怒ってるような泣いてるようなかん高い大声を言葉として認識することは叶わなかった。視界が一瞬暗くなり、痛みが走る。
顔がカッと熱くなるのと同時に、頭の奥が冷えていく。殴られた痛みよりも、頭皮が引き攣る不快感の方が勝っていた。


最近仲良くなった女の子。復活液をかけられたばかりで右も左も分からない彼女に世話を焼いたのは私だ。年齢も近く、不思議と気が合うと感じていた。彼女も同じ気持ちだろうと自惚れていたが、全て私の勘違いだったと理解した。


「今の見てた、よね」
「……ごめん。間に合わなくて」

何も言わないまま立ち去った彼女と入れ替わるようにやって来た羽京は、女ふたりが揉めているなかなか暴力的なシーンをバッチリ目撃してしまっていた。彼のことだから、見る前に全て聞こえていたに違いない。そして、揉め事を放っておけないのも彼の性分だ。

「こっちこそごめん。みっともないことして」

羽京に見られたのはショックだった。これは私が彼に抱いている個人的な感情という理由が大きいけれど。
自分が誰かに罵られたり殴られたりするような人間だと、噂でも何でもなく、羽京に直接見られてしまった。酷く惨めだ。
何か言いたそうで言えない、そんな気持ちが羽京からは伝わってくる。私だって彼と同じ立場になったら、かける言葉に迷うだろう。

「私が無神経だったの。ずっと」

羽京がハッと息を飲んだのが分かる。
あんた達と同じようにできるわけない、自分が恵まれてる自覚もない、綺麗事ばかりで傲慢だと、そう言われた。彼女の言う通りかもしれないと思ったら、言い返せなかった。一方的な親切を押し付けて、彼女の抱いていた不安を汲み取れなかった結果がこれだ。

「ゲンみたいにうまくできたら良かったのに、こんなになっちゃった。どうしよう、ごめんなさい」

つらいのはきっとあの人も同じだったはずなのに、自己嫌悪ばかりが大きくなって頭の中を支配していく。他でもない私が、あの人を惨めにしていた。何も知らずに笑って、彼女のプライドを踏み躙っていた。
口から繰り返し出る謝罪の言葉が誰に向かっているのかも、もう分からない。

「名前ちゃん落ち着いて」

不意に名前を呼ばれて、存外強い力で両肩を掴まれる。驚いて思わず喉が鳴るが、それでも怖くはなかった。

「息、ゆっくり。吸って……吐いて」

言われるがまま、空気を吸い込む。喉が震えて咳き込むけれど、その度に羽京は背中を擦ってくれた。

「大丈夫、もうここは安全だから。大丈夫だよ」

羽京の声って安心する。だけどボリュームを抑えてくれているせいか、いつもより掠れた声が耳の中を擽ってくるようで今度は別の意味で心臓が鳴り出した。

「あ、ありがとう。もう、平気」

頭が冷えてようやく周りが見えてきた。あのまま一人でパニックになっていたらと考えたらゾッとする。もっと取り返しのつかない、大きな間違いを犯してしまったかもしれない。

「私が恵まれてるのは本当だね。遅くなっちゃったけど、でも気付けて良かった」

羽京のこの手があったから、ここで留まることができた。誰のことも責めたりはせず、ただ嵐の海ように荒れたこの気持ちをなだめることに専念してくれた。
あの子には、こんなふうに寄り添ってくれる人なんてきっといない。一番近くにいた私がなるべきだったのに、なれなかった。そんなこと考えるのも烏滸がましいと、また怒られてしまいそうだ。

「頬、痛くない?」
「うん。全然」
「良かった。結構すごい音がしたから」

今更ちょっと打たれただけで泣き喚いたりしない。この世界で多少生きていれば傷なんて数えきれないほどできてしまうし、痛い思いもそれなりにしてきた。こさえた体の傷より、正しく鋭い言葉の方がよほど痛かった。

「なんで、羽京の方が泣きそうなの」

今の今まで自分のことで精一杯だったから分からなかった。私を覗き込む羽京の瞳は、あと一滴水を垂らせば溢れてしまいそうなほど潤んでいるように見えたのだ。

「あはは、さすがに泣かないよ。でも、なんだか身に覚えがあったから。……耳が痛くて」

あの子の放った言葉は私だけじゃなく、羽京の身も貫いていた。
他人事に思えなかったから、羽京は走り去るあの子じゃなくて私の手を取ってしまったのだろうか。

「後悔、してる?」
「ううん。もし自分が二人いたとしても、どっちの自分も今の僕と同じことをしたと思う」

羽京は「何言ってるんだろう」と苦笑している。
きっと彼も分かっていた。私たちは今お互いの存在に救われたような気になっているけど、これでは誰かの悲しみを踏み台にしたままだってこと。

「嬉しいよ。ごめんね、こんなの良くないのに、でも嬉しい。すっごく」

羽京が私の手を取ってくれて。私を選んでくれて。
ずぶ濡れになっても傘を差し出してくれる人が私にはいる。傷付けて、傷付けられた痛みはなかなか消えないけれど。

「落ち着いたら、もう一回あの子と話してみる」

届くかは分からない。どこまで行っても、私は彼女にとって傲慢な偽善者かもしれない。
本当に嫌がられているのかを確かめに行くなんて、自ら火の海に飛び込むようなものだ。想像しただけで目が眩む。
ままならない現実を散々見て、この身で嫌というほど味わって。それでも私は理想を捨てられない。捨てたら本当に何もかも終わってしまうから。

「羽京、大丈夫だよ。大丈夫」

羽京の指が、叩かれた頬の上を滑っていく。堪らず名前を呼ぶと、彼は驚いたように目を見開いた。ほとんど無意識の内の行為だったようだ。それでも私の「大丈夫」に、うん、うん、と、頷きながら彼の指先はずっと私の頬を擦り続けている。

「傷付いて欲しくない。誰にも、って、そう思ってるけど。今だけは……」

いつだって誰にも傷付いて欲しくないと願い続けている彼の綺麗な瞳が、私だけを映している。
この瞬間を思うだけで、これからどんなにつらいことがあっても乗り越えられそうな気がしてしまうのだった。



2023.2.27


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