1
 シャープペンシルをことりと置いて、窓の外を見た。
 カラスが一羽、ゆうゆうと空を飛んでいる。いや、ハトかな?色合いからいってカラスの線が濃いけれど、この際あれがなんの鳥だかはどうでもいい。
 自分の翼で飛ぶって、疲れないのかな?
 苦しくないのだろうか。
 あいつも、この窓から流れ込んでくる風にのって、ゆるゆる流される身体になってしまえばいいのに。そうすれば、きっと疲れたりしないから。
 オレは開け放しの窓の、すぐそこの席に座っている豪炎寺に視線を移した。ちょっと迷った様子でほお杖をついている。眉間にしわが寄っていた。シャープペンシルで、クラス全員にまんべんなく配られたあの用紙に、点描を描いている。
 でもあいつは書くべきことをちゃんと書いてしまうんだろう。
 ちょっと、複雑だ。
 じゃああいつはどうなんだろう。窓の外からちらちら見える、あいつは。
 学校指定の体操着に包まれたあいつは鮮やかな青色をしているから、遠目から見てもすぐにわかった。軽やかな動きでハードルを越えて、涼しげな顔で周りの称賛を浴びる。あいつには、悩みなんかないんじゃないか。もしくはなにも考えていないとか。しっかりしているようで意外と楽観的で大雑把なところがあるのは、昔から知っている。
 すこしだけ、期待した。
 期待しながら、考えた。オレはなにを書くべきか。
 ……思いつかない。
 頭の中はガラス瓶のようにすっからかんだった。でも、なにか透明なもので満たされていた。真空パック。こういうことなんだろう。
 もう一度、シャープペンシルをつまんでみたけど、なにも変化は起きなかった。カチャッ。取り落とした。
 たぶんこれは不吉なことなんだろう。

2
「志望校調査、」風丸はそこまで言って、一瞬、口を閉ざした。
「……なんて書いた?」
 おそるおそる上目遣いでオレを覗き込むその仕種に、既視感を覚えた。うさぎだ。そうじゃなかったら、あの教室の、喉につっかえるような空気。閑散とした部室に、充満する。
 オレはううん、と唸った。
「出さなかった」
「じゃあ、」
「うん。出さずに、持ってる」
 鞄からぺらぺらのそれを取り出して、風丸に見せた。証明完了。ははっ、と乾いた笑い声をあげた風丸は、きっと安心している。
「今からなんて、書けないよな。俺たち、まだ中二だし」
 風丸が求めていることがわかった。
「まあ、あの夏未だからさ。来年は自分の学年の番だから、いっそう気合いも入るんじゃね?」
「あー、なんで中高一貫じゃないとこ受けたんだろ」
「それは小六のオレたちにきけよ」
 風丸はひゅう、と息を吸い込んで、「そうだな」と言った。本当に、喉になにかが詰まったような声だった。
 オレは青い髪をてっぺんで結わい付ける赤いゴムをじっと見た。くすんだ、赤。昔、なにげなく風丸に手渡したものだった。大事につかってくれてるんだ。べつに特別な意味をもったものじゃないのに。ギブ・アンド・テイクがうまくいってない。
 ユニフォーム姿の風丸は、自分の荷物に手をかけていながら、それからはなにもしていなかった。死んだ魚のような顔をしている。そう思った。
「風丸は、なんて書いて出したんだ?」
 興味があったので、たずねてみた。風丸は魚の顔のままで、睫毛をしぱしぱと瞬かせた。
「いや……俺も出してない」
 と言ってようやく差し出したその指には、よれよれの紙が挟まれていた。オレはそれを上から順にねめまわす。"第一志望校"の欄には、家から一番近い高校の名前が、殴り書き。その下は空欄。
「意外だね、って言われたんだ」
 風丸はそれを鞄の中にしまい込みながら、そっけなく言った。
「意外って?」
「まだ出せない人は手挙げてって。素直に挙げたら、隣の席の女子に」そうひとりごちて、むすっと口をへの字に曲げた。
「いまこんなの書けるやつは、すごいよ。なあ円堂、お前もそう思わないか?」
 ふいに風丸の髪がばさりと揺れた。オレの顔を澄んだ水のようにうつしだす、左の瞳。こっちもくすんだ赤だった。

3
 風丸は最近、ちょっとずつぶれてきている。
 ただ走るよりボールを蹴りながら走っているほうが楽しいと言いはじめた時は、うれしくって、でもすこし心配だった。結局、その正体はわからなかったのだけれど。
 たぶん、それが、今の風丸。
 口の中が苦い。チョコレートを食べたみたいだ。
 食べてないけど。

