薔薇の教会区




Laurencin×Hiver♀







 結局、翌朝になってもイヴェールは元に戻らなかった。ローランサンが目を覚ますと、既に身支度を整えた彼女は柔らかい手足を持て余しながら窓際に腰掛けていて。
「やっぱり女のままだった。猫もいない」
 そう軽く苦笑する。昨夜見せた怯えは消えているが、どこか覇気のない笑い方だった。何と返事をするかローランサンが思案している間、沈黙を埋めるように彼女はさっと窓の外へ顎を向ける。
「雪も降ったよ。積もってはいないけど」
 喜ぶべきか悲しむべきか分からないと言う風に、イヴェールは肩をすくめてみせた。ゆっくりと眠る気持ちにはなれなかったのかもしれない。普段はぎりぎりまで寝入っている彼女がどんな想いで暗い冬の朝焼けを眺めていたのかローランサンには推し量るしかなかったが、寝起きの頭では相変わらず気の利いた言葉は思いつかなかった。
「ふーん……どおりで寒いと思った」
「やっぱり僕も長いコートに買い換えようかな。女の人は腰が冷えるとよくないって言うし」
 さらりとイヴェールが呟く。あれだけ強情に丈の長い物は似合わないと言い張っていたのに。
「素直だな。もうちょっと粘るかと思ったけど」
「不本意だけど仕方ないよ。筋肉も落ちてるし、寒いものは寒い。コート丈くらい妥協する事にする」
 イヴェールは悪戯っぽく笑った。
「それとも見たい? 僕のドレス姿」
「……いらん。さっさと戻れ」
「はは、そうだね、僕もそうしたいな。なんだか他人の体に居候してるみたいで落ち着かないよ」
 彼女はすとんと窓際から下りると、先に食堂へ行くからと言い残して部屋を出て行った。その様子を見る限り、少なくともこの事態をあまり深刻に考えたくはないのだろう。珍しく早起きな事といい、寝起きにしては快活すぎる軽口といい、女の体をできるだけ笑い飛ばそうと努力しているように見えた。自虐的な匂いもするが。
「コートね……」
 ローランサンも一夜明けて冷静になっていた。眠る前はそれなりに悶々としたものの、灯りを落とせば女になったイヴェールの肢体は視界から隠れるし、会話が途切れれば高くなった声も耳に入らない。視覚と聴覚が消えれば残る問題は嗅覚だが、よく考えれば石鹸と蜂蜜もイヴェールが男の時から愛用していた品だったので、目を瞑りさえすれば何一つ普段の夜と変わらないように思えた。いつもより寝台の距離が広く、寝返りを打つ音が少しばかり遠い程度で。
 何も難しい事はない。こうして一つ一つ、予定外の夜を乗り越えていけばいい。ローランサンは起き上がり、不安定な灰色の空を見上げる。雪がちらつく空は雲に覆われていたが、不思議と明るく透明に見えた。



* * * * * * *



 それから五日ほど、二人は同じような毎日を繰り返した。大学付属図書館でイヴェールは本を漁り、隣に座ったローランサンは豪華な装丁本を眺めたり、書き物を手伝ったりして時間を潰す。
 数人の学生と知り合いになったので話し相手には困らなかった。だが育ちの良い青年達との会話はどこか暢気で浮世離れしており、薬にも毒にもならない付き合いにローランサンは幾度か首を捻る事になる。いつから俺はこんな坊ちゃん達の相手をする身分になったんだろう?
「その……お二人はどういう関係で?」
 こういう詮索もされる。
「仕事仲間」
「そうなんですか。驚いたな、何のお仕事を?」
 まさか堂々と盗賊家業だとは言えず、秘密だとはぐらかした。だがそれが余計な想像を誘ってしまったらしい。学生は嘆くような溜息の後、無言でポンと肩を叩いてきた。いかにも訳ありな二人組に見えたのだろうが――にしてもこの野郎、一体どんな想像をしたんだ?
