天使還り




Laurencin×Hiver♀








 パリの朝は早い。セーヌ川の左岸、学問の中心地であるカルチェ・ラタンの学生街では、早朝六時から最初の講義が始まると言う。
 エスプリの連中でさえそうなのだから、商工業の盛んなセーヌ川の右岸――いわゆる俗世間に住む市民達は、まさに夜明けよりも早く目覚めて働き始める。それは寒さが忍び寄る冬先でも変わらない。
 時刻は五時半。下男下女は井戸で水を汲み、パン屋は窯に火を入れる。商人達も広場に露天を組み立て、パリの城門は旅人や物売りが列をなして開門を待っている。
 まだ松明が必要な薄暗さだと言うのに、朝靄の中は既に賑わい出している頃合いなのだ。セーヌ川の桟橋にも、やがて一番船が到着するだろう。
 けれど宿屋でぐったりと眠り込んでいる旅人達に、まだ本格的な朝は訪れない。
「……あー」
 ローランサンは寝返りを打ち、藁布団の中で大きく腕を伸ばした。抱いていた皮袋と剣が服の金具にぶつかり、かちゃりと冴えた音が意識を呼び覚ます。彼は布団の中で身じろぐと、目元を拭って起き上がった。
「くそ……むさ苦しい……」
 個室が取れずに雑魚寝の大部屋に泊まる事になったせいで、どうも寝付きが悪かった。周りにごろごろと眠っているのが汗臭い男達だと言うのも理由の一つだろうが、悪党ひしめくパリの街に来ている緊張が眠りを浅くしている。以前にも何度か滞在した事はあるが、この街特有の気配には一向に慣れる気がしない。
 ローランサンは布団の中で服を整え、革靴を履いた。依然として周りの見知らぬ旅人達は眠り込んでおり、連れのイヴェールと言えば、こんな早朝に起きてくれるなど元から期待していなかった。
 予想通り「せっかくパリに着いたのに藁布団の大部屋なんて!」と昨夜は嘆いていた当の本人は、すっかり隣で眠り込んでいる。品の良い顔立ちをしているので女っ気のない大部屋に泊まるのは貞操の危機ではないかと密かに案じたのだが、そうした見た目はともかく、イヴェールは寝汚い男なのだった。
 しかし意外な事に気配を察したらしい。
「ねこ……」
 どうやら目覚めたようだ。訳の分からない寝言を言っている。さっさとパンでも買って一人で朝食を済ませてしまおうと考えたローランサンの計画は呆気なく頓挫した。
「早いな、イヴェール」
 驚きを隠して隣へ声を掛ければ、イヴェールは不服そうに眉を寄せる。顎の下まで藁布団に潜り込み、彼は寝ぼけ顔で再度訴えた。
「……猫がいる……」
「は?」
「潰しそうだ……預かって」
 イヴェールは夢うつつに言った。瞼が落ちかかって二度寝をしそうな気配だが、もぞもぞと居心地悪そうに身じろいでいるところを見ると安眠を阻むものがあるらしい。意味が分からずに首を捻ると、彼はこちらの腕を取って引き寄せた。ローランサンはぎょっとする。
 ――こういうの、前にもあった気がするな。
 若さとは恐ろしい。寝ぼけたイヴェールに誘われて、そのまま盛ってしまった事があった。だが今いる場所は雑魚寝の大部屋で、眠っているとは言え屈強な男達がいる無法地帯なのだ。どんな夢を見たのか知らないが、こういう無自覚な誘いは騒ぎを起こすので勘弁して欲しい。
「馬鹿、猫なんて入り込む訳――…」 
 言い返そうとしたローランサンは、掌に感じた感触に言葉を切った。と言うか、切らざるを得なかった。
 なんだこれ。
 猫だと言われて押し当てられた場所は、横向きになって寝転がっているイヴェールの、ちょうど胸元だ。布団の下になっているので視界からは確認できないが、むにむにと、確かに柔らかなものがある。
 ただそれは猫のように真ん丸ではなかったし、猫だとしても子猫だった。
 そしてやっぱり、猫でもない。
「おまっ、なん、胸……!?」
 反射的にローランサンは手を離す。驚きのあまり声が裏返ったが、周りに転がる高いびきの連中を思い出し、慌てて押し殺した。
 焼きついたように残る手の感触は、彼も見知った柔らかさだ。なだらかな山なりの形、心地良く張り詰めた蕾。だがそれは花街でくどい化粧の匂いを嗅ぎながら探り当てるもので、相方の胸板に見つけるものではない。断じて、ない。
「……あれ……?」
 こちらの動揺に気付いたのか、あるいは自分でも妙だと思ったのか、ぱちぱちとイヴェールは目を瞬かせて体を探り始めた。そのオッドアイが普段よりも丸く優しげだと気付き、ローランサンは密かに耳を赤くさせる。反対に、イヴェールは見る見るうちに青ざめていった。
 こんなに寝起きのいい彼は初めて見る。イヴェールは勢いよく起き上がると、ローランサンの腕を放り投げ、空いた手で自分の胸元を執拗に確かめた。
「猫じゃない」
「……だろうな」
「鼠でも、ない……」
「…………」
 掛ける言葉が見つからない。布団を跳ね除けて途方に暮れた顔をしているのは、天から遣わされたような銀色の髪の乙女だったのだ。

