犬の転身




Sirius×Eleuseus♀












 しどけなく散らばった月毛が、寝台の周りに広がっている。
 伏せられた紫の眼。涼しげな長い手足。仰向けに寝転がった彼女の、ほんのり日に焼けた肌が闇夜に浮かび上がっていた。
 姫さん、身体を冷やしちゃ駄目ですよ。そんな薄着じゃ、また腹が痛くなっちゃいますって。
 シリウスは毛布を持ったまま話しかける。気を遣っているつもりなのだが、何故、俺は彼女を見下ろす位置にいるのだろう。早く毛布を掛けてやりたいのに。
 アメティストスは少し寝ぼけているようだった。とろりと目尻の辺りが細められている。しかし「可愛いなぁ」なんて暢気な感想も次の瞬間、喉の奥に引っ込んでしまった。
 ――シリウス。
 不意に彼女が上半身を捻って身を起こし、こちらの名を切なげに呼ぶ。白い肩から衣が落ちた。
 深い胸の谷間へ、三つ編みが零れる。衣は身体の線をなぞって流れ落ち、たっぷりとした襞を作って太股の付け根で止まった。それはもう悩ましい位置で。
 あの、姫さん? 
 見惚れながらもシリウスは慌てる。物凄く嬉しい構図だが心が追いついてこない。膝立ちになったアメティストスが何か言ったようだが聞き取れなかった。言葉の通じない幻想の生き物のように、気品と、情熱と、しとやかに暗く追い詰められた欲望が覗く彼女の腕が、差し出される。
 へ?
 あれ?