 ローランサンがそうして学生と無駄話をしている間にも、イヴェールは黙々と本を読み進めていった。集中しすぎていつか爆発すんじゃないか、と冗談を飛ばすのも憚られるほど熱心に。なかなか手掛かりが見つからないのだろう。日に日に気落ちしていくのが分かる。
 普段のイヴェールが飄々として物怖じしない人間であるだけ、その消沈ぶりは際立って痛々しく見えた。芸術を愛し、ローランサンをからかい、温和な物腰を崩さなかった以前の姿が遠ざかる。最初こそ笑い飛ばそうと努力していたが、被っていた猫が徐々に剥がれて快活な言動が少なくなっていくと、それこそ追い詰められた小動物か何かのように見えた。
「……明日って日曜?」
 夕飯の席でもごもごとイヴェールに尋ねられる。ローランサンは顔を上げ、久々に声を聞いたような気がするな、と思った。最近は考え事に没頭する彼女に合わせて食事中もろくに会話をしていなかったせいか、蛤のオードブルを弄り回すイヴェールのどんよりとした顔を見ると、何か問題でも起こったのかと身構えてしまう。
「そうだけど」
「ミサ――ミサを見に行こう。ノートルダム大聖堂、一度見てみたかったんだ」
 まだ観光らしい観光もしていなかったし、とイヴェールは蛤の殻を剥いた。
「本はいいのか?」
「うん。焦って良い結果が出るとは限らないし、何だか気分転換がしたくて」
 さすがに煮詰まっているのか声にも張りがない。ミサを見たいとは拍子抜けする提案だったが、拒む理由もなかったのでローランサンも話を飲んだ。図書館で暇潰しをするのも飽きてきたところだ。観光に出るほど暢気な気分でもなかったがイヴェールも随分と参っているようだし、たまには神頼みも悪くない。
 翌日、たっぷり冬服を着込んで二人は部屋を出た。雪は降っていなかったが、刺すような冬の風は容赦なく隙間から皮膚にまで染み込んでくる。買い直した丈長のコートを翻し、一階のカウンターでイヴェールがミサに行く事を伝えると、若い宿の女将は大袈裟に驚いた。
「あなた、大学ならともかく教会にもその格好で行くつもりなの?悪い事は言わないからドレスを着ていきなさい。せっかく美人なのに、恥じらいがないと陰口を叩かれるのがオチじゃないの」
「……女物の服は持っていないんです」
 またこの話題かとイヴェールはげっそりする。カウンターから身を乗り出し、女将は早口で捲くし立てた。
「なんですって、ずっと男装だったの?そんなの駄目よ、勿体ない!私の服で良かったら貸してあげるから、早く着替えてらっしゃいな」
「いえ、あの、そんなご迷惑は」
「遠慮しないで。そんな格好でいられた方が迷惑よ。いくら教会で娼婦が客引きするようなご時世でも、ミサがある時間くらいは慎みなさい。男達も目のやり場に困るでしょうに」
 ねえ、と横目で同意を求められる。ローランサンが無言で頷くと、裏切り者とイヴェールが脇腹を叩いた。だが女将がいる手前、強く反論はできないらしい。彼女はいかに申し出を断るかあれこれ言葉を変えて腐心したが、女将の熱心な忠告に抗う術はなく、奥の部屋へと連れ込まれて着替える事を余儀なくされた。
 ――どうもあいつ、女になってから運がないな。
 ローランサンは天井の梁に吊るされている燻製肉を眺め、今日の夕飯について取り留めなく考えながら仕度が終わるのを待つ。遂に相方が女の格好になるのかと思うと複雑な気持ちはしたが、二人とも意地だけでやり過ごす時期は過ぎていた。下手に興味を持たれて正体を知られても厄介な事になる。遅かれ早かれイヴェールは普通の女らしく振る舞い、目立たないようにしなければならないのだ。
 やがて浮かない顔のイヴェールが、扉の奥からちょこんと頭を覗かせた。
「ローランサン。びっくりするほど淑女だぞ」
 捨て鉢な台詞である。扉にしがみつく指と顔の半分ほどしか見えないが、どうやら髪も弄られたのか、大部分が解かれてたっぷりと肩に落ちていた。
「わざわざ予告せんでもいい。早く出て来い」
「分かったよ。あーあ、もう」
