「すまぬ、起こしてしまったか。」

「いいえ、起きていました。」

「狸寝入りか。」

「えぇ、そうです。」

「…小癪な真似を。」




名前はくすくすと笑うと再び目を閉じた。
なんだか少し恥ずかしくなった俺は逃げるようにすぐ近くの布団へと身を潜ませた。
ちらりと盗み見るように隣の布団へと目をやると、先程と同じように静かに寝ている名前が見える。
いや、恐らくはまた狸寝入りだろう。少しだけ口角が上がっているのが暗闇でもうっすらわかる。
俺はそんな名前に呼びかけた。




「名前。」

「……。」

「名前、起きているのだろう。下手な芝居はよせ。」

「…さっきは騙されたくせに。」

「さっきはさっきで、今は今だ。」

「屁理屈。どうしたんですか。」

「手を出してくれ。」

「手ですか?」

「あぁ。」



不思議そうな声色の名前は、ゆっくりと布団の端からその手を覗かせた。俺はそれを逃がさぬように捕まえる。暗闇の中で急に触れられたことに驚いたのだろう。少しびくりと震えた。



「今日はこのまま寝よう。」

「どうしたんですか。」

「どうもしない。」

「嘘、何かあったんでしょう。」

「なにもないさ。」

「嘘嘘。どうして教えてくれないんです。」

「知らない方が良いことだって、この世には沢山あるんだ。」




知らぬが仏と言うだろう。知らない方が生きていく上で都合が良いことだってある。
例えばそう、恋や愛のような…。
幼き頃に知った恋、しばらくして知った愛。俺にとってこの二つはどうも苦い思い出にしか成り得ない。悲しい程に上手くいかないこの二つは、知らない方が良かったと俺は思う。こんなにも苦いのは俺の所為かもしれないが…。
もっと簡単に言ってしまえば、死がそうだった。初めて大事な人を失ったあの日。俺は初めて死を知った。知らなければ良かったと思った。ずっとずっと知らずに生きて行けたならそれはどんなに幸せか。




「知らない方が、お前の為になるんだよ。」

「…わかりました。桂さんがそういうのならきっとそうなんでしょう。」




お前は知らなくていい。恋や愛の苦さも、死の悲しみも。ただこうやって俺の手を握っていればいい。




「なぁ名前。夜明けまではあとどれくらいだ。」

「夜明けですか。んー、そうですね、今は日の出が早いからあと二時間程ですかね。」

「そうか。名前、今日は一緒に夜明けを迎えないか。」

「夜明け、ですか?朝日を見るのですか?」

「いや、このまま、手を繋いでだ。」





きっとそうすれば、怖くない気がした。太陽は必ず昇る気がした。
何も知らない君が居れば、それだけで、夜を明けられそうだ。


名前はまたくすくすと笑って、手を強く握り返した。



2011.12.20



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