 やりたいことはなんですか。サッカーです。
 これは即答できる。
 じゃあどうしてなにも書かないって、それなら逆に聞くけど、書けることがありますか。
 ない。
 だいたい、オレの夢、勉強関係ないじゃん。なのに、高校?とんだお笑いぐさだ。明日までに人生決めろって言われても、困る。非常に困る。できれば「夢はあるけど学校は書けません」と書けたらそれが一番いいことなんだけど、向こうのききたいことは志望"校"だ。囲い込まれたヒツジの気分。逃げられない。
 風丸はもう脱出口を見つけただろうか。そうであればいいなと思う反面、心のどこかではそうであってほしくないと願っている自分がいた。汚い。泥臭い。
 気がついたら、ケータイのリダイヤル画面を見ていた。発信。ちらりと時刻を見ると、"22:06"と表示されていた。さすがに失礼だろうか。いや、でも風丸だし。光る画面を耳に押し付けると、聞き慣れた声が聴こえてきた。
『……円堂?』
 ザザザ、というかすかな雑音とともに流れる、スピーカーを通してすこしくぐもったあの声が、確かにオレを安心させてくれた。
『どうした?』
「うん、……決まった?」
 一瞬、スピーカーの奥からまったく音がしなくなった。
『いや』
 風丸のくぐもった声を聴きながら、あぁと思った。たぶん、風丸は目をつむっているんだろうな。羽みたいに軽く、涙を流すように。
「なぁ。いっそオレたち、大学まで一緒にしちゃわない?どうせなら」
 冗談半分で言うと、ふふふ、と空気をなでる音が聴こえた。
『じゃあそうするか?もちろん、水準偏差値は俺基準で』
 死んだ魚の顔をした風丸を思い出した。オレは逡巡するふりをしてからやめとく、と短く答えた。そっか、という風丸の小さな声が耳に届いた。ちょっと頼りないなと思った。
『そう言う円堂こそ、どうしたんだ?いつも清々しいくらいスパッと決めちゃうのに、さ』
「あ、うん」どきりと胸が高鳴った。「やっぱり自分の人生だからな」
 また、そっか、という声が聴こえた。風丸は勘がいい。
「どうする?」
『どうするって、』風丸は困ったような声を出した。
「なあ、考えてみればさ。まだ本気で考えてなくてもいいんだろ、これ。なんとなくでも、怒られないんだろ。だったら適当に書いても、」
『それで?繰り返すのか?』
 ちょっと怒ったような声だった。どきり、と心臓が鳴った。だって、あまりにも予想していた展開とは違ったから。
 それ以上口に出す言葉が見つからなくて、オレはケータイをぎゅっと握ったまま、椅子に座って背筋を伸ばしていた。手汗。すべらないように、より強く握りしめた。
『……あの、』
「ごめん」
『いや……いや、いいんだ』
 雑音がより濃くなった。ザザザ、ザザザと風丸の声をすこしずつ掻き消す。涼やかで、聴くとすごく安心できる、声。昔から、この声がすきだった。
 高校に行ったら、あまり聴けなくなるかもしれないな。もしかしたら、オレはそれがいやなのかもしれない。
 風丸は、なにがいやなんだろう。ゆるく考えながら、片耳から伝わってくる別の空気を感じていた。

4
 豪炎寺や鬼道は、もう決めちゃったんだろう。他のサッカー部のやつらも、まだ漠然でも自分のやるべきことはわかっているはずだ。決まってないのは、オレと風丸だけ。オレたちは正反対のようでけっこう似た者同士だから、二人とも同じようにみんなの思考の波に乗り遅れちゃったにちがいない。アウト・オブ・デイト。流行遅れ。いつだったか、豪炎寺が英作文でつかってた熟語。すごいよな、こんなこと知ってるなんて。ちなみにオレは知らなかった。
 思えば、昔からぼんやりしていた二人だった。お互いの癖については知り尽くしているくせに、お互いの考えていることに関してはなにかと思い違いが多かった。
 いまでも話が噛み合わない時がある。
 溺れたもどかしさが、いつまでもオレの下腹部で沈澱していた。