 溜息を吐きながらイヴェールが姿を現す。女将の古着と言うだけあって鶯色のドレスは野暮ったい印象を拭えないが、コルサージュの袖口に施された細かい刺繍や波紋のあるスカートは、そんな事を忘れさせるほど彼女を女性らしく仕立てていた。それはコルセットでぐっと腰が引き締められ、一回り華奢に見えるせいかもしれない。あるいは開いた襟ぐりから鳥の羽のような鎖骨が覗き、慎ましやかな胸の膨らみが胸衣に薄く影を作っている事も大きな理由かもしれない。
 イヴェールは鼻の上に皺を寄せて、零れる髪の位置を直した。
「寒いよ。これ」
「……そうだろうな」
 似合っている。とてつもなく似合っている。しかし、どんどん駄目な方向に進んでいる気がする。
「全く、ミサに行くだけで大騒ぎだ。女将さんのお節介も参ったよ」
 彼女は足元に絡まるスカートの襞を爪先で捌いた。ふわりと膨らむ裾は床の干草を舞い上がらせ、小さく風を起こす。小鳥が羽ばたくようだと思ったローランサンは、柄でもない可愛らしい連想を慌てて打ち消した。
 着替えに時間を取らせたせいもあり、宿を出た時は既にミサの開始時間を過ぎている。二人は半ば諦めて教会へと向かった。宿屋のある北門からノートルダム大聖堂までは結構な距離がある。日曜なのでほとんどの店は閉まっているが、太陽が出てきたせいか冬の陽気に釣られ、大勢の人間が外に出ていた。
「嫌だなぁ。パニエが重い」
 慣れない婦人服にイヴェールは早くもめげている。人と擦れ違う際にスカートが巻き込まれて足が縺れるのか、躓いたり道を譲ったりと忙しい。気が付くと随分と離れてしまっている。なかなか隣に並ばないイヴェールに焦れて、ローランサンは荷車の前で引っかかっている彼女の手首を掴んだ。
「お前は酔っ払いか。ちんたら歩いてるとミサが終わっちまうぞ」
「そうは言うけどね。君みたいに大股で歩けるんだったら僕だってとっくに男に戻ってるよ。何だって日曜なのにこんなに人がいるんだ?」
 人ごみから引きずり出された彼女はもどかしげに息巻くと、支えを求めてローランサンの手を握り返した。柔らかい重さと共に首筋に彼女の髪が触れ、反射的に振り払いそうになる。
 ――こんなものだったろうか。女は。
 こんな、折れそうな手首と甘い匂いを無防備に振りまいて。怯えにも似た違和感が今更になって吹き上がった。以前から粗探しでもするようにイヴェールの美しさにどこか不吉な影を見出す癖があったが、女の体では尚更それが強まる。死んだ幼馴染を思い出してざらりと不安を湧き起こされたローランサンに気付かず、イヴェールは片手で裾を持ち上げスカートの皺を直していた。
「悪いけど盾になってくれないか、ローランサン」
「まあ……別にいいけど」
「うん。ありがとう」
 おざなりな口調で礼を言い、イヴェールはローランサンの腕にしがみついた。案の定ふにふにと頼りない肉の感触がして苦い気持ちになったが、さすがに振り払う訳にもいかない。違和感を喉の奥で噛み殺し、頼み通り盾になってやりながら先を進んだ。
「お前、手だけは結構男らしかったのにな。ごつごつして」
「失礼だな。前々からどこもかしこも男らしかったよ」
 繋いだ手から鼓動が伝わってくるのが決まり悪い。イヴェールは危なっかしい足取りで時折こちらの足を踏み、絡まるドレスと奮闘している。躓くたびに握りこまれる細い指の感触を軽口で紛らわせ、ローランサンは道を急いだ。
 橋を渡り、シテ島へ入る。川の中州に位置するこの場所は大学図書館へ通う為にも足を運ぶ道だった。大聖堂の双子の鐘楼と、その背後に突き出る尖塔は毎日のように見ている。天を突く石造りの外観にばかり圧倒されてきたが、実際に混雑する室内に踏み込むと、見てくれは大したものじゃないと気付かされた。
 外から見た時は石の彫刻ばかりが目立ち、灰色の印象が濃かった建造物だが、内部に一歩入り込むと光を受けたステンドグラスが頭上で壮麗な輝きを放っている。高い天井まで蝋燭の火が届かず、室内全体が薄暗いせいか、やけに鮮やかに浮き上がって見えた。
 碧玉、瑪瑙、翡翠、紫水晶、そして深く透明な青玉――。
「薔薇窓だ。さすが綺麗だね」
 イヴェールが嬉しそうに小声で耳打ちする。円形に規則正しく嵌め込まれた七色の硝子は、まるで天井画のようにくっきりと教会を飾っていた。まさに薔薇だ。数えてみると南、北、西の三方向にある。