 しばらく二人で唖然として「猫が」とか「胸が」とか喚いていたが、どうしたって異常な事態である。イヴェールは体のあちこちを触っては青ざめたり赤らんだりしているし、ローランサンと言えば「朝起きたら相方が女」と言う現実を受け入れる為、何度か自分の頬を叩かなくてはならなかった。
「一体これは何なんだよ。俺はカトリックじゃないから詳しくないが、まさかお前、生まれる時に悪魔と契約したとか呪いを受けたとか、そういうの?」
「……微妙に核心を突いてるのが悔しいな」
「マジかよ」
「いや、冗談冗談。あはは、はー……」
 最後の笑いは溜息に変わる。イヴェールは肩を落とし、半ば涙目になりながら体を触るのを止めた。確かめているうちに男に戻るのではと言う期待は捨てたらしい。ひくりと半笑いで首を傾けた。
「ええと、初めましてイヴェーリーナです……わよ?」
「……笑えない冗談は止せ」
「だって、これ、どうすれば」
 最初の混乱が去ると、二人とも黙りがちになる。盗賊と言う職業上、これまで数々の立ち回りを演じてきた彼らだが、今回ばかりはどう対処していいのか分からない。ぼそぼそと話しているうちに周りが起き出す時間になり、ともかく早く宿屋を出ようと二人は荷物をまとめる事にした。
 イヴェールの体は随分と縮んでいるようで、服の裾を折り込まなければ余ってしまう。彼女(残念ながら彼、ではない)は苦労して皮のベストをずり落ちないよう腰回りを留め具で締め上げ、次いで、がぼがぼと音が鳴る革靴を履いた。思わずローランサンが盗み見れば、その輪郭は確かに小柄な女性のものである。
「…………」
「……何か言いたそうだね、ローランサン」
「いや……」
「何か言ってくれた方が、むしろ助かるんだが……」
「…………」
 満足に感想も出てこない。イヴェールの準備が済むと、二人はそそくさと宿屋を後にした。店の看板娘が「朝食はいいんですか?」と愛想良く聞いてくれたが、一晩にして男が女に変わるオカルトな宿からは早くおさらばしたい。テンションがダダ下がりな客を奇妙に思ったのか、娘はまじまじと二人を見比べた。
「あれ。お連れさんは女の方、でしたっけ?」
「……でした」
「……です」
 嘘だが、他に返しようがない。
「嫌だ、夜にいらっしゃったから見間違えちゃったわ。あたしったら、ハンサムな男性の二人連れだとドキドキしていたのに」
 娘の屈託ない言葉に引きつった笑みを返し、二人は逃げるように朝靄の通りに出た。
 場所はパリの北門に近い界隈である。本当ならこの街で、転々と居場所を変える赤い宝石の情報を集め、ついでに盗賊家業で懐を潤した後に冬支度をしようと息巻いていたのだが、そんな意気込みは今の二人から消えていた。
「……どうすんの、お前」
 朝食に焼き立ての黒パンを手に入れて、歩きながら食べる。イヴェールは黙々とパンを頬張りながらどこか道の一点を見つめていた。ショックのあまり魂が抜けたのかとローランサンは案じたが、やがて彼女は小さく「古着屋」と呟く。