「だから腹が冷えますってば――…ッ!」
 跳ね起きた瞬間、平和な小鳥の囀りを聞いて我に返った。
「……ああ……うん。夢ね、夢。お約束な」
 シリウス寝台の上で乾いた笑いを浮かべ、眠気覚ましに乱暴に顔を拭う。部屋の窓からは普段どおり白い朝日が差し込んでおり、意識を現実に引き戻してくれた。
 途中から薄っすらと勘付いていたが、残念なような、ほっとしたような、何とも言えない複雑な気持ちが広がった。しかし一度ちらっと見ただけの裸まで忠実に再現してくれるだなんて、男の煩悩とは偉大である。
 アメティストスが女性と知って数週間。意識すまいと努力はしてみたが、遂に下心丸出しの夢まで見るとは。
 すいません姫さん不可抗力なので許してください変な事はしませんでした、と手を合わせて拝んでみたが、これじゃ怨霊扱いだなと気付いて止めた。ぼさぼさの髪を後ろに撫で付け、シリウスは瞬きを繰り返す。
(でも、やっぱ綺麗だったなぁ)
 じっと座っていると夢の光景が瞼の裏でちかちかと舞う。派手に飛び起きたせいか既に記憶の一部が吹き飛んでいる事に気付き、続きはどうすれば見れるのだろう、とシリウスは首を傾げた。
 自分だって男だ。うっかり芽生えた不埒な感情に戸惑ってはいたものの、夢の続きに興味がない訳ではない。まず現実では起こらないような場面だからこそ、尚更。
(だって姫さん、絶対興味なさそうだもんなー…)
 溜息が漏れる。本気の恋に落ちたが最後、耐えるだけの日々になるだろうとシリウスは半ば覚悟していた。ただでさえ自分の事を語りたがらず、戦いに没頭したがる人だ。主人と部下としての距離がこれまで順調すぎたからこそ、それ以上踏み込ませてくれる気がしないんだよね、と冷静な声が告げる。
 認めたくはないが、何より男として意識されていないような、気がした。アメティストスは意外に照れ屋なので頬を赤らめる場面は何度か見たが、シリウスと二人っきりで軍務の相談をする時は、ごく無造作に女性の格好に戻る。その姿で「生理中は胸が張るから余計に肩が凝る」と溜め息まじりに愚痴られた時は、本当、反応に困った。もうちょっと言動に気をつけて欲しい。
 男装をしていた時点で誰かと恋仲になる事を避けていたとも取れるし、将軍として多忙な彼女が、果たして恋愛など甘っちょろい事に心を向けるだろうか――…やはり望み薄だ。
 第一、硬派な彼女の事。告白でもしたら物凄く迷惑な顔をしそうである。ふざけてるのか、と一刀両断される場面が思い浮かんでシリウスは軽く落ち込んだ。
(いやいやいや、全く脈がない訳では……!)
 ぶんぶんと首を振り、寝ぼけた頭で可能性を検討していると、背後から呆れた声が掛けられる。
「……朝から百面相の練習でもしてるんですか」
「うおっ、オルフ!?」
 同僚が部屋の扉に手を掛けたまま佇んでいるのを見つけてシリウスは飛び上がった。顔が赤くなる。
「ええっ、ちょ、いつ……お前!?」
「貴方がぶつぶつ言いながら気違いのように拝み始めた所からですよ。医者でも呼んでこようかと思いましたが、生憎、ここでは私が一番医学に詳しいようですから」
 オルフは溜め息を吐いた。長い前髪の下からでも冷ややかな視線を感じる。少しは敵意を隠してくれ。
「無駄な時間でした。まったく、何が楽しくて貴方の寝起きなんて見守らなければならないんですか。気付け薬ならすぐに出せますから朝食前に如何です?」
「……薬より、俺、お前の言葉で眼が冴えそう」
「それは結構。節約になりましたね」
 オルフは済ました顔で頷いている。とりあえずシリウスの不埒な夢うんぬんは気付かれていないようだ。敬愛する紫眼の狼に邪まな想いを抱いていると知られたら、少なくとも苦い気付け薬だけでは済まされないだろう。まだオルフはアメティストスが女性だと知らされていないが、どんな事情があろうとも、自分に対する嫌がらせだけは充分に推測された。
「それで、俺の寝起きを見に来てまで何か用か?」
 自分可愛さにシリウスは話題を逸らす。無駄口を叩くのも不毛だと考えたのか、オルフもあっさりと話に乗った。
「どうもこうも私の隊からの報告ですよ。仕入れが近いから、補充したい物があれば早いうちに言えと聞いていましたが?」
「……あー、アレか。確かに早いうちにとは言ったけど、だからって別に朝っぱらじゃなくても良かったんだが」
「昼は昼で忙しいんですよ。口頭で言いますから書き取って下さい」
「おいおい、ちょっと待てって」
 慌しく筆記用具を引っ張り出し、予算と付き合わせながら書き込んでいく。ついでに不謹慎な夢の名残も追い払い、シリウスは公私を含め、改めて自分達の現状を冷静に整理する事にした。
 ちっぽけな一隻の船から始めたとは思えない程、現在の部隊は拡大している。今もテッサリアの隠し里に逗留しているが、周辺諸侯の警戒も厳しくなり異民族の動きも激しい昨今、どこで大規模な戦に発展するか分からない。準備しておかなければいけない事は山ほどあり、いつ戦死するかも分からない。とてもじゃないが恋だの何だの、甘い事を言っている余裕はなかった。
(俺も夢で想うのが精々、って事か)
 しょっぱい結論である。
「……結構堪えるなぁ……」
「どうしました?これくらいの仕事で泣き言とは」
「どーせ俺は情けないっての。慰めてくれ畜生」
「冗談を。だとしたら使えない畜生は貴方の方です」
「ひでぇ」