 ミサは終盤のようだった。典礼の聖歌は続いているが長白衣を着た司祭は既に聖別を済ませ、パンとワインをキリストの血肉に変えた後らしい。ローランサンは孤児院での記憶を揺り起こしてミサのしきたりを思い出そうとしたが、実際は儀式よりも教会の内部を見て回りたくて堪らなかった。このくらい豪華なら盗む物の一つや二つ隠されていそうだと罰当たりな事を考える。
「聖体拝領だ。僕も行ってこようかな」
 きょろきょろと辺りを見回しているローランサンとは対照的に、イヴェールは奥の主祭壇に注目していた。司祭が聖餐式のパンを取り、列を成した信者に千切って分け与えている。一人ずつ口を開け、舌の上にパンを乗せていくので時間がかかりそうだった。
「止めとけ。混んでるぞ」
「でも、せっかく女装までしてきたんだから」
 ミサの神聖な空気に触発されて機嫌が直ったらしい。イヴェールはローランサンの腕を引くと、先程とは逆に先陣を切って人込みを掻き分けていった。仕方なく列に並んで順番を待ち、それとなく手を解く。親密すぎる指の結び付きに緊張していたのは双方だったのかもしれない。手を離すとイヴェールはちらりと顔を上げ、困ったように、あるいは労うように微笑んだ。
「やあ。二人してミサですか?」
 声に振り向くと、大学図書館での知り合いだった。フレデリクと言う青年である。短くさっぱりとした栗毛で、確かどこぞの御曹司だったはずだ。背伸びしたがる理屈っぽい学生達の中ではいくらか健全な部類で、牛のように気立ての良さそうな目をしているが、育ちのいい人間の例に漏れず適度に目聡く図々しい。
「イヴェールさん、ちゃんとした服も着れるんだね。髪を下ろしているのも素敵ですよ」
 彼はにっこりと微笑み、率直な冗談と誉め言葉を口にした。見惚れているのは確かなようだが視線が露骨でないあたり教育が行き届いている。イヴェールも苦笑まじりに礼を言い、猫を被って愛想よく返答した。ローランサンもこの青年とは親しい方だったので、幾分ほっとしながら立ち話をする。
「そう言えば、ここ最近随分と物騒になったみたいですね」
 ミサの静寂を壊さないよう気を配りながら、フレデリクが言った。
「セーヌ川で酔っ払いの死体が上がるのは珍しい事じゃないんですが、ここしばらく殺しが続いているみたいですよ。夜警の連中が警戒しているのか、どうも検問まで厳しくなったみたいで」
「へえ。殺しなのか?」
「強盗らしいですよ。身包み剥がされて捨てられるみたいですから」
 パリでは規則として夜七時になると各通りに鎖が張られて封鎖される。雑踏が引けた通りには検問の自警団が見回りをしているが、それでも夜の都市が柄の悪い連中に牛耳られている事に変わりはない。フレデリクの話によれば、港の引き込み水路に引っかかった女の死体を皮切りに、一週間に一体、暴行を受けた男女の死体が見つかっていると言う。被害者は中産階級の商人から身分の高い宮廷人まで見境なく、河畔に暮らす住人達は戦々恐々と過ごしているのだそうだ。
「二人とも夜は用心した方がいいですよ。僕らも学寮から抜け出せなくて退屈しているんです」
 ゴシップ好きらしく、フレデリクは些か緊張に欠ける囁き声で片目を瞑る。噂話は全て他人のものだと信じきっている幸福な表情にローランサンは鼻白み、もしこいつが次に襲われたら犯人にもウィンクを投げかけるんだろうか、と詮ない事を考えた。日々の充実感や美しい予感さえ不吉なものへと連想しがちな彼にとって、責任のないフレデリクの態度はやや気に障るものだったのである。
「そうか、気を付けるよ。誰だってあんな泥川に沈められたくはないものな。かえって夜に出歩く手間が省けて良かったよ」
 イヴェールは世間話と割り切り、さらりと相槌を打っていた。彼女の方は自分の体を調べる事に手一杯で、噂話まで興味の幅を伸ばす真似はしない。けれども劇的な話を好む本質からか口調は熱を帯び、真摯に聞き入る態度を保っていた。嬉しそうに相好を崩したフレデリクに、これは落ちたな、とローランサンは勝手に見当を付ける。
 そんなやり取りをしている間にも聖体拝領の列は短くなっていった。キリストの肉を口にする恩恵に預かる為、先にイヴェールが司祭の前へと進む。軽く膝を折り、顔を仰向かせた彼女はそっと口を開いて、差し出されたパンを舌で受け取った。そして一歩退いて場所をローランサンへと譲り、先に戻っていると目配せを残すと、隣を歩き去る。
