※「ゼノ先生と告白」の続き




早朝、散歩でもしようかと提案したのは別に起き抜けの籠もったような空気に堪えられなかったからではない。ふと、たまにはゆっくり同じ景色を見るのも良いんじゃないかと思ったからだ。
日が昇りきってしまえば私たちはまた何食わぬ顔をして理知的な大人のフリをしなくてはならない。子どもじみた我儘や弱い部分を曝け出した夜の後も、朝は必ずやってくるものだ。
二度目の石化から目覚めた私たちの目標を一つにまとめ上げた少年たちが海の彼方へと去ってから数週間。ここでの仕事は今のところは滞りなく進められているが、道のりは途方もなく長い。

「よく眠れた?」
「それは名前が一番知ってるだろう。僕たちもそれ程若くはないんじゃなかったのか」
「やだ。根に持ってる」

時間が経つのも忘れるほどに彼と語り尽くすのは、いったい何年ぶりだっただろうか。辺りはまだ薄暗く、しかしもう暫くすれば皆目覚めて働き出すのだろう。自分たち以外に生きて動いている人間がこれだけいるというのも久し振りで、かつてはそれが当たり前だったというのに慣れとは恐ろしいものである。

「実はまだ君に言いそびれていることがあってね。昨晩ああ言った手前、話しておきたいんだが」

一度壊れたものをまた作り直すのにはそれ相応の労力を要する。この夜が明ける前に、私たちは再び立ち上がるための基盤を作ろうと決めた。だから私が彼の提案を断る理由はない。
川の水面が少しずつ視認できるようになってきた。頷いてみせると、ゼノは一つ咳払いをして私に向き直った。

「石化する前に一度だけ君の弟に会って来た」
「そ、れは……聞いてないな、本当に」
「そうだろうね。しかし仲良くお茶をしていたわけじゃあない」

私の弟。大切な家族で、友人で、好敵手だった人。ゼノを手に入れるために私が犠牲にした人。口汚い言葉で私を罵り、突き飛ばし、私の額に傷を付けた人。その後は私の知らないどこかで幸せに暮らしていた人。
血の繋がった家族を押し退けるだけでは飽き足らず、私は卑怯にもあの時できた傷を何度も思い返すことでゼノとの繋がりを保っていた。

「己が僕にも名前にも到底及ばない愚かな人間であることだけは、理解してもらわなければならなかったのでね」

これまでの出来事を経て少しは丸くなったのかと思いきやその毒舌はご顕在のようで、しかしこっちの方が慣れていると逆に安心してしまっている自分がいる。ただ、頭の片隅では小さな疑問が頭をもたげつつあるのだった。

「それでわざわざ顔を見に?」
「君がそれを望んでないのは分かっていたつもりだ。しかしありとあらゆる手段を使ってようやく手に入れた君を侮辱され傷まで付けられて沈黙していろと?」
「あ、あの!さっきから一つ気になってるんだけど……」

質問の許可を得ようと恐る恐る手を挙げると、ゼノは「よろしい」と芝居がかった振る舞いで私の発言を促した。

「私、弟に何を言われたとか、そういうのは誰にも言ってない。でもあなたは……随分とその辺りのやり取りにお詳しいようで」
「おお、まさか何千年も前に犯した罪を今になって咎められるとは……」

まさかとは思ったが、ゼノがあまりにも平然としているものだからため息が出た。
何故かとか詳しい手口については考えたくないが、ゼノは私と弟の壮絶な喧嘩の内容を全て知っていて、かつ私の知らないところで弟にトドメを刺していたのである。

「いや、あなたが私にしたことはもう良いんだけど」
「良いのか」
「良いから。……何もされなかった?あの人に」

私とゼノでは勝手が違う。弟がゼノにどんな態度を取ったのかは分からないが、いくらなんでも誰彼構わず手を上げるような人ではないはずだと信じたかった。

「いいや?現に今の今まで君にバレるようなこともなかったじゃないか」

少し落ち着いて考えてみれば分かる。ゼノが、私と弟が決別した日のことを全て知っているのだとしたら。それは即ち彼が弟の今後の人生を壊しかねないような『証拠』を持っていたということだ。

「僕は交渉をしに行って、ついでに灸を据えただけだ。その際証人を引き受けてもらった男は今も石像のまま世界中を連れ回されているはずだがね」

可哀想に。かつて傾倒した男に、社会的に潰されたくなかったら二度と私に近付くなとでも言われたのだろうか。しかもその男の後ろには、指一本でも動かせば全身穴だらけにされそうな程の威圧感を隠しもしない男が煙草をふかしながら立っているのだ。
自分が弟の立場だったらと考えただけで背筋が寒くなる。敵にすると、とんでもなく容赦のない男だ。でもその分、懐に入れた人間には甘いのだと昨晩も改めて思い知ったばかりである。

「そっか、それじゃあ手なんか出せないね。とてもじゃないけど」

何年後か、何十年後かは分からない。しかしいつの日かその証人が蘇った時には、巻き込んでしまったことを詫びなければならない。それこそいつの話よ、だなんて言われてしまうかもしれないが。

「ねえゼノ。私、まだ間違ってたかも」

失敗の味も成功の味も、誰かを傷付けたことも傷付けられたことも、いつかは忘れゆくものだと思っていた。でも、実際はそう思っていたかっただけだ。それが一番楽になれる方法だと知っていたから。

「何があってもあなたを忘れるのだけは無理ってこと。現に人の寿命なんてとっくに超えた時間を過ごして、私たちはここに立っているんだもの」

この人と過ごした穏やかな雨のような日も激しい嵐の日々も共に犯した罪も、私に深く刻まれて失くなることなどありはしない。

「ああ、一人の男としては君に賛成だし、光栄だ。だが科学者としては…………」
「……ん。そこは私も思うところがある。だから後でじっくり、良い?」

自分で言っておきながら、石化中に意識を保つ行為と記憶の保存や思考との関連性など、この現象に関しては正直何から手を付けたら良いのか分からないくらい謎だらけで途方に暮れてしまう。
気になるのは山々だが、私たちが今すべきことは月へ昇る船、ロケットを最短ルートで造ることだ。

「名前、話の途中でのキスは怪我の恐れがあると思うんだがね」

そろそろやめておかないと、私たちはここの仲間や住人たちに生ぬるい温度で見守られながら仕事をする羽目になってしまう。後になって呆れられないよう、私もゼノも歩みを止めるわけにはいかないのだけれど。

「あら、それはごめんなさい。もうしないから」
「するなとは言ってない」

外套にネクタイ。すかさず腕をつついて不満を顕にしてくるようなこの男も人前に出る時はかっちりとした出で立ちをしているが、今日に限っては皺くちゃになってしまったシャツがその下に隠れているのである。



2021.12.31 Oblivion


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