 事情を説明する事も出来ず、ぐだぐだと同僚に八つ当たりをしても邪険にあしらわれるばかりで気が紛れない。何事も堅実にこなすシリウスにしては珍しい態度にオルフは気味悪げにしていたが、二日前に受けた「アメティストスが可愛く見えてどうしよう」という相談を思い出したのだろう。盛大に口を曲げた。
「もしやシリウス、また閣下絡みじゃないでしょうね」
「……いやいや、まさか」
「今ぎくっとしませんでしたか」
「俺は気のせいだと思います」
「私は気のせいではないと思いましたが」
 じっとりと視線が刺さる。やはりアメティストスの事となるとオルフの追求を逃れる事は出来ないと悟り、シリウスは投げやりに腕を組んだ。
「気のせいって事にするんだよ、俺は」
 口に出したら覚悟も決まる。彼は表情を改めた。
「確かに姫さ――大将を可愛いと思ったが、正直それどころじゃないのは分かってるよ。無謀な賭けは軍務以外で控えておく主義だ。この際忘れる事にする。これでも分別はあるんでな」
「……どうですかね」
 オルフは渋い声を出した。
「貴方がどういう意味で閣下を気にしていたんだか知りませんが、そう上手くやれますか」
「俺はやると言ったらやる男だ」
「今まで愚痴ってた癖に?」
「おうよ」
 そうだそうだ、とシリウスは自らに言い聞かせた。
 ちょっと美人だから何だ、巨乳が何だ!片思いなんて不毛な真似はしない!俺は仕事に生きる男だ!アメティストス様は恩人、それだけで尽くしてやってやる――!
「オルフはここか!」
 ばん、と扉の開く盛大な音がシリウスの闘志を挫いた。噂のアメティストスである。無遠慮に室内に入り込んできた主人の格好に、オルフ共々ぎょっとした。
 どういう訳か、酷くみすぼらしい姿なのである。きっちりと男装をした彼女の出で立ちは普段通りなのだが、服の前がべったりと何かよく分からない物で汚れているし、綺麗な髪もぼさぼさで藁がくっついている。シリウスは先程の煩悩も吹っ飛ばして尋ねた。
「ど、どうしたんです、海で蛸とでも格闘して来たんですか?」
「山羊だ」
 彼女は全く説明になっていない答えを返すと、やはり呆気に取られているオルフの腕を強引に掴んで出て行こうとする。慌てて後を追うと、村の北西にある家畜小屋へ辿り着いた。中には村人が二、三人集まっている。
「……何だ。もう産まれたか」
 心なしかアメティストスは気落ちした声で呟いた。引っ張られるまま大人しく付いてきたオルフは、成る程、医者役が呼ばれる訳だと納得している。
「この時期に珍しいですね。御産でしたか」
「酷かったぞ。よく死ななかったな」
 輪の中心には一組の山羊がおり、まだ立ち上がりもしない濡れた塊が藁の上でじたばたと足掻いてたる。追いついたシリウスが小さな木の扉を潜ると、マルコス少年が笑顔で飛びついてくる。
「やったよシリウス!」
「おいおい、こりゃ何の騒ぎだ?」
「産まれたんだよ、村で二匹目の仔山羊!アメティストス様ったら無理に取り出そうとするんだもん。ああいうのは自然に出てくるのを待つものなのに、無茶苦茶だよ!」
 そうは言いつつも余程嬉しいのか少年はにこにこしている。仔山羊の粘膜でべたついた掌を擦り合わせ、アメティストスも素っ気無く肩をすくめていた。
「馬の御産は一度立ち会った事がある。同じようなものかと見ていたら、とんでもなかったな。破水の色も妙だし、頭だけ出したまま動かないから死産かと」
「ああ、それで引っ張って汚れたんですね」
「産まれる途中の仔山羊に顔を蹴られる経験も、そうないだろうな」
 子供にへばりついた粘膜を母山羊が舐め取って食べている。興味を覚えたのか、止せばいいのにアメティストスも自分の汚れた指先を舐め、綺麗とは言いがたい表情を浮かべていた。シリウスは毒気を抜かれて頭を掻く。
(まったく……)
 どこの将軍が朝っぱらから薄汚い家畜小屋で興味本位で山羊の御産に立ち会い、要らぬ手伝いをして村人を困らせると言うのだ。せっかくの容貌も血の混じった粘液やら泥やらですっかり汚れている。
 が、シリウスは頬が緩むのを感じた。
(やっぱりこの人、変だなぁ)
 強くて格好いいけど破天荒だし、綺麗だけど乱暴で、人使いも荒いし強情だし何を考えているか分からないけれど、放っておきたくない。小屋の中には柔らかい安堵の雰囲気が漂っており、彼女はしゃがみ込むと感情の薄い顔つきで仔山羊を観察していた。身なりを整えればいいのに、相変わらず汚れた手を拭わずにいる。
 夢に出てきた美しいだけの女ではなかった。無愛想だが、自然と輪の中心にいる人。手は掛かるが憎めない人。シリウスは彼女の手や髪を洗ってやりたくてうずうずした。
 くそ、何て世話好きの心をくすぐる生き物なんだ!ぎゅっと出来たら更に文句ないのに!
「オルフ」
 彼はこっそり同僚へ耳打ちする。
「悪い。改めて大将、可愛いわ」
「……刺しますよ」
 青臭い恋をしてしまいそうな予感がした。

 



END.
(09.06.04)

個人誌『HONEY?』から続いているのでオルフも出演。次回へのクッション的な話。
オルフは心をエウリディケに捧げているので恋のライバルにはなりませんが、恋の障害にはなるかもしれない。でも適当に聞き流しつつシリウスの相談相手になってくれるかもしれない。そんなポジション。


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