ホテルバーのふたり




(レオアメ♀ 現代パロ)






 カウンター席に座ってカクテルの注文を済ませると、決まってアメティストスは後ろ髪を解く。
 仕事中は髪をきつく結んでアップにしているので、ヘアゴムを外し、忌々しいヘアピンを取り払ってしまうと開放感で晴れ晴れとした。普段いかに血行に悪い事をしているのか実感する。ただでさえ癖の強い髪は取り返しのつかないくらいうねっていたが、そんなものは構わない。ざっと両手で髪を背中に流して、ようやく「さて」という気持ちになる。
 さて、今夜の議題は何だ?
 彼女は自嘲気味に腕を組み、店内の音楽に耳を澄ませた。カリブ海生まれの歌謡曲、ボレロ。バーテンダーは黙々と注文した酒を作っている。その作業を視界の端に入れながら一日を振り返った。
 社会人になって一年少々。このバーには頭を冷やしたい時に利用する。職場でのイライラを引きずって帰宅しても妹を心配させるだけだし、自分に必要なのは愚痴を聞いてもらう事でも慰めてもらう事でもなく、ただ怒りを鎮める為の時間なのだと分かっていたからだ。煙草を吸う習慣があれば煙を吐き出しながらじっと心を鎮める時間を持てたかもしれないが、煙の匂いが髪や服に移るのが嫌で、ごく稀にしか利用しない。
 その代わりバーで一人きり、まるで決戦前夜の武将のように時間をかけてカクテルを飲み干す習慣が出来上がっていた。最初にここを見つけたのも、このままでは家に帰れないと電車を途中下車した事がきっかけである。
 その日、まだ夜は浅かった。カフェや軽食店も開いている時間だったが、煌々と明るい店内に入っていくのは気が進まなかった。もっと薄暗い、もっと静かな場所がいい。だからと言って居酒屋などに入るのも気が乗らない。
 歩きながら目に入ってくる候補に次々にバツをつけていって、いくつかの店を通り過ぎたところにあったのが、ホテルの前に掲げてあったバーの看板だった。
 ホテルバーならば、多少お高いだろうが静かだろう。そう即決し、道案内の看板を頼りに小奇麗なホテルのフロントから更に奥に進むと、穴倉のような暗い廊下と、映画のセットのようなバーに辿り着いた。
 アーチ形の天井、煉瓦の壁、吊りランプの仄暗い光。窓が一切ないせいか、ホテルの一階にいるはずなのに地下に潜りこんでしまったような気分にさせられる。どういう訳なのか壁には積み重ねられた骸骨のディスプレイが置いてあった。
 バーテンダーの話によれば、スペインの古城セラーをイメージした造りらしい。となると骸骨は城に押し入ったまま閉じ込められた泥棒か何かの哀れな末路を表現しているのだろうか。そのあたりはよく分からなかったが、どっしりとした石造りの外観に包まれて、店内には密度のある時間が流れていた。カクテルの他にもワインの種類が豊富だという。丁寧に収穫され、長い時を眠りながら過ごしている葡萄の安堵が店内にも宿っているようだった。
 以来、一人になりたい時は度々ここを利用している。バーテンダーにも事情を説明しているので、注文を済ませた後は放っておいて貰えた。
 さて、今日の議題は?
 アメティストスは胸中で始まりの鐘を鳴らす。形骸化した他部署との合同ミーティングの事にしようか。それとも鼻につくモルハラ上司の事にしようか。
 やがて準備が整い、目の前に注文したカクテルが置かれた。礼を言ってグラスに手をかける。各テーブルには小さなキャンドルが置かれており、ちらちらと揺れるオレンジの炎が水面に映りこんでいた。一口、二口と飲んで、グラスをテーブルに戻す。再び水面に揺れる炎を見つめていると、頭の芯にじりじりと鈍い痛みを覚えた。思わず親指でこめかみを押さえる。
 頭痛の原因は分かっている。昼間、ずっと奥歯を食いしばっているからだ。昔から苛立った時はそうしてしまう癖はあったけれど、最近は特にひどい。きりきりと螺子を巻き上げていくように自分自身を痛めつけている。こうして考え事をしている時ですら不自然なくらいに顎に力が入ってしまっていた。意識的に舌で歯の内側を辿る。
 まだ仕事に慣れていないせいからだ――という慰めは既に効力を失っていた。彼女が日々困惑し、苛立っているのは、もっと細々とした人間同士の取るに足らない牽制や、効率の悪い会議の進め方や、デリカシーのない男達の物言いのせいだった。同僚の女性が何かと先輩にいびられているのも気になっている。彼女自身は性格と容貌が相まって同期の中でも遠巻きにされていたせいか、陰湿な人間関係に巻き込まれる事はなかったが、それでも不穏な気配は伝わってくる。やりにくいったらありゃしない。
