仕事がキツい。石化前だってそう思っていたけれど、復興の道のりを楽しく過ごせていたのはひとえに科学王国の仲間がいたからだ。今の場所に文句を言うのは贅沢だと思う、でも、もう少しこう……なんというか。
「やっぱり、こういうことは名字さんに頼るのが一番だよね」
「慣れてるでしょ?復活早かったんだから」
うず高く積まれた書類を捌くのも突発的なお願いに対応するのも散々やらされた科学クラフトを思い出せばどうということもない。地味な仕事もそれなりに好きだ。そういう性質を良いように利用され、理不尽に過度な量を押し付けられていると私が感じていなければ。
職場の環境が整い始めた頃、他人を無駄に観察する余裕が出てきたからだろうか。今のように妙な絡まれ方をする機会が増えてきた。かの有名な石神博士のもとで働いていたとか、龍水財閥にコネがあるとかなんとか。みんながこの世界で必死にやっていこうとしている気持ちは痛いほど分かるのに、どこか引いてしまっている不甲斐ない自分がいる。
今は離れ離れの仲間も頑張っているに違いない。そう言い聞かせて堪えてきたが、いよいよ限界が来ていると認めざるを得なかった。
「あの、そういうのは……」
みんなでやった方が慣れるし、早く覚えるのではないでしょうか。即座に突っぱねられそうな正論が口から出ることはなかった。私も同僚たちも、突然視界に現れた人影に驚き、二の句が継げなかった。
「あ……久しぶりです、ゼノ先生」
カラカラに渇いた喉からなんとか絞り出した挨拶だったが、彼は右手を軽く挙げて応えてくれた。
「続けないのかい?」
このタイミングで見知った顔が登場してくれたことに思わず安堵していたのもほんの束の間だった。どうしようもない話をよりによってゼノ先生に立ち聞きされていたという事実が重くのしかかる。静かな廊下に彼の足音だけが響いて、止まった。
「それなら彼女を借りるよ。あいにく我々には時間がないものでね。復活が君らより早かったとしてもだ」
スマートかつ重めの台詞と共に肩をポンと叩かれて、何も言えないままその場を後にした。明日どうやって取り繕おうかと考えるより先に、彼に私の現状をどう説明しようかとばかり考えている。
建物の裏口から出て、人通りの少ない場所でようやく彼は立ち止まった。
「どうしてここに?」
助け舟のお礼より、疑問が口をついて出た。ゼノ先生は特に気にすることもなく「君に用があってね」と冗談のような答えを返してくる。
「えっ私ですか」
「ああ。正確には君の上席だが、手間が省けたよ。あんな現場を目にしてしまってはね」
「お、怒っていらっしゃる……」
そうだとも違うともゼノ先生は言わなかったが、真っ黒な両の目が微塵も笑っていなかった。
謝罪も、私が早急に取るべきだった対応策も、今さら彼の前で並べた所でなんの意味もない。
「前置きとしては充分だ。名前、こんな所はさっさと辞めてこちらに来てくれないか」
思いもよらず示された、新天地への道。ゼノ先生はわざわざこんな所に足を運んで私を引き抜きに来たらしい。でも、ゼノ先生ともあろうお方が何故ここまでして。
思い返しても、私があの中で目立ったことなど一度もない。彼の親友のスタンリーのように強くもないし、弟子の千空のようにもなれないのは当たり前として、クロムのような冴えた閃きもなければスイカほどの立派な向上心も持ち合わせていない。細々としたサポートは続けていたので流石に名前を覚えられていないということはなかったが、本当にそれだけだ。
「どうかな?あまりピンと来ていないように見えるが」
「ええと、本当に私、ですか?」
「おお、そこを間違えるはずもあるまい!僕が必要としてるのは紛れもなく君だ」
地味な仕事をしてきた私をゼノ先生は欲しいと言う。文明復興と科学の発展を進める中心人物として矢面に立たなければならない彼の裏で、彼が少しでも動きやすくなるように。
「見どころある人間が愚かにも無駄に使い潰されている。僕はそんな光景を見るのが嫌いなんだ」
滑らかに紡がれる口説き文句が、右から左へと抜けていく。
己の道を理解されず、邪魔されることに対してゼノ先生が並々ならぬ憎悪を抱いていたことは知っている。でも、他人に対してもそんな風に感じたりすることがあるのだろうか。それともあくまで、自分が物事を進めやすくするために私のような人員が一人でも多く必要で、それを阻害されていたから?
「辞めにくいのなら僕が一筆書こう。まぁ、その為に来たんだがね」
「いえ、それは遠慮します」
頭で深く考えるより先に返事をしていた。たった数年ぽっち、共に働いている間、目立った功績もないのにこの人はわざわざ私を指名してきた。名字名前を必要としてくれた。これ以上、何が必要だと言うのか。
「ゼノ先生、私…………先生?」
驚いたように目を見開いた彼の表情は、普段より幼く私の目に映った。言葉こそ無いが、私の発言をそのリアクション一つで遮ってしまったことに勘づいたのだろうか、ゼノ先生は手で口元を覆った。
「すまない。想定外だった、その……断られるのは」
「や、あの、続きがあって」
すぐに弁解しないと大変なことになりそうなのに、今の彼の仕草を見ていてこの場にはそぐわない感情がとめどなく溢れてくる。
ゼノ先生は、自分の一言で私を簡単に引き抜けると想定していた。それは別に間違ってはいない。要するに、今引っかかっているのは、ただ連れて行かれるような去り方をしたくないという、私個人の拘りなのだ。
「先生、私、自分で言って辞めてきます。その後、ゼノ先生の所に行っても良いですか」
仮に今日彼が来なくても、私の限界は訪れていただろう。次に行く場所を提示されるというまさかの出来事が重なったせいで、私は向こう数年の運を使い果たしてしまったかもしれない。
「ああ。いつでも歓迎しよう、そういうことならね」
取り敢えず、胸をなでおろしてくれたようだ。歓迎してくれるのなら背を向けないで欲しいが、今は見られるのが恥ずかしいのだろう。近寄りがたいようでそういう人間臭い部分も、彼は持ち合わせている。目立たないとはいえ横目で彼を見る機会はいくらでもあったから、そのくらいは分かる。
「嬉しかったです、覚えててくれて。でも、先生も結構物好きなんですね」
ゼノ先生がさっき見た通り、あんまり大切にされていたとは言えない。彼のように覚えていてくれる人もいれば、搾取してやろうと近づいてくる人もいる。加えて、相手に強く出られたら自分が悪いような気がしてなかなか言い返せないような性分でもある。
「物好きか。この際褒め言葉として受け取っておくが」
ゼノ先生が手を差し伸べてくれなければ、気持ち良くここを飛び出してやろうと決意することすらできなかったに違いない。
再び前を向いた彼の顔は、いつものように知的な雰囲気をたたえている。どこかキラキラと輝いて見えるのは、私の気分によるものだということも付け加えておく。
「君に声をかけることができた唯一の男が僕だというのは、実に幸運だったよ」
「そんな大袈裟な……」
いちいち意味深な発言をされると困ってしまう。その度に顔を熱くする私の反応すら楽しんでいるかのように、ゼノ先生は長い人差し指を口の前に立てながら目を細めているのだった。
2023.11.8
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