「古着屋?」
「この体に合う服を買う。それから、教会。あるいはセーヌ川を渡ってカルチェ・ラタン」
「……へえ」
「調べない、と……」
 きちんと考えていたらしい。イヴェールは物憂げに目を伏せ、パン屑が散らばった唇を舐めた。妙に心細げな様子が気の毒になり、ローランサンは彼女の髪を掻き回す。
 二人の視線は以前ほとんど同じ位置にあったのに、今のイヴェールの頭はローランサンが腕を置くのにちょうどいい位置にあった。その低さが現実を示すようで、物悲しい。
「う、うぅ……!」
 すると急にイヴェールは唸り、ぽろぽろと泣き出した。コップに注いだ水が堪えきれずに溢れたような、そんな爆発の仕方だった。
「……な、なんで僕が女なんだ!そりゃ、生まれる前に死んだとか、ア、アイデンティティが白紙だとか仮転生だとか、色々と不安定な部分はあるけど、でも、何も天秤だからって性別まで傾く事ないじゃないか!前触れも全然なかったのに!」
「…………!?」
「ミシェルの仕業なのか、それとも噂に聞いたマダムなのか知った事じゃないけ、ど……っ!性質が悪いにも程があ……るっ」
 きゃんきゃんと訳の分からない事を言い出す。イヴェールは憤然と声を震わせながら、乱暴に黒パンを噛み千切った。普段の優雅な態度からは考えられない仕草である。その間も涙は止まっていない。
 慰めればいいのか行儀が悪いと注意すればいいのか迷ったが、ひとまず話は前進したようだとローランサンは密かに胸を撫で下ろした。
「……その言い方だと心当たりはあるみたいだな」
「ああ、こっちの話だけどね!ふんっ、大丈夫、このくらい屁でもないさ。自分で何とかするから、ローランサンは仕事でも観光でも好きに動いてくれて構わないよ。それにしてもこの黒パン、絶品だな!」
「……分かったから、食べるか泣くか喚くか、どれかにしろよ」
 せっかくの可憐さが台無しだった。女が情緒不安定だと言うのは本当らしい。その上、往来で連れの女が泣いていると言うのは外聞が悪く、先程から非難するように人々の視線がローランサンに集まってきていた。
「相棒が急に女になったんじゃ気味が悪くて仕事だってはかどらねぇよ。観光がてら、付き合うから」
 そう言うと勇気付けられたのか、心なしかイヴェールは瞳を輝かせた。
「そうか……ありがとう。それは助かるな、うん」
「で、何だっけ。先に古着屋?」
「ああ、こんなサイズが合わない服は見っともないからね。ついでに冬用に新調しよう。これくらいで予定を崩すのも癪だし」
 イヴェールはそう言って最後の一口を飲み込むと、ぐいっと涙を拭った。少しは気が晴れたのか賑わう大通りへ決然と歩き出していく。痴話喧嘩だったのかと集まっていた視線も散らばっていき、ローランサンは目を細め、深く溜息を吐いた。