 ――皆が皆、最善手をさせる訳じゃないんだぜ。
 幼馴染の言葉が思い出された。
 ――お前みたいにきっぱり一番を選んで行動に移れる奴ばかりじゃないんだ。そこを分かっておかないと疲れるだけだぞ。
 ありがたいお言葉である。彼女はこの幼馴染を信用していたし、彼の助言はいつも的を射ていたが、だからと言って毎回それが慰めになる訳ではなかった。最善手を選ばずにうろうろしている連中の為に、どうして月に何度も、こうして自分がバー通いをしているはめになっているのかと苦々しさが拭えない。本当は彼女も晴れやかに家に帰って、妹とお茶したり食事したりしたいのだ。
 アメティストスは飲みかけのカクテルを見つめたまま、真っ黒な雨雲をイメージする。不平不満、憤りをたっぷりの吸い込んだ雨雲。それをアルコールの回った頭で叩きのめし、ぎゅうぎゅうに締め上げて、汚い雨水を搾り取る。真っ白な状態に戻さない限りは家に帰らない。時間がゆっくりと流れるバーでなら、己の怒りに向き合う事も冷静に行えた。その為の習慣だった。
 そうしてむっつりと黙り込んでグラスを眺め、ああだこうだ考えていた時、横から彼に声を掛けられた。
 最初の一言が何だったのか、よく覚えていない。ごくありきたりな「すみません」とか「こんばんは」とか「今夜は寒いですね」あたりだと思うのだが、記憶は丸きり抜け落ちている。次の言葉の方が印象的だったからだ。
「卵はお好きですか?」
 急にそう問われて、さらりと返事ができる人間がそう多いとは思えない。
 それは店に入ってきた時から先客としてカウンターに座っていた、若い男からの問いかけだった。先程からバーテンダーと静かに話しているのは知っていたが、何故かその矛先が自分に向けられたのである。彼女が一人でいたがっている事を知っているバーテンダーは客同士のトラブルが起こらないか成り行きを見守るようにアイコンタクトを送ってきた。話しても大丈夫ですか、少し会話にお付き合い頂けますか?
 心配されなくても相手の出方を見ないうちに噛みついたりはしない。ひとまずは大丈夫だとバーテンダーの視線に軽く頷いてから、問題の男を見る。
 彼は軽くカウンターに肘をつき、首を回してこちらを見ていた。若いと言ってもアメティストスよりも年上だろう。三十の半ばに手が届くか届かないかといったところだ。ラフな黒のジャケットに細身のスラックスという出で立ちである。ふわふわとした茶色い髪は襟足を覆い隠すくらいに長かったが、ずぼらな印象はなく、気立てのよい長毛の大型犬を連想させられた。綺麗に刈り込まれた芝生の上で、ぴんと座っているのが似合う大型犬。あんな髪型が許されるとなると普通の会社員ではないのだろう。
「良かったら、一杯奢らせて貰えませんか。卵を使ったカクテルを頼もうと思ったら、それが卵白しか使わないらしくて――黄身の引き取り手になって貰えると嬉しいんですが」
 それがバーで女性に声を掛ける話題として適当なのか判断に迷うところだが、真っ先に犬を連想するくらいである。口実めいたものは感じられても、男の表情には生臭いものがなかった。こちらを窺う上目遣いの目元だけは猫っぽい気紛れな印象を受けたが、柔らかな声が店内の暗がりによく馴染んでいる。
 整った顔立ち、女受けする深い声、いかにも育ちがよく金も持っていそうな清潔感のある佇まい。どんな職種か知らないが、さぞやモテる事だろう。おそらくアメティストスがすげなく断ったとしても彼は構わないのだ。単純に他人との寛いだ交流を求めて来店したタイプの人間なのかもしれない。
「へえ、ご親切にどうも。黄身を使ったカクテルってどんな?」
 相手が怯むのを期待してぞんざいな口調になる。一人で考え事をしている最中に邪魔が入ったのが疎ましかったのだ。しかし相手は少し意外そうな顔をしただけで動揺する兆しはなく、むしろこちらと同じように口調を崩し、さらりと本題を切り出してくる。
「さっき教わったんだ。何だったかな。ゴールデン・フィズ、シェリー・フリップ、アイ・オープナー、シルビア――ああ、それからエッグ・ノッグだったかな」
 歌うような抑揚だった。記憶を辿るように男の目線が緩やかに揺れる。突っぱねてやろうと用意していた台詞が、ふっと引っ込んだ。
 ――エッグノッグって随分と可愛い名前だわ。何故かしら、エッグってどこか童話的な響きがするのよね。鳥の卵、恐竜の卵、卵焼き、目玉焼き、スクランブルエッグ。子供の頃に読んだ児童書にいつも出てきたような気がするの。