 こんな事をするのはいつ以来だろう。ローランサンも司祭の前に出、顔を仰け反らせて施しを待った。孤児院時代は本当に肉の味がするのかと胸を震わせたものだったが、やはりパンはパン。期待した味はしない。
 列から抜けて後ろへ戻る。再び薔薇窓の下まで来ると、イヴェールの姿が見当たらない事に気付いた。これだけのミサだ。単に人ごみに埋もれているのかもしれないが、あの銀髪を見落とす方がかえって難しい。
 ――どこ行った、あいつ。
 ローランサンはパンを噛みながら場所を移動する。聖母マリアへ捧げられた山のような蝋燭、天に伸びる巨大な円柱、信者席のベンチ、みっしりと彫刻が施された門――どこにも見当たらない。最初こそ暢気に考えていたが、自分の靴音に急かされて耳鳴りが始まり、聖歌と重なってわんわんと鼓膜を叩き始めた頃には早くも自失していた。
「おい、イヴェールを見なかったか?」
 一足遅れて聖体拝領から戻ったフレデリクに尋ねる。青年は何事かと首を振り、探すなら手伝おうかと提案したが、まどろっこしい台詞を最後まで聞く時間が惜しかった。踵を返して教会内を見渡す。ミサは終わりに差し掛かり、祭壇では聖杯が飲み干され、最後の祝福が与えられようとしていた。
 ――どこに。
 こんな人目がある中、何かが起こったとは考えにくい。はぐれただけだ。だが折れそうな手首も引っ張れば倒れる細腰も、何かが起これば一瞬で消えてもおかしくはないのだと意識の底が不安で揺らめく。ただでさえ体が変わる非常事態の後だ。どんな事が起こっても不思議ではない。
 ローランサンは舌打ちした。フレデリクの野郎が嫌な話をしたせいだ。我ながら最悪な可能性ばかり思いつく。
 とにかく様子を見ようと教会の側廊を抜け、出口へと戻った。中途半端な場所にいるよりもここで人が減るのを待っていた方が早い。頭を冷やす為にも一旦はじっとしていよう。
 だが出口の階段に足を掛けたところで、外の広場へと続く石畳の道に求める後ろ姿が眼に入った。階段を下り切った場所に銀髪の娘が突っ立っているのが見え、安堵と怒りで頭をごちゃまぜにしながら呼びかける。
「イヴェール」
 まさか教会から出ていたとは。声が聞こえていないのかイヴェールは悄然と道に佇んでいる。業を煮やして肩を叩きに行くと、弾かれたように彼女は振り返った。
「……ミシェルが」
 イヴェールが唖然と呟く。
「《女王》を首に付けている男が、今」
 それは彼女が長らく追っている宝石の名だった。瞬間、ローランサンは全てを飲み込む。自分にとっての赤髪と同様にイヴェールが執着して止まないもの。転々と不幸を呼び込む紅玉。
「……ミサにいたのか。どこのどいつだ?」
「分からなかった。横顔だけだったから。身なりのいい黒髪の、背の高い男で、ブローチを首に――教会から出て行って、追いかけたけど」
 混乱しているのかイヴェールの言葉が途切れ途切れになる。群集を押しのけて走ったのか呼吸が荒く、思いがけず《女王》を見つけた不意打ちに彼女はうろたえていた。やがて気持ちに引きずられたのか腹を押さえ、苦しげに体を折り曲げる。
「気持ち悪い……吐きそう」
 しゃがみ込むイヴェールの足元で、鶯色のスカートの裾が泥を吸い込んだ。驚いて背を擦ると、体温が下がっているのか布ごしにも熱を感じ取れない。
 ――何でこんな時に。
 とにかく落ち着くのを待って休ませなければ。退路を求めて広場の雑踏を見やる最中、行き交う人々の合間に目を凝らしてはみたが、イヴェールが目撃したブローチの男は影も形も見当たらない。まるで疫病神だと、ローランサンは飼いならせない不安に胸を曇らせた。






END.
(2010.12.04)

続きますー。もうちょっと彼氏っぽく振舞ってもいいのに、それを躊躇うあたりが我が家のロラサン。綺麗で健全なものは苦手、と思い込みたいお年頃。



TopMain屋根裏女体化



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -