秋の虫の声が涼やかに響く月明かりの夜は、仕事で疲れた心を癒す絶好の機会だ。
娯楽にも飛びつかず一途に仕事に打ち込んできたゼノも、たまにはこういう時間が必要だろう。合理的な彼のことだから、限界が来る前にリフレッシュはしているのだろうけど。自己管理を徹底しているというのは見習うべき姿勢だが、こちらの出る幕がほとんどないのは物寂しい気もする。

「行くあてがあるのか?さっきからやみくもに進んでいるような気がするが」
「散歩の時はね、自分の心に従うの」

いい加減な私の返答に対して、彼は案の定ただの向こう見ずじゃないかとでも言いたげな表情を浮かべたが、それ以上は突っ込んでこなかった。
迷子にはならない程度に直感で進む。それなりに整えられた道だからこそできる行為で、少し外れた森林でこれをやったら大変なことになってしまう。ゼノに呆れられるのは想定の範囲内である。

「なるほど、いつもこうして一人油を売っていたのか君は」
「人聞き悪いなぁ。仕事はちゃんと終わらせてますよ」
「そうかな、何しろ用がある時に限って君の姿が見当たらないものだからね。だいたい夜に一人で出歩くならせめて声の一つや二つ……」

結局、彼が言いたいのはそこだ。過保護というか心配性というか。今はまだ顔見知りしかいないからこそ成り立っている、安全な区域。一人物思いに耽りながら歩くのも、難しくなってくるのかもしれない。

「分かりました、ごめんなさ……へっくし」

うっかり、情けないくしゃみが出てしまった。寒暖差のせいか、鼻がムズムズすることが多い。気温も湿度も夏に比べれば格段に過ごしやすくなったはずなのに、身体がその移ろいについてくるのはいつだってワンテンポ遅いのだ。

「おお、思ったより冷えてきたようだ。……ちょっと足を止めてくれるかな」

そう言って立ち止まったゼノはカッチリと着込んでいる外套を脱いで私の肩に掛けた。遠慮をする隙もない程にエレガントな動作だ。

「ありがとう。でも、その、汚しちゃう」

彼の体躯に合ったそれは当然大きくて、私が着ると裾を引き摺ってしまう。ドレスのようにつまむか、いっそ持ち上げてしまうか。

「無いよりは良いだろう。しかしここまで差があると、まるで子どもに着せてしまったような気分だよ」
「丈が長いのはゼノ先生の趣味なんじゃないの?」

普段彼が着ている黒い外套も白衣も、膝下程度の長さがある。

「……すまない、失礼だったね」
「ううん全然!私もゼノのこと子どもみたいって思う時あるし」

科学に夢中になっている彼の瞳は未だに少年のように輝いているし私もそれを好ましく思っている、という意味だったのだが。ゼノの目が突然据わってしまったのでちょっとまずかったかもしれない。

「流石に聞き捨てならないな」
「ごめんなさい。バカにしたわけじゃないよ?」
「それは理解しているんだが」

しかし腑に落ちないと口をへの字に曲げてしまったゼノを見ても、正直かわいいとしか思えない。取り敢えず、彼の厚意であるコートに包まってもう一度「ゴメン」を押し付けた。

「ねえゼノ、これすっごく温かい」
「…………いや、名前。君の言う通り、僕は子ども染みているのかもしれないな」

明後日の方向を見ながら顎を擦るゼノは、薄着なのに暑そうだった。


2024.6.25 ぶわり、潜熱


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