 妹の弾んだ声が耳に蘇った。妹はアルコールにそれほど強くないが、美しいカクテルの名前を愛しており、いつも違う種類のものを頼んでいた。ブルームーン、イエロー・サンセット、エンジェル・ウィング、オレンジ・ブロッサム、カフェ・コレット――。エッグノッグもそうした基準で選ばれて一緒に飲んだ事がある。
 無意識に食いしばっていた口元が、自然と緩んだ。カクテルの名前を数え上げる男の口調が、記憶の中にある上機嫌な妹の声と重なっていく。その途端、見知らぬ人間にまで刺々しく接している自分がひどく滑稽に思えてきた。己の不機嫌さを隠そうとせず、仕事にかこつけて周りに八つ当たりする上司を散々軽蔑していたのに。
「それならエッグノッグで」
 言葉少なに了承の意を伝えると、男は軽い安堵の表情を見せて注文を伝えた。バーテンダーが準備をしている間、今は何を飲んでいたのかと尋ねたのでスティンガーだと答えると、何やら納得したらしく深く頷いている。
「スティンガー……針か。いいね。中世の武器にもあったな。それこそ針のような鋭い剣で」
 男の口調には非難の色など微塵もなかったが、ビジネススーツで刺々しく一人酒をしている小娘には似合いのカクテルだとアメティストスは内心で自嘲した。スティンガーはブランデーにミントリキュールを混ぜたカクテルで、上品な琥珀色をしているが、名前には針の他にも毒牙、毒舌家といった意味がある。エッグノッグが出来るまでに片付けてしまおうと、アメティストスは男の目から避けるようにして残りを飲み干した。
「カクテルの名前はどれも由来が気になるものばかりだね。私が頼んだのはイーグルス・ドリームというものなんだが、実は最初イーグルスをイーストだと勘違いしていて『東の夢』――アメリカ開拓地時代に西へ西へと進んでいった男達が、東にいた頃が懐かしんで夢を見ている――という感傷的な意味なのかと勝手に思っていたんだ」
 例の卵白を使うカクテルの事だ。夕陽が沈む荒野、砂煙をあげてがたがたと通り過ぎる幌馬車、つるはしを奮う土まみれの男達、というステレオタイプな西部劇の風景が瞼に浮かぶ。やんわりとした男の語り口に釣られ、アメティストスも相槌を打った。
「実際はイーストじゃなくてイーグルスなんだっけ」
「そう。イーグルス・ドリーム。鷹の夢」
「そっちだとどういう意味に?」
 尋ねると、どうだったかな、と男はバーテンダーに質問を受け渡した。思いつきで頼んだだけで特に詳しくはないらしい。バーテンダーはリキュールを混ぜる手を止めないまま苦笑して、直訳の『鷹の夢』ままですが男の欲望という意味もありますよ、と答える。常連なのか二人のやり取りにはよどみがない。男が初めて罰の悪そうな顔をした。
「……参ったな。ちょっと下心がありすぎる意味だね。単純に色が綺麗だったから飲もうかと思ったんだけど」
「色?」
「淡い菫色なんだよ。君の髪みたいに」
 アメティストスは半ば呆れ、半ば感心した。これが彼の売りなのか、あるいは素なのかは分からないが、こういう台詞を自然と言ってのけて軽薄に聞こえないのは一種の才能である。眉尻を下げて弁解する男の表情には相変わらず大型犬を連想させる要素がふんだんに盛り込まれていた。猫っぽい目元にさえ人懐っこい気配が満ちている。じっと相手を観察しながら、これから始まるちまちまとした腹の探り合いが面倒になり、アメティストスは唐突に切り出した。
「それで、これから私を口説く予定は?」
 男は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに苦笑する。笑うべきか傷つくべきか迷った様子だったが、言いよどむような事はせず、やんわりと切り返してきた。
「……それはつまり、口説いてもいいのかな」
「逆。牽制してる。こっちは憂さ晴らしに来ているのに、生々しいものを持ち込まれてもうんざりするだけだから、早いところ目的を聞いて対処しておきたいだけ。もし私の自意識過剰なら謝って、お詫びに何か奢る」
「成る程。合理的だね」
 淡々と畳み掛けるアメティストスの口調に耳を傾けながら男は頷いた。困惑の苦笑が緩やかに解けていく。
「勿論、興味はあるよ。こんなところで声をかけるくらいだからね。苛立っている女性は大抵お近づきになりたくないものだけれど、君みたいに苛立ちが絵になっている女性なんて他に見た事がないな。ぴりぴりしているのに空気が澄んでいて、まるで世界全体に憤っている正義の味方みたいだった。最初に席に着いて、ざっと髪を解いた時なんて、まるで変身を解いたみたいで」
 軽い抑揚をつけて男は言った。店内の音楽がいつの間にかジャズに変わっている。
「でも君が嫌なら、口説くのは止めておこう。退治されるのが目に見えているからね。こうして雑談するくらいは許してくれるかな。誰かと話したい気分だったんだ」
 男の声は真面目だったが、おどけているのは口調の端々に感じられた。何だか妙な評価を受けているなとアメティストスは眉間に皺を寄せたが、まあいい、と頭を切り替える。少なくとも誰かと話している間は歯を食いしばらずに済むのだ。鎮静剤代わりだと思えばいい。
 了承すると、彼は改めて隣の席に移動した。店内の照明が彼の背に遮られて暗さを増し、二人で飲むという事態が急に現実味を帯びてくる。男はジャケットのポケットを軽く抑えて「煙草を吸っても?」と尋ねた。
「出来れば止めて。気分じゃない」
「そう、分かった。君は吸わないんだね」
「時々しか」
「ふふ。さぞかし似合うだろうな」
 いくら時代が変わっても喫煙する女性を疎む男は多いが、彼は一向に頓着していない様子だった。鷹揚な態度を前にかえって露悪的な気分になる。
「煙草を吸っていると黙りがちになるだろ。口にくわえたまま喋ったり。きちんとしたペースで煙草と会話を交互にこなす奴もいるけれど、そんなのは稀な方だ。少なくとも私は黙る口実が欲しい時に煙草を吸うから、一対一の時に相手が煙草を吸いだすと、ああ、そんなに話す必要はないのかと感じる」
「それを聞いたら尚更、吸う訳にはいかないな。君と話したいと頼み込んだのは私の方なんだからね」
 こちらの失礼な言いぐさにもどこ吹く風で、男はジャケットのポケットから手を退けた。先程から意識的にふてぶてしく振る舞っていたが、どれも軽く流されている。
「本当の事を言うとね、一人で飲むのがあまり好きじゃないんだよ。どうも酒は誰かと一緒に飲むものだって意識が抜けなくて、一人で晩酌の用意をしていると、何だか醒めちゃってね。人のいる場所に来てしまう」
「だから声を掛けたの?」
「卵を使ったカクテルが飲みたかったのは本当だよ。ちょうど隣に君がいたし」
 男は目の端でちょっと笑った。それが真実なのか口実なのか、会ったばかりのアメティストスには判断する材料がない。他の客にも同じよう酒を奢ったりするのだろうか。
「煙草だけじゃなく、炎にも人を黙らせる力があるね」
 彼はカウンターに置かれた掌サイズのキャンドルを視線だけで指し示した。
「この前、友人が焚火同好会の話をしてくれたんだ。釣りのついでにやるらしいんだけれど、流木を集めて、即興で焚火を作って、ただそれを眺めるだけの会らしい」
「ふうん……。魚を焼いたりは?」
「しないそうだ。友人が言うには――炎を囲む事は最も原始的な祈りの儀式なのだから、それで充分なんだと。癒し系の動画を提供する携帯アプリにも『炎』というカテゴリがあるらしい。暖炉の火や焚火の火がぱちぱち音を立てて静かに燃えていくのを、延々とリピートして見せてくれるんだそうだ。利用者も多いらしいよ。煙草といい、確かに炎には沈黙を許してくれるような空気があるね。考え事には向いている」
「……逆も多いんじゃないか。キャンプファイヤーの火、魔女狩りの火、夏の花火。華やかで攻撃的な火」
「ああ、それもそうだね。盛り上がりにも欠かせないな。火力の違いだろうか」
 思案するように男はテーブルの上に伏せていた指を組み替える。話し合いをしている最中も意味もなく物を掴んだり掌を擦りあわせたりと指先がうるさい人間がいるが、彼の動作はごくゆったりとしていた。横目でそれを見下ろしながら微かに羨ましくなる。
 幼い頃は引っ込み思案で、人前に出るといつも服の裾を弄っていた事を思い出した。我ながら見っともなく思えたので中学に上がる頃には矯正したが、その代わりが、人知れず奥歯を噛み締めてしまう事なのかもしれない。表に出せない緊張や苛立ちを指先ではなく口内に移し替えただけだ。
「……人間が火を使うようになった頃の感覚が、今もまだ残っているのかもしれない」
 アメティストスは投げやりに切り出した。一度も考えた事のない議題だったが、ぽんと口から零れてきたのだ。男は興味を惹かれたように「例えば?」と続きを促す。
「人が猿だった頃なんて、雷が落ちて木が燃えたとか、火山が噴火したとか、そういう事がない限りは火なんて手に入らなかったんじゃないか。火を持ち帰って、住処の真ん中に安置する。夜になって真っ暗闇になっても、これさえあれば心強い。そう思えば神妙な気持ちになるし、もし消えたらどうしようと不安になる。こういうキャンドルみたいに小さい火なら尚更だ。燃え尽きないか、無意識に見守って黙り込んでしまう」
「成る程。じゃあ、大きい火に興奮するのは何になるんだろう」
「それこそ火山の噴火とか――いや、やっぱり獲物を焼く時に大喜びした事の方かな。生肉じゃなくて、いい匂いのする美味い肉が食べられるなら、そりゃ興奮するはずだ。早く食べたいから薪を足して盛大に燃やす。だから人の心を掻き立てる」
 芋づる式に勝手な推測が掘り出されてきた。もしかにしたら妹に進められて読んだ本にでも書いてあったのかもしれない。古い書物を広げて日に焼けた紙の匂いを吸い込んだ時の、懐かしい知識の匂いが鼻孔に蘇った。男もアメティストスの話を面白がっているようである。
 口説くなと釘を刺したせいなのか、その後も毒にも薬にもならないような雑談が続いた。この手の場所でよくある「ここにはよく来るの?」だとか「仕事は何を?」などと言った話題に触れない。焚火の話の後はバーの内装から連想して、スペインの古城がどういうものなのかと二人でぽつぽつと話し合った。
 鼻高々と薀蓄を披露して周りをうんざりさせる人種がいるが、男の持ち出す話題は知識というほど確かなものではなく、いっそ空想的なものだった。入口は雑学でも途中で脇道に逸れていく。そのせいか口を挟みやすい。普段は使わない頭の部分で会話をしている感覚があった。社交辞令も利害関係も生産性もない、ふわふわとした会話。
 けれどもどこかで、男女としての緊張感は漂っていた。それはそうだ。ここはそういう場面なのである。言葉の選び方、視線を移す際に何かを盗み見る目さばき、その中に好意を計る一瞬がある。
(……どうしようか)
 彼女とて男性経験がない訳ではない。妹ほどではないが学生時代からアメティストスに思いを寄せる男は少なくなかったし、年相応の事を経験しておくのも悪くないかと、何度か告白にOKを出した事もあった。高校の頃に一回、大学で二回。そうして分かったのは自分に恋愛願望が全くないという事だった。便宜上の恋人と過ごしていてもサイズのずれた靴を履いているような違和感ばかりが膨れていき、どうにもしっくりこなかったのである。気の乗らない付き合いをしていれば相手にも伝わる。結局、長続きはしなかった。バーで飲むようになってからも声をかけてくる男はいたが、こんなに話し込んだのは初めてなので、安易に比較はできない。
 ぼんやりとそう考えていると、やがて注文したカクテルが出来上がった。バーテンダーは最初、お菓子作りをするように卵を割り、器用に殻を使って二つに分けていたが、卵黄は小さな片手鍋に入れて火にかけたまま、しばらく放っていた。一方、卵白の方には何種類かのリキュールと混ぜてシェイカーで振るだけだった為、先に出来上がったのは男の頼んだイーグルス・ドリームの方である。卵白の割合によって白く泡立つようにも出来るらしいが、今日はきちんと男のイメージ通りに淡い菫色のものに仕上げていた。
「君も一口飲んでみる?」
 男の言葉にアメティストスは片眉を上げる。温和そうな男の瞳の中に、先程までとは毛色の違う艶が微かに宿っていた。よもつへぐい、という単語がぱっと脳裏に浮かびあがる。学生の頃、講義で耳にした民間伝承。異界に迷い込んだ者が現地の食べ物を口にすると帰ってこれなくなる。その場所の食べ物を体に取り込む事で、自分もまた、その場所に取り込まれる。
(……あるいは単なる餌付けか)
 さりげない様子だが、彼の勧め方にもそうした駆け引きの要素を幾分か含んでいるように見えた。散々色気のない会話をした後だからこそ、その小さな変化が大きな揺れ幅となって目の前に突き付けられている。このつけが必ず回ってくるという薄暗い予感があったが、軽快なジャズをBGMにしていると、それも悪くないように思えてきた。彼と交わした実のない会話は、意外に楽しかったのだ。
 アメティストスは無言でグラスを受け取った。僅かに指先が触れたが、二人ともそれに大きな反応を示す事はない。受け取ったグラスを軽く揺らし、キャンドルの光で色を確かめてから口に含むと、ジンベースの味が舌先に広がった。
「どう?」
「――思ったより美味しい」
「それは良かった」
 男は慈しむような目で頷いた。化粧直しを怠ったまま口紅も落ちていたので痕跡はほとんどグラスに残っていなかったが、アメティストスは指先で唇の跡を拭い取る。いっそこのまま自分がこれを飲み続け、男にエッグノッグを飲んでもらったらいいんじゃないかと思ったが、男が片手を差し出したので仕方なくグラスを相手に戻した。さすがに男も同じ箇所に口をつけるような真似はせず、品良く一口目を楽しんでいる。