* * * * * * *




「……で、何で男物なんだよ」
「癪だと言ったろう。それに意気込みかな」
 露天が軒を連ねる雑多な界隈の、とある古着屋。試着用の仕切りから顔を覗かせたイヴェールは、文句があるかと鼻を鳴らした。
「厚手のコートを着れば体のラインも見えにくくなるしね。まったく、女物なんて余程の事がない限り着るものか」
 今がその余程の事じゃねえの、とローランサンは言いかけたが、もし自分が今のイヴェールの立場だったら同じようにするだろうと考え直して、口を噤む。陳列された古着の山を冷やかしながら、装いも新たに張り切るイヴェールを横目で眺めた。
 彼女の趣味なのだろう。たっぷりとしたフリルのシャツと長袖の上着は、色合いを除けば以前の服と似通っていた。落ち着いた紺と白の組み合わせは古着の為に多少の型落ちをしているが、それでも見劣りはしない。襟のレースに細かな花の模様があるが小さなもので、折り返しのついた膝丈の靴も少年のようである。女性らしさとは無縁のデザインだが、胸元で光る銀の飾り釦、そして刺繍のついた絹のリボンで後ろ髪をまとめているせいか、それは随分と華やかに見えた。
「…………」
「拍手をどうぞ、ムシュー?」
 イヴェールが軽く両手を広げる。おどけた台詞とは逆に目が笑っていない。ローランサンは賢明にも沈黙したが、やはり数秒後には告げなければならなかった。
「……男装の麗人って言う程、凛々しくないぞ」
「うるさいな!」
 本人も自覚はあるらしい。コートを着ればいいと強がっているが、女らしい繊細な骨格は隠せていなかった。例え今イヴェールにバリバリの男装をしようとしたところで、顔立ちや体つきのまろやかさが堅い装いを裏切るだろう。
「いいんだよ、別に。意気込みなんだから」
「あと……脚を出すのもどうなんだ?」
 中世では女性が脚のラインを露にするのは風紀を乱すと禁じられていた。キリスト教の影響で、女体は男を誘惑して楽園から堕落させるものと言われた為、隠さなければならなかったのである。何故か胸の谷間に関しては寛容なのだが、そこはやはり風俗的な問題のようだ。
 ローランサンもその考えが分からない訳でもない。元から細身の服を好んでいた事もあり、今もイヴェールはぴったりとしたズボンを履いていた。女の肉の付き方は柔らかく、腰回りから太股までの曲線は華奢だと言え、それなりに豊かである。生地の厚い冬用の上着のおかげで胸の膨らみは細やかなものに抑えられているが、くびれた腰を際立たせているようにも見えた。
 本音を言えば、魅力的である。
「……どうなんだ」
 苦々しくローランサンは視線を泳がせた。繰り返すが、少なくとも脚は出すべきではない。下手をすれば場末の娼婦よりも扇情的な格好だと熱を込めて忠告するべきだろう。しかしイヴェールは聞く耳を持たず、艶然とした笑顔で腕を組んだ。
「アダムの苦悩なんて知らないね。勝手にイヴへ焦がれていればいい。それに近いうち僕は元に戻るんだから、これも一時的な格好だ。くれぐれも変な気は起こさないでくれよ。君の事は好きだし、気持ちのいい事も嫌いじゃないが、今はそれどころじゃないからな」
「……了解」
 相変わらず目が笑っていないところを見ると、どうも臨戦態勢らしい。普段は穏やかでローランサンをからかうのが趣味のような男だが、冷ややかに言い放つ現在のイヴェールにそんな余裕は残っていないようだった。つくづく二面性のある性格だ。
「それで、君は何か見つかった?」
 話は終わりだと、イヴェールは兎の毛が縁取りされたコートを羽織って試着室から出てくる。跳ねる彼女の張り詰めた脚線を見咎めてローランサンは渋い顔をしたが、仕方なく適当に見繕っていた服を示した。
「俺はこれでいい。さっさと調べに行こうぜ」
「……少し古いな。もっとこう、流行のはない?」
 不満げにイヴェールは首を傾けた。
「古着屋で無理言うなよ。それに俺、今時のって好きじゃない。袖口が無駄に膨らむし」
「まあ……地域によって流行り廃りもあるしね。君は実用的な方が好きだものな」
 イヴェールはぶつぶつ言いながら、他に良い物はないかと品物を物色し始めた。
「たまには明るい色を着てみれば?ほら、こういうのとか」
「お断りだ。どこのお坊ちゃんだよ、これ」
「悪くないのに。じゃ、ブリタニア風は?」
「あー…堅苦しいけど動きやすそうではあるな」
 露天の天井から吊るされた物を背伸びして取り上げ、イヴェールは服を広げてローランサンの胸に押し当てた。見立ててくれているらしいが、趣味が違うので押し問答になる。
 状況も忘れて普段の調子でああだこうだ言っていると、カウンターの奥から太った店員が暢気そうに出てきた。
「おたくら旅人だね。うちは最近ちょいと品薄なんだ。きちんとした物を揃えたきゃ、こんな露天にいないでギルド認定の店に行きな」
 それから二人を見比べて、
「……せっかくの別嬪に男装なんざ勿体ないねぇ。甲斐性のねぇ旦那だよ。それとも、そう言う趣向かい?」
 と言う。
 二人は互いに顔を見合わせ、微妙な顔で沈黙した。






END.
(2009.11.20)

続く。むしろこれからが本番。文章で書いてみたかったサンイヴェ♀です。百合は一度やったんですが、それとは違う二人の反応が見てみたくて挑戦してみました。ついでにカップルで冬先のパリ観光だぜ、ひゃっふー!




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