 朝はいつもどおり、学校にきてからまっさきに部室へ直行すると、出入口の鍵が閉まっていないのに気づいた。ついにやってしまったか!?とオレはさっと青くなった。
 もしかしたらこの不祥事を隠蔽できるかもしれないから、淡い期待をこめつつ、おそるおそるドアノブを回した。カチャ、リ。寒くないのに腕が震えている。短い間にいろいろ考えた。確かに中から人影が覗いている。また心臓が跳ねた。お化けだったら、どんなにかいいだろうな。
 全身がばくばくと脈打っている。でもオレはキャプテンだから。意を決して、緊張ではりさけそうな鼓動を抑えつけながら、勢いよく扉を開いた。
「あ、円堂」
「あ、」
 するすると全身から、詰まっていたものが流れ落ちた。
 着替え中だった風丸はさっさとユニフォームを着てしまうと、何食わぬ顔をして手櫛で髪を結い直しはじめた。オレは心底ほっとしたのとぽっかりと空いた場所に埋め込まれた物足りなさとで脱力して、あやうくその場に座り込みそうになった。
「おはよ」
「おっ、おはよう」
「鍵、開いてたけど」
 はっとして、おぐしをたくしあげる風丸を見た。風丸はすこし俯いていた。
「誰にも言わないけど、今回だけだぞ」
 そうやって風丸はいたずらめいた言葉でオレに語りかけるけれど、その声音には薄い膜が張ってあるような気がしてならなかった。透明な、薄い、膜。弾力性強し。
 風丸は矛盾している。
 オレには戸惑うしかないって、わかってるくせに。
「……円堂?」
 オレはちょっと考えなおした。もしかしたら、わかっていないのかも。いままでオレたちは散々食い違ってきたから。
 風丸は自分のことに気がついていないのかもしれない。
 髪を整えた風丸はそろそろとオレに近づいてきた。オレを、不思議そうに見ていた。
「円堂」
「えっと……な、なに?」
「挙動不審」
 風丸はクスリとほほえんだ。すると、急にオレを紡ぐ糸がほぐれた。この笑顔が、すきなんだ。
「そんなことないよ」
「そうか?」
 今度はおどけたように首を傾げてみせた。さっきの膜は、たまたまできたものなのだろうか。自分がほっと胸を撫で下ろしたのがわかった。
 オレにだけ、こういうくだけた態度を見せてくれる、風丸がすきなんだと思った。
 本当はよくないことなんだろうけど。
 恋愛感情とかそういうのじゃないけど、あまやかな気持ちになれる。このひと時がオレを支えてくれているんだ。
 いつかくるべき時がきたら、なにもかもを失ってしまう気がして、ぞっとした。

 ユニフォームに着替えてから、二人で部室を出る。冷たい風が鼻腔をとおり、耳たぶがさっと冷たくなる。
「なあ」ふいに風丸がオレの腕を掴んだ。「かけっこ、やろうよ」
 オレはえっ、と思わず聞き返してしまった。風丸はつまらなそうに頬を膨らませて、だめ?と言った。
「だって、風丸、つまんないだろ」
「そんなことない」
「ぜったい、出来レースじゃん」
「やろうよ」
 ぱちぱちとしきりに瞬きをするまぶたは、真剣だった。あ、つまらないと思ったのは、風丸じゃなくてオレなのかも。かっと顔が熱くなった。それを拭い去るために、オレは「いいよ」と言って風丸を喜ばせた。

 グラウンドのサッカーコートを、縦に疾走。
 つまり校舎側から正門側へ走り抜け、先に向こう側のコートのラインを踏んだほうが、勝ち。
「それでいいか?」
「いいよ」
「クラウチングスタートでやるからな」
「オレ、不利じゃん」
「いいから」
 と言って風丸はオレを押さえ付ける。
「なんであせってんの?」
 ととがめるつもりで言うと、
「あせってない」
 とそっけない答えが返ってきた。

「じゃあ、いくぞ。ようい、……スタート!」
 だんっ、と右脚で地面を蹴りあげる。周りのものががたがたにぶれる。オレは真ん前の風景だけに集中した。五歩くらいは全く見えなかった青色が、それを越えてしまうと、やたらと視界の端にちらつきはじめる。より速く走ることだけを考えよう、と心掛けても、もうあんなに前にいる、ということばかりが頭の中を揺さぶった。力むと、軋む。腕を振って、できるだけ差を縮めようと努力する。足の踏み出す幅を広くする。だけど、遠い。息切れ。動悸。あ、勝てない。力がごっそり身体から抜けそうなのを、こらえた。こめかみがひんやりと冷える。
 前のほうで、青い尻尾が跳ねた。風丸の髪だ。よどみない、美しいフォーム。規則的に働く、ほどよく引き締まった脚。大きく踏み込み、失速する。どうやらゴールに着いたみたいだ。やっぱり勝てなかった。オレも肩で小さく息をする風丸の横を思いきり駆けぬけた。
 ぜいぜいと言っていると、ふいに風丸がふふ、と笑った。
「勝った」
「負けた」
「ご苦労さん」
「やっぱすごいな、風丸は」
「すごいだろ」
「うん」
「だから、」風丸は言いかけて、やめてしまった。「……なんでもない」
 ぱちりと一回、ゆっくりと瞬き。冷たい風にあてられた頬は、ほんのりと赤みがかっていた。
 ぬるい、沈、黙。
「風丸、」
「うん?」
 ぱちくりと瞬き。
「今度は、ぜってー負けないからな」
「……うん」
 風丸は嬉しそうに笑ってくれたけれど、声はどこかさびしそうだった。
 首の後ろが、ぴりりと冷たかった。

きっとどこまでも走っていける
childhood friendさまに提出
参加させてくださってありがとうございました^▽^

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