 程なくしてエッグノッグも出来上がった。ここまでくれば同じかと、相手にも一口勧めてやる。身内以外と回し飲みをするなんていつ以来だろう。エッグノッグは記憶のものよりも甘みが強いように感じられた。
「――こういう場面をどこかで見た事があると思ったら、ミステリー小説だ。バーで出会った男女が交換殺人を計画する話」
「交換殺人?」
 アメティストスがそう評すると、思いがけない話題だったのか男がくしゃっと笑った。
「いいね。お互いに恨みつらみを持った訳ありの男女が、バーで意気投合。接点がない二人だから警察にも疑われないからと、一夜限りの取り引きをする訳だ。素晴らしいね」
 にこにこしながら話に乗ってくる。幸い、お互いに殺したいほど憎んでいる人物はいなかったので架空の事件を想像しながら、その後も馬鹿馬鹿しい――男に言わせれば『極めてクリエイティブな話題』を幾つか話し込んだ。交換殺人の話、最近見た変な映画の話、一番好きな古代文明の話。最初は心配げにこちらを見ていたバーテンダーも、今では安心したのか他の客の相手をしに行っている。
 終電の時間を気にする頃、おもむろに男が両手を組み替えながら切り出した。
「良かったらこの後、部屋で飲み直さないか。実は昨日からここに泊まってるんだ」
 アメティストスは眉を寄せる。今更だが、このバーがホテルの中にあるものだったと思い出した。連絡先くらいは聞かれるかもしれないと思っていたが、まさかそうくるとは。
「口説かないんじゃなかった?」
 皮肉っぽいこちらの反応にも頓着せず、そのつもりだったんだけど、と男は言った。
「せっかく楽しく話が出来る女の子と会ったのに、このまま別れると後悔しそうだから。口説かれてくれるかい」
「……口説かれると思う?」
「さあ、どうかな。とても手強そうだ。でも、魔が差すって言葉があるくらいだから」
 アメティストスはしばらく黙って相手を見つめた。男の申し出はあくまでも穏やかで冗談めいていて、逃げ道も充分に残されている。それでも囁くような声音には一夜の恋を求める甘い響きが漂っており、それが意外なほど耳に心地良かった。成り行きに任せるのも悪くないかもしれないと、そう魔が差す程度には。



 男はレオンティウスと名乗った。
 案内された部屋は七階。よくよく考えればホテル自体がランクの高いもので、結婚式場や会議室もあれば、何故か日本庭園まであるハイクラスの場所だった。スイートを除いても、部屋はあらかじめダブルやツインばかり。だから部屋に入っていきなりダブルベットを見た時は、まさか最初からバーで女を調達するつもりだったのではと回れ右しかけたくらいである。このホテルには元々シングルプランがないのだとレオンは説明したが、さて、どうなのだか。
 しかしクローゼットにぶら下がっているビジネススーツといい、端をきちんと揃えてローテーブルに広げられている書類といい、いかにも仕事の為に滞在しているのは伺えた。部屋を開けた時にベッドメイキングされたらしく、寝台はホテルらしい無機質な几帳面さで整えられている。その生活感のなさがこの場が仮宿に過ぎない事を証明していた。アメティストスは上着をクローゼットに掛けながら、書類をトランクに押し込んでいるレオンの背中を眺める。靴を脱いで室内スリッパに履き替えるべきか迷ったが、何故かそれは躊躇われた。
「出張中?」
「そう。と言っても近場から来たんだけれどね。本部での定期報告会が昨日あったんだ。せっかくだから骨休めしようと思って、今日は有給を使っての連泊。それなりに常連だよ」
「そんな髪なのに会社員?」
 疑惑の眼差しを向けると、彼はトランクのジッパーを閉めながら、説明し慣れた口調で淀みなく答えた。
「会社員と言っても研究員も兼ねているから、ちょっと特殊な立場でね。服装にもとやかく言われない。それに――」
 レオンはトランクの前に跪いたまま自分の長い後ろ髪を右手で持ち上げると、ここに痣があるんだ、と言った。
「生まれつきでね。襟の高いシャツを着ても全部を隠すのは難しいから、子供の頃から髪を伸ばしていたら、それに慣れてしまって、今更切れない」
 悪戯に誘う少年のような声で、見てみるかいと言う。アメティストスは自分を近寄らせる為の嘘ではないかと疑ったが、覗き込むと、意外なほど白い首筋にはっきりと茶色い痣が広がっていた。うなじから肩にかけて、かなりの範囲にわたっているようである。けれども色が均一なせいか悲惨な印象は受けなかった。
「最初からこの色?」
「そう」
「ホットケーキみたいだな」
 痣を見せる態度が全く深刻ではなかったせいで、率直が感想が出る。不謹慎だったかもしれないと思い至るよりも先に、レオンが軽く肩を振るわせて笑った。
「そう、大したものじゃないんだ。ふふ、それにしてもホットケーキか、いいね、食べたくなってきた」
 ツボにはまったらしい。レオンは機嫌よくルームサービスで何か注文しようかと聞いてきたが、アメティストスは首を横に振った。バーでゆっくり飲み食いしたせいか腹は膨れているし、今更ホットケーキなんて甘ったるいものは食べたくない。そう答えるとレオンは笑いを収めて、部屋で飲み直すという名目をアメティストス自身が捨てた意味を推し量るように、しんとした目でこちらを見た。
 自分もいい大人だし、のこのこ部屋までついてきたくらいである。心の添わない関係だろうと、二人の求めるものが一致するのであれば、そろそろ境界を破るのにいい頃合いだった。
 という訳でそこからレオンの『口説き』が始まった訳だが、具体的に何と言われたのか、肝心なその部分は覚えていない。先程までチグリス川がどうのナイル川の氾濫がどうのと呑気に語っていたのに、よくもまあ同じ口でこんな台詞を恥ずかしげもなくぽんぽんと言えるものだなと呆れたせいだった。妻子もいなければ恋人もいないと自己申告されたので、ここで関係を持っても面倒事に巻き込まれる可能性は少ないなと頭の隅で算段していたせいもある。言葉の内容よりも、次第に親密さを増していく彼の低い声の深まりの方が印象に残った。レオンはもはや欲望を隠そうとはせず、ストレートな言葉や熱のこもった瞳でアメティストスに魅力を感じている事を伝えてくる。順番にシャワーを浴びた後はとんとん拍子にベッドに招かれた。
「この髪が気になっていたんだ」
 洗いざらしの後ろ髪を一房、ゆったりと持ち上げられる。古い映画にでも出てきそうな気障な仕草だった。絶滅危惧種の男、という単語が思い浮かぶ。実際にレオンの愛撫は丁寧で、手際よく服を脱がされた後には体温を馴染ませるような肌の触れ合いが続いた。覆いかぶさっている相手の肩のあたりを眺めながら、こちら側からは見えない痣の形をなぞって首裏に両腕を回す。
 知り合ったばかりの男の腕に包まれている、その秘密めいた空気が、共犯者としての二人の一体感を強めていた。洗いたての肌の匂いと、整えられたシーツの清潔な手触り。これが明日に続くものなのか、分からないまま非日常を楽しむ。
「キスしても?」
 吐息のような問いと共に、親指が唇の際をなぞっていった。閉じていた目を開けると、かちあった視線の強さに微かに怯みながら、今更、と返す。
「……ここまできて、別に聞かなくても」
「抵抗があるんじゃないかと思って」
 アメティストスは胡乱に首を傾げた。取り立てて意識はしていなかったが、言われてみれば確かに、体を繋げる事と唇を重ねる事ならば、前者よりも後者の方が心理的な影響が大きいのかもしれない。呼吸が交わるからだろうか。先程のバーでならばこの話題について議論できたかもしれないが、今は時間が惜しかったので、了承の意味を込めて自分から首を伸ばし、相手の唇に触れた。僅かな間を置いてから、それはゆっくりと押し返され、腹の底に響くような深いものへと変わっていった。
 知らない部屋、知らない匂い、知らない指先。数時間前までは想像もしていなかった重たい吐息の中で、良識のある遊びなのだと確認するような手順で物事が進められていく。舌を絡めると、相手の熱を直接喉の奥にまで流し込まれていくような感覚がして、アメティストスは微かに腰を浮かせた。
 やがて準備も整い、入れるよというご丁寧な予告の末に、高まった肌が重なり合う。せりあがる違和感に息を詰め、大丈夫かという低い問いかけに頷き返した。鈍い痛みはあったが無視できる程度のもので、律動が始まれば、後は本能に促されるままのお決まりのコース――のはず、だった。
「―――っ、ぁ、」
 びくっと体が跳ねる。
 ぞわぞわと背筋を貫いたのは、届くべきではないところに届いてしまったとでも言うような、そんな、冷や汗の滲む鋭い快感だった。甘さよりも焦りを含んだ声が、自分でも意外なほどに大きく部屋にこだまする。体勢を立て直そうと歯を食いしばったが、次の瞬間、また同じような衝撃が襲いかかってきて、アメティストスは珍しく狼狽した。
 何だこれは。
 男性経験は人並みにある。交際は長続きしなくとも、性にまつわる衝動は知っているつもりだった。けれどもそれはあくまで自分の手の内に収まるもので、こんな、予想外の場所に投げ出されて身動きもとれないような世界があるとは知らなかった。
 レオンも驚きの入り混じった表情でこちらを見下ろしている。腰の動きを止め、まじまじとした口調で尋ねてきた。
「気を悪くしないで欲しいんだが……その、もしかしてこういう事をするのは、久しぶりなのかな」
「……そっちこそ」
 互いを驚愕させる体の相性に、そんな間の抜けた質問をしてしまうくらいである。
 酒の影響もあるのだろう。しかし最初だけかと思いきや、その後も快楽は上塗りされていき、お互いにどうなっているんだと戸惑まったまま、あれよあれよと一度目の絶頂を迎えた。熱が引く気配もなく連鎖的に次の行為が始まり、汗ばんだ肌がぶつかる余裕のない音が響く。悶絶するほどの快楽という、初めて遭遇するものの巨大さに途方に暮れながらも、拒絶よりも先に好奇心が勝った。この先に何があるのか、見極める為の試みが続く。
 めくるめく夜、などという生易しい表現が笑えるくらいの強烈な体験だった。何度意識を失いかけたか知れない。手探りのまま求め合い、熱を貪った後、ようやく満ち足りて崩れ落ちたと思えば、既に夜も薄らいでいる。カーテンの向こう側では朝の光が順番を待っているような時刻だった。
「……ごめん。加減ができなかった」
 水を飲むかと聞かれたので目線だけで応じる。何か言うのも億劫だった。シーツに突っ伏して強い余韻から抜け出そうと呼吸を整えていたが、まだ体内に相手の熱が残っているような心地がする。レオンは一見すると涼しい顔に見えたが、額に浮かんだ汗を手の甲で拭い、ペットボトルの水があったと寝台から起き上がる動作はいくらか気怠そうに見えた。
(……相性って本当にあるものなのか)
 今日が休みで良かった。日付を超す前に、妹に今日は帰らないと連絡しておいて本当に良かった。
 レオンからグラスを受け取って、水を飲み干す。とんでもない境地に共に至ったという連帯感が二人の間に生まれていた。ローテーブルに煙草のパッケージが置いてある事に気付き、あれも欲しいと掠れた声で訴えると、空いたグラスを片付けようと腰を浮かしかけていたレオンが口の端でちらっと笑った。
「黙り込む口実みたいで嫌なんじゃなかった?」
「……今は喋る気力もないから、ちょうどいい」
 レオンは手慣れた動作でライターで煙草に火をつけ、持ち手を向けてアメティストスへ差し出した。遠慮なく頂戴する。ゆっくりと紫煙を吐き出すと、ようやく正気が戻ってきた。
「私にも」
 そっと右手から煙草を抜き取られた。横を見ると、頓着なく吸いかけの煙草を咥えた彼の姿がある。ふとカクテルを回し飲みした時の記憶が鮮やかに蘇った。
「もう一本つければ?」
「そこまでじゃないから」
 はい、とまた煙草をこちらに寄こす。彼はそのままアメティストスが一本吸いきるのを満足そうに眺めていた。今更だが、年下の小娘相手に彼がこれだけ鷹揚な態度を取るのは何故なのだろうかと不思議に思う。年長者だからと言って常に敬意を払う存在だとは限らないが、少なくとも自分ならば、最低限の礼儀もなっていない人間なんて相手もしないのに。
 甘ったるい煙の香りが髪に染み込んで、シャワーを浴びる気力が湧いてくる頃、こちらの肩に唇を落として、連絡先を聞いてもいいかな、とレオンが囁いた。
「今夜の事を気紛れにしたくないんだ。君も、そう思っていてくれたら嬉しいんだけれど」
 色気を含んだ流し目を寄こす。バーではあくまで紳士的な態度だったのに、今になってこういう顔をするとはカードの切り方が独特だなと他人事のような感想を持った。だが最初から彼がこんな顔をしていたら――少なくとも自分は胡散臭いと見切りをつけて、共に飲んだりはしなかったかもしれない。実際に手馴れているのではないかという疑いは今でもあったが、それはお互い様だろう。たまたま出会って一夜を共にするという事は、そうした危なっかしい要素を呑み込む事でもあった。それでも尚、一歩二歩と歩み寄って、こうして続きを望むのならば。
(もう一度、会うくらいはいいか)
 魔が差す夜の次には、魔が差す朝がある。思考能力も低下している気怠い時間に、彼の誘いはそれほど悪く聞こえなかった。出張中だという彼が再びこの場所に泊まりに来るのはいつなのだろうかと思考を巡らせて、言葉にしない感情の行き来を視線で交わしてから、アメティストスは頷いた。





END
(2015.04.07)
アフターでバーに連れて行ってもらったよ記念。やっぱりトレンディは私の引き出しに入っていなかった。
中の人の話になりますが、れぼさんとウツさんが二人で飲みに行った時に古代文明(?)などの話をした、というエピソードが凄く二人らしくて